トッテム・タウンのはずれに、いわゆる"レトロ喫茶"がある。この手の店は、店主の趣味を反映した調度品(バイク、人形、映画など)で形成されていることが多いようだが、このレトロ喫茶は、『理科』をコンセプトとしているようだった。壁際にはフラスコやアルコールランプなど、小中学校を卒業したものならばかならず見たことのある実験器具が並べられている。壁に貼られているのは周期表だし、飲みものを入れるコップも、どこかビーカーに似ている。マスターに聞いたところ、これはビーカーそのものではなく、特注のグラスだということだ。
 理化学実験用具が数多く並べられたその場所は、知る人ぞ知る癒やしスポットなのである。

 そして、なにを隠そう、わたしはこの理科喫茶のマスターの友人である。……といっても、たいした仲ではない。大学をサボって喫茶店に訪れているあいだに、気さくなマスターに話しかけられ、意気投合してしまっただけ。

第二話


「それでね、マスター。このあいだ、ふしぎなことが起きたの」

 ビーカー風グラスになみなみと注がれたオレンジジュースを飲みながら、わたしはマスターに話しかけた。
 マスターは、「お、なになに?」ときらきらした目でこちらを見る。
 彼のもじゃもじゃした天然パーマの黒髪のなかには白髪が混ざっていて、おそらくはわたしの父や母と同い年くらいなのではないかと思われる。が、ロイドめがねの奥の目の輝きは妙に子どもっぽくて、親しみやすい。
 やっぱり、喫茶店経営などという趣味の遊びに興じているから、だろうか。
 わたしは、このあいだの「ゼリー状の怪物の触手にとっ捕まったけど謎のヒーローに助けられた事件」について、かいつまんで話してみた。あの出来事は、親にも友だちにも言っていない。どう考えても信じてもらえないからだ。
 でも、だれかに言っておきたくて、ここへ来てしまった。夢想家であるマスターなら、わかってくれるような気がしたのである。
 
「ほうほう、そんなことがあったんだねえ」

 と、いつものおおらかな調子で、マスターはうなずいた。ほんとうに話を聞いていたのかどうか、疑わしくなるくらいのゆったりとした笑みで。そして、彼は次にこう言った。

「ぼくも、その緑色のスーツのヒーローに出会ったことがあるなあ。そういえば」

 さらりと衝撃的なことを言われたせいで、反応が遅れてしまった。

「マスターも、会ったことあるんですか!?」
「ああ。この喫茶をはじめる少し前くらいだったかなあ。深夜、業務スーパーに買い出しに出かけたんだよね。そうしたら、きみのときと同じような謎の空間に入っちゃったみたいでさ。そのときに彼が助けてくれてねえ」

 もしかして、トッテム・タウンではよくあることなのだろうか。怪物に襲われて、ヒーローに助けられる。そんなの、子ども向けの娯楽のなかだけの話だと思っていたのだけれど……。

「いやー、あのときは困っちゃったよ。せっかく買ってきた食材がぜんぶパーになっちゃってねえ」
「困るポイント、おかしくないですか?」

 マスター、意外と図太いな……と感心しているところへ、お客さんがひとり入ってきた。
 くたびれた黒いスーツを着て、妙にとがった目をした30代から40代くらいの男だ。その目つきの悪さからは、尋常ではない気迫を感じる。まるで殺し屋みたいだ。その気迫から、目が離せなかった。
 彼がカウンターの前を通過するとき、わたしのほうをちらりと見て、ぷいっといじけたように目をそらした。……ような気がした。
 どこかで会ったことがあるのだろうか?
 こんな目つきの悪い人、一度見たら忘れない気がするが。

「マスター、アメリカンコーヒー」
「あいあいさー。角砂糖、いつもどおり5個つけておくからね」
「ああ」

 最低限の注文だけして、彼はわたしのいるカウンターからだいぶ離れた、4人がけのテーブルについた。
 角砂糖、多いな……顔に似合わず、甘党なんだろうか。
 それまでは貸し切りだったのだが……彼が入ってきたせいで、ヒーローの話をする雰囲気ではなくなった。さすがに、初対面の人に、バカみたいな話をするやつだと思われたくない。
 時計を確認すると、ちょうど夕食の時間だ。
 きょうのところは帰ることにして、席を立った。

「話を聞いてくれてありがと、マスター」
「あきらちゃんこそ、いつもありがとねー!」

 ジュース代を受け取ったマスターは、にこにこしながら手を振った。
 マスターに背を向けて歩きだす瞬間に、ぽちゃん、と角砂糖をコーヒーに投入する音が、三回ほど聞こえてきた。

「……気をつけろ」

 その音にまぎれるように、だれかが小さな声でそんなことを言った気がしたのだけれど――振り向いてみても、マスターも黒スーツの彼も、わたしのほうを注視しているわけではなかった。
 たぶん、空耳だったのだろう。
 そんなふうに言い聞かせつつ、わたしは理科喫茶を去ったのだった。

 すべてを雑に処理して、いつでもなんとなく流されていく……それがわたしの生き方だった。途中で立ち止まって考えるのはとても億劫なことだから、できればしたくない。
 でも、漠然となにかに流される日々は、そろそろ終わるのではないだろうか。
 否応なく、なにかをやらなければならない日がやってくる……そんな予感がしていた。
20181022