銀幕症候群 症例Ⅱ

 自らの欲望を肯定してくれない社会に生きる人間は不幸だ。少なくとも、わたしの知る彼はそのことで悩んでいるらしかった。彼が望むのは、「人を殺しても罪に問われない世界」であるらしい。人を殺したい。その切実な欲望のやり場に、彼は困窮していた。わたしは、「一度、人を殺してみたい」とか、「特定の相手を殺したいほど憎く思う」とかそういう気持ちなら理解できるのだが、「どうしても、人を殺さなくては自分は生きていけない」とは考えたことがない。その点において、わたしと彼はまったく別の個体であったと言える。彼は人を殺さなければ生きられない、そういう人間だった。彼にとっての殺人は食事と同義であり、また娯楽の一種でもあった。生きることのすべてであったかもしれない。だがこの国において、殺人は合法的行為ではない。必然的に、彼は我慢を強いられた。彼は平和なこの国で、法を守るためだけに誰も殺さなかったが、その代りにひたすら飢えた。

「俺は我慢して生きていく。もしかしたら、いずれ殺人を合法とする法律ができないとも限らないし、そのときが来るまではできるかぎり誰も殺さない。もしも俺が飢えすぎて頭がおかしくなって暴れ出したら、先生は全力で逃げてくれ」

この『飢えて頭がおかしくなる』というのは、彼が常に持っている自己の未来のビジョンである。無人島に漂流して食糧がなくなった人間たちがお互いを襲って食べてしまうように、彼もいつか殺人願望に脳を支配されて誰かを殺してしまう。……少なくとも、彼自身はいつかそうなると信じている。もしかしたらそのときの犠牲者はわたしであるかもしれなかった。だが、わたしは彼から離れようとは思わなかった。純粋に、彼が今後どのような行動をとるのか興味があった。それは研究的な意味での興味でもあった。倫理と欲望が相反している場合、人はどのような思考に至り、どのような行動をとるのか。彼はその貴重な研究サンプルといったところだ。
 もしかしたら、彼は精神病なのかもしれない。しかし、それを他人が決めたところで何の意味があるというのだろう。彼の欲望が本物か偽物か、病気かそうでないか、異常であるか正常であるか、そんな決めごとには何の意味もない。後付けの理屈なんて、ナンセンスにもほどがある。彼は切実に人を殺したいと思っているが、今は殺したくないという。欲望を押さえて倫理を必死に守る。人を殺すことは犯罪だが、人を殺したいと思うことは犯罪ではない。彼は悪いことは何もしていない。欲望に負けて本当に誰かを殺すその日までは、彼は正常で健全な一国民なのだ。


 だが、奇妙なことに彼が法を犯して人を殺す未来は、結局訪れることがなかった。
 なぜなら、法律の方が先に変わってしまったからだ。
 現在の日本では、ある条件をクリア―すれば合法的に殺人を犯すことができるようになった。いわゆる銀幕症候群の流行によって、人間が人間でなくなる可能性が生じたためである。人間でなくなった患者たちは、殺さなければ人を惨殺しつづける。一刻も早く彼らの息の根を止めることが、国民の義務――という単語には個人的に、少し首をかしげざるを得ないのだが――になったのである。
 わたしはといえば、銀幕症候群自体には特に関心が持てなかった。しかし、銀幕症候群の流行というトリガーによって彼がどう行動するか、という問題には多大なる興味があった。もう、彼は我慢しなくていいのだ。感染者を探して、その手で殺してしまえばいい。それは倫理的に間違った行為ではなく、むしろ無駄な殺戮を未然に防ぐ善行だからだ。
 法的倫理なんて簡単に覆る代物で、最初から大した意味も価値もなかった。そして、法律が覆ることによって人間が大きく変わるのかと言えばそうでもなかった。殺人が合法になっても、町が死体と殺人者であふれ返って収拾がつかなくなるわけではなく、感染者のいない地域での日常は変わらずに続いていた。さらに付け加えるなら、彼は街に繰り出して人を次々と殺していった……わけではなかった。むしろ、彼は家に閉じこもることが多くなった。わたしが部屋で実験を行っているのを、彼が隣でぼんやりとみている時間が急に増えた。彼は何をするでもなく、ただ魂が抜けたようにわたしと部屋で過ごした。
「どうして殺さない?」とわたしは尋ねたかったが、結局その問いを彼にぶつける機会はなかった。彼は怯えるように体を縮めて、震えているように思えた。そんな彼にその問いをぶつけることが、ひどく残酷な事のように思えたのである。


 ある日、そんな彼は絶望の奈落へと突き落された。長いこと一緒に過ごしていたわたしが、銀幕症候群に感染していることが判明したのだ。政府は感染が判明した場合、感染者をできるだけ早く殺すことを義務付けている。少なくとも発症前には殺しておかなければ、関係のない犠牲者が出ることはほぼ間違いない。流行当初はしかるべき病院で全身麻酔を施したのちに専用の機械で首を絞める、という安楽死的なやり方が推奨されていたが、現在は政府の指令系統がうまく働いていない上に、医療機関もほぼ壊滅状態にあるため、とりあえず「首を絞める」という方法だけが形式として残されている。首を絞める以外の方法で殺した場合、患者はウイルスの力で暴走する可能性があるらしい。このあたりのメカニズムは完全には解明されておらず、今後も解明されるとは思えない。
「さて、君はどうする?」
とわたしは彼に問いかける。彼は震えている。
「君がずっと願っていた状況じゃないか。君は自分の願望を抑えて、我慢して、今まで完璧に生きてきた。その願望が嘘じゃない、本物の切実な願いだったことを、研究者であるわたしは一番よく知っていたよ」
彼はわたしの目を見ようとしない。
「でも、今はどうかな。君は戸惑っている。今まで君を否定しつづけてきたこの国の法律が、急に君を受け入れてしまった。拒みつづけてきたものが、唐突に君を受容した」
彼はベッドに横たわるわたしの隣で床に膝をついて、ただ震えている。
「さて、君はどうするべきなのか?」
彼は答えずにゆるゆると首を振った。この男は現実を拒絶したいのだ。どんな現実であれ、彼の思い通りになることなんて何一つない。それは、銀幕症候群が存在してもしなくても、法律が変わっても変わらなくても、同じだった。
「わたしを殺さないと、君はいずれわたしに殺されてしまうよ。それでもいいの?」
その言葉は、これまでにも何度か彼に伝えたものだった。逃げるか、殺すか、殺されるか。選択肢は三つしかないのに、彼は選ぶことを放棄しているように思えた。ここでわたしが発症したら、目の前にいる彼はすぐに死んでしまうのに。そんなのは無駄な犠牲で、誰も望んではいないのに。
「俺は先生を殺したくなんかないよ」
とようやく彼は声を出した。まるで生まれて初めて声を出したかのように、かすれていて小さな声だった。彼はわたしのことを先生と呼ぶ。その響きには敬意と少しの畏怖が感じられる。
「いや、俺は誰も殺したくなんかないんだ。人を殺したいとは今でも思ってるし、きっとその願望は実際に存在するんだろうと思うけど、けど……」
誰も殺したくない、という言葉と、人を殺したい、という言葉の間には矛盾が生じているように思えるのだろう、彼は困ったように首を振りつづける。両手で頭を抱え、すべてを拒絶するように体を丸め、彼はひたすら苦悩する。そんな彼に、わたしはこう声をかけた。
「つまり、君はようやく気付いたわけだ。君の抱える願望は『誰でもいいから顔の見えない、知らない誰かを殺戮したい』というものではあるが、ある特定の個人の未来を奪いたいわけではないということに」
人、という単語には様々な意味がある。人を殺すという行為自体にも、さまざまな意味と意図がある。たとえば他人を傷つけることに性的な興奮を感じる快楽殺人者、たとえばいらない人間を掃除するという概念に支配されたテロリスト。間違った考えの人間を消してしまう独裁者も、戦争で人を撃ち殺した兵士も、みんな人殺しである。彼の場合は人体を破壊したいという純粋な衝動が先行していて、殺される側のパーソナリティの喪失にはあまり執着がないように見受けられる。要するに、彼は誰でもいいから殺したかったのだが、殺すことで誰かが不幸になるのは嫌だった。命を奪いたいとは思っても、人格を奪いたいとは思わなかった。だから殺さなかった。彼は、意思を持たない、未来を持たない、感情も感想も家族も一切持たない、そんな相手を求めていた。そんな人間は存在しない。彼は殺人者にはなり得なかった。
 しかし、彼が抱えていた願望が嘘っぱちだったのかというと、決してそうではない。彼は殺したい衝動と、殺したくない、殺してはいけないという倫理の間で震え続けていたのだ。長い間、その倫理は法律が作ったもので、法律さえ変わればなくなるものだという概念が彼を支配していた。わたしも、法がなくなれば彼の精神は自由になるかもしれないと思っていたくらいだ。でも、そうではなかった。彼を殺人から遠ざけるのは法律ではなく、彼自身が心の底に持つ、圧倒的で威圧的な彼自身の倫理、道徳心だったのだ。
「法律なんて関係なかった。君は君自身に縛られていた。今も昔も、そうだ」
わたしはあえて穏やかに笑って、こう付け加えた。「しかしながら、銀膜症感染者はもう人間ではないのではないかな」
彼は一瞬面食らったように黙ったが、すぐにこう言った。
「でも俺は殺せないよ。俺のことを見ててくれた先生を、殺すなんてできない。先生は、俺のことをずっとずっと、そばで見守っててくれた。人を殺したい、って言っても受け容れてちゃんと相手してくれた。俺はそんな先生のこと、すごく大切な家族みたいに思って……」
「奇遇だな。わたしも、君を出来の悪い弟みたいに思ってた気がする」
彼は泣き笑いのような表情になって黙った。そんな彼に、わたしは言った。
「もうすぐ、わたしは発症する。そうしたら、もうわたしはわたしじゃなくなるだろう。きっと、君はすぐに殺されてしまう。だから、これはわたしの最後のお願いだ」
わたしは彼に手を伸ばした。横たわったままだから、ベッドの外にいる彼には届かない。
「逃げてくれ。わたしが発症しても、わたしの手が届かないくらいに遠くへ。そして生き延びてくれ。君の行く先には別の銀膜症患者がいるかもしれないし、他の理由で死なないとは限らないけれど、でも今は」
わたしはその単語を、もう一度力強く繰り返す。彼の心にちゃんと届くように、できるだけの願いを込めて。
「――逃げてくれ」
彼はもう笑ってはいなかった。ただ泣いていた。声を殺して、ひたすら泣きつづけている彼の存在を感じつつ、わたしは目を閉じて眠りに落ちようとしていた。きっと、次に目を覚ますとき、わたしはわたしではなく、銀膜症のウイルスに完全に支配された怪物になっているだろう。今はただ、その瞬間に彼がわたしの目の前から消えてくれていることを、心から願った。

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