白と黒の奏でるセカイ


第零話
 彼女の趣味は「探検」だ。幼い頃から、秘密の抜け道や隠れ家を探して歩くのが大好きだった。もしかしたら、その道の先には森の神様がいて、猫の形をしたバスで空を飛ばせてくれるかもしれない……なんて、そんな類の夢を見ていたときもあった。
 しかし現実には神様も不思議なバスも存在しない、ということに少女はかなり早い段階で気づいてしまう。それでも彼女は、探検をやめはしなかった。宝のない宝探しに何の意味がある……?と問いかけられたら、彼女はこう答えることにしている。
「探すこと、それ自体が宝物なんだよ」
小さな穴を抜けてたどり着く場所。自分だけが知っている隠れ家。こっそりお菓子を隠してある、木の箱。一人でひっそりと過ごせる場所。そのすべてが、大切な宝物だ。夢にたどり着くための手段ではなく、自己満足のための小道具でもなく。全部が、目的と繋がっていた。
 でも、彼女はたまに思うのだ。自分の目的とは何だったろう。
 何のために。何を探して、自分はここにいるのだろう。
 そのことは考えたくない、と誰かが言う。しかし逃げたくはない。逃げることは負けることだからだ。
 だから忘れることにした。シンプルかつラジカルな結論。
 忘却することは逃げることではないのか、とは思わない。
 記憶自体がなかったことになっているのなら――それは逃げではないはずだ。


 初期化されています。
 パスワードを設定してください。

 その日彼女が廃屋で見つけたのは、そんな文句が液晶に表示された、ノートパソコンのような端末だった。
 一瞬迷ったのち、彼女は自分の誕生日を入力した。液晶ディスプレイの表示が変化する。
『あなたの名前は?』
 今度は迷うことなく名前を打ち込む。またディスプレイが揺らぐように変化した。
『大宮ましろさん。どうか、ぼくとお話していただけませんか』
「お話? パソコンと?」
『ぼくはただのパソコンではないのです。意思を持った、特別なアンドロイドです』
彼女は、瞬きを数回して――言った。
「嘘だ。日本の人工知能の技術ってそこまで発達してないよ」
『でも、実際にあなたとこうして会話しているではないですか』
ましろはむっとしたように、
「そんなの、LAN接続か何かでどこかと繋がってて、そっち側のパソコンを誰かが操作しているに決まってるじゃない」
ため息でもついたかのように、少し間をおいて。パソコンは答える。
『残念ながら、そんなハイテクな機能は備えていないのです』
「意思を持って会話する方がよっぽどハイテクノロジーだと思うけど」
『それは、誉めてくださっているのですか』
「違うよ、信じられないって言ってるの」
ましろは語気を強めた。
「パソコンが意思を持っているなんて――ありえないの」
ありえない、許せない、許容できない。そういった種類の感情に彼女はとても敏感だった。やがて彼女は他人を裁くことに義務感を覚え、積極的に誰かを裁定するようになるが、それはまた別の話だ。
『あなたが知っているより、世界はずっと広くて多様なのです。コンピュータが口をきくことだってあります』
「……そんな風に断言されると、ちょっとだけ自信なくなるけど」
でも、やっぱりありえないよ。液晶に向かって、そうつぶやく。
「だって、人の感情ってとっても多彩なのよ? 機械にトレースできるわけがないの。ましてやこんなに小さなディスクに、それを把握することなんて絶対無理。そんなの、中学生の私にだってわかる」
『……あなたがそう思うのなら、きっとそれはあなたの真実なのでしょう』
小さなパソコンは、高尚なことを言った。
『それはそれでいいのです。パソコンは話さない。液晶の向こうには必ず誰かがいる。強く強く信じる心と共にある限り……あなたの心は真実なのです、大宮ましろさん』
「……あなたの言うことは、難しくてよくわからない」
『わかる必要なんてありません。ああ、今日はバッテリーが限界のようですので、失礼します』
プツリ。唐突に電源が落ちた。パソコンは言葉を話していたわけではない。液晶に文字を表示していただけ。なのに、なぜか急に部屋に静寂が満ちたように思えた。
 まるで、それまでの時間は、誰かと話をしていたかのように。


 次の日もパソコンは同じ場所にあった。
「こんにちは」
と話しかけてみると、『やあ、今日も来てくださったのですか』と液晶に表示された。
「うん、あなたとお話がしたかったの」
社交辞令のように響いてしまったが、それはましろの確かな本音だった。
 廃屋に置き去りにされたパソコン端末。なんとなく、放っておけなかった。小さな子供を置き去りにしているような気分になってしまったのだ。ここにいるのは人間ですらない――ただの機械なのに。
『ぼくもあなたとお話がしたかった』
パソコンは淡々と答える。
『ここはとても退屈な場所で……あなただけが話し相手なのです、大宮ましろさん』
「ここを出ようとは思わないの?」
『ぼくには移動手段がない。それに、ぼくをここに置いていったのは、おそらく私の主ですから――もしかしたら、迎えに来るかもしれない。そう思って、待っているんです』
吐き出すように一気に文章が表示され……すぐに消えた。
「あなたの主って、どんな人なの?」
『さあ。あなたもご存じの通り、ぼくはすでに初期化されてしまいました。それ以前の記憶など……持ってはいません』
パソコンは語る。何の感情も見いだせない液晶パネル。だが、そこに表示される内容はとても深い悲しみに包まれているように思えた。LAN接続で外と繋がっている、誰かが動かしている……自分が出したそんな結論は、間違っていたと直感でわかった。このパソコンは、嘘は言っていない。こんなに悲しげな嘘は聞いたことがない。
 初期化されて、置き去りにされて、すべてを失ってもなお待ちつづける、なんて。
 少なくとも、自分にはできない。
「ねえ、あなたに名前を付けてもいいかな」
『名前、ですか』
「だって、会話するのに名前がないなんて不自由でしょう」
数秒の間の後――液晶が揺らめいた。
『わかりました。あなたの好きなように呼んでくださってかまいません』
「……マクロ」
ぼそり、と。ましろは言葉を落とした。
「わたしが『ましろ』だから、あなたはマクロ。白と黒で、お揃いの名前」
『マクロ……』
「『巨大な』……とか、そういう意味もあるの。コンピュータ用語にも同じ単語があるから、あなたはよく知ってるかもしれないけど」
彼女は、照れるように笑いを添える。
「小さな小さなあなただけれど――きっと心は誰よりも大きいはずよ。だって、あなたはわたしの心が真実だ、って言ってくれた。わたしを否定しなかった。そんなあなたと、わたしは――」
液晶を見つめた少女は、毅然としてこう言い放った。
「いいお友達になれる気がするの」
『ええ、ぼくもあなたとお友達になれたなら、とても嬉しいと、そう思います』

 それから、ましろとマクロは友達になった。過去を持たないマクロが自分のことについて話すことは難しい。必然的に、ましろが一方的に話をすることが多かった。
学校のこと。探検した建物のこと。家のこと。妹のこと。他愛もないことばかりだったけれど、ましろにとってはとても幸せな時間だった。
ずっとそんな日々が続くと思っていた。ましろにはもう、かつてマクロと話したいろんなことの内容を思い出すことができない。楽しかったからこそ、わざわざすべてを覚えたりはしなかった。その瞬間瞬間が楽しければ、それでよかったからだ。
すべてが――世界が終わったような気がするほどに静寂に満ちていたその日、ましろは呆然と立ち尽くしていた。いつものようにその場所へ向かって歩きだしたはずの足は、凍えるように震えた。
小さなパソコンが、ぽつんと寂しげに置かれていた廃屋は、取り壊されてしまっていた。工事現場の看板が立てかけられ、白い幕が引かれ、ましろはもう二度と、マクロには会えなくなってしまった。
突然友達が消えてしまったその日……ましろは、ある決意をした。
信じる、という決意。
もしかしたら、マクロに会えなくなってしまったのは、自分が最初、マクロを疑ったからかもしれない。だから、今度からは絶対に信じる。どんなに信じられないものでも、信じないと前に進めない。そう思うことにする。
またマクロに会うことがあったら、今度は絶対、消させない。ずっと友達でいられるように、ずっと一緒にいられるように。
まず最初にその存在を信じよう。
大宮ましろは、そう決めたのだった。



第一話
「さて、ここで改めて主張しておきたいのは、ミステリにおいてもっとも重要なファクター。それは知、インテリジェンスだということだよ、小林君」
大宮ましろは意味ありげに人差し指を立てながら言いきった。長髪をポニーテールにした少女は、その美しい見た目には似合わない口調で続ける。
「むろん、知的であるだけですべての小説がミステリたりえるわけではない。それでは、たとえば大学の講義の模様を延々と羅列したあの小説や、蘊蓄をひたすら長々とつづるあの小説もミステリだということになってしまう。そうではない、それくらいは愚かな君にもわかるだろう、ヘイスティングス」
ふっ、と馬鹿にしたような笑いを浮かべ、
「では他に何が必要なのか、だって? さてさて、君はその答えを本当に知らないのかい。知っていて、ぼくを試しているのではなかろうね。まあいい、教えてさしあげよう……」
なんだかぼくと問答を交わしているような口調だが、彼女と向かい合っているぼくは、何も言っていない。大宮ましろの趣味は一人芝居と読書。こいつはいつもこんな調子で、一人でべらべらとよくわからないことを喋るやつなのだ。
「ミステリにおいて必要なもの、それは魅力的な謎とフェアプレー。フェア、というこの単語ほど魅力的な言葉は地上には存在しないとわたしは思考する。むろんこの世の中は不平等にできているもので、完全な公平などどこにも存在しない。公平である、ということはありえない幻想、夢幻なのだ。だが、だからこそわれわれはミステリにフェアプレーを望む。フェアであればあるほど、そこに歓喜と興奮を覚えることのできる人種、それがわれわれなのだ。わかるかい、ワトソン君」
ここまでくればミステリを嗜んだことのない人間でもわかると思うのだが……ぼくの名前は小林でもヘイスティングスでもワトソンでもないのだった。どうでもいいことだが、一応主張しておく。ぼくの名前は松浦だ。
「……で、用件は何だ」
「あれ、わたしの話は聞いてくれないの?」
と普通の女子高生口調に戻ったましろが言った。一応説明しておくと、こっちが彼女の素の状態である。一人芝居モードに入ると口調が変わる。器用な女だ。
「ここが、おまえの話を聞くような場所だと思うか」
「思うけど」
平然と言うましろに、ぼくはこう指摘してやる。
「ここ、男子便所なんだけど」

 この学校では、ましろはちょっとした有名人だ。
 彼女は他人を裁く。特に何の権限があるわけでもないのに勝手に罪を決め、罰を決める。
 あるときは、女の子を泣かせた男を泣かせ。
 あるときは、空いた教室にあった財布を泥棒した犯人を捕まえ。
 ケースに合わせ、その罪に見合った罰を与える。
 普通、そんなものは誰も受け入れないだろう。警察でも裁判官でもないただの学生に勝手に裁かれるなんて、たまったものではない。
 しかしこの学校においては、彼女は警察であり裁判官たりえる。誰もが彼女の言葉に耳を傾け、罪を素直に受け入れる。
 それは、彼女が天才的な頭脳と、ある思い込みを持っているからだ。
 その思い込みとは――「自分が正しい」というもの。
 いつでもどこでもどんな状況でも、彼女は自分の正しさを貫き通す。
 白いものでも、彼女が正しいと思えば黒くなる。逆もまたしかり。
 潔白な人間でも、彼女が罪を見出せば悪人だ。
 そんなことはありえない。と、最初はみんな思う。集団ならともかく、一人が主張しただけで、白が黒に変ったりすることはあり得ない。それはまことに常識的思考だが――この女、ましろに限っては、違う。
 彼女は天才的頭脳を持っている、とぼくは先ほど説明した。大宮ましろの天才的頭脳は、学校の成績を上げるためにあるのではない。自分の正しさを主張する言葉の魔法のため、ただそれだけのためにそこにあるのだ。
 ましろの言葉には整合性と説得力がある。人に「是」を言わせるための手段をすべて把握している。他人を納得させる話術と論理を、彼女は生まれつき会得している。
 そのたくみな話術――将来、セールスマン、あるいは弁護士にでもなればいいとぼくは思っている――それは、百人中百人の首を縦に振らせることのできる魔法の力、なのだった。
 白いものを黒く塗り替え、黒いものは白く生まれ変わらせる。
 大宮ましろ。彼女は弁論の天才、なのだ。

 しかして、ぼくと友人たち数人は男子便所で会話をしているところを運悪くましろに見とがめられた。ましろはある行為を絶対悪だと考えており、他のすべてを許しても、「それ」だけは絶対に許さない。彼女が校内で「それ」を見つけた場合、ましろの独自の基準によって正義の鉄槌が下されることになっている。
 「それ」とは――本、もしくは読書という行為に対する「冒涜」だ。本のネタバレもそれに該当する。本には直接関係ないが、ゲームやドラマなどのネタバレも彼女的にはアウトらしい。犯人は誰だ、誰と誰が恋愛関係になるか、オチはどんな展開になるか……など。重要なネタバレであればあるほど罪は重くなる。罪の重さを決めるのはましろだ。彼女の機嫌によっては見逃してもらえたりもする。
 ぼくの友人は先ほど、「犯人はヤスコ」などと口走ってしまった。かなり前に発売された推理ゲームのネタバレだ。
 彼女はその集音性の高すぎる耳でその言葉を聞きつけやって来た、というわけらしい。
「ネタばらし、それも推理ゲームの――これは第二級程度の罪に値します」
ましろは言いだす。彼女の演説と説教はなかなかに有名かつ好評な校内名物である。早くも見物人が男子便所の前に集まり始めている。
「たとえ発売から数十年程度の月日がたったレトロゲーだとしても、犯人をバラしてはいけない。あなたの隣にいる人はそのゲームを未プレイ、いやプレイ中かもしれないのです。あなたが、今プレイ中のゲームの重要な部分をいきなり知ってしまったらどう思いますか。それも、自分で知ろうとは思っていないにもかかわらず、です。ネタばらしは一種のテロ行為。無差別に爆弾をまいているようなもの。言葉の爆弾テロです」
乱暴な比喩表現、あまり論理的でない説得法――今日のましろは少しご機嫌斜めなようだ。彼女の言葉を聞き流しながらぼくはぼんやりそう考える。ぼくはすでに、同じような内容の説教を数十回は聞いているので、慣れっこである。口調や論法の違いで、その日の機嫌までわかってしまう。
「悔い改めなさい。もう同じ過ちを犯すことのないように……」
これはましろの決め台詞である(判決を言い渡す裁判官のイメージで言っているらしい)。このセリフが言われた瞬間――罰が下る。
 今日は「第二級」の罪なので、彼女はその白い指をきれいに揃えてすっと上に上げた。そのまま、罪人の頭へとそれを振り下ろす。
「はぁあああああああっ!!」
という掛け声とともに。
「おお、あれが噂の……」
ギャラリーから歓声があがる。不幸にも頭部にチョップを食らったぼくの友人は涙目になった。実はこの技、ぼくも一回食らったことがある。けっこう痛い。
「断罪チョップ……」
歯をきらめかせてかっこよく技名を言ったましろだったが、そのネーミングセンスだけは受け入れがたいものがある。……というようなことは口に出すと危険なので、みんな考えるだけで何も言わない。
 やるべきことをやりとげたましろは、悠々とギャラリーの中を通って教室へ戻って行った。どこか満足げな表情で。
 最初のミステリ談義は、あまり本筋とは関係がなく、ただ一人芝居がしたかっただけらしい。彼女はこの学校で一番の気分屋だ。

「松浦さあ、昨日のドラマ見た?」
弁当を食べながらましろが言う。何の因果か、ぼくと彼女は一緒に弁当を食う仲だ。といっても二人っきりなどではあるはずがなく、ましろの隣にいるのは櫻井さくら。ぼくの隣にも友人、ヒロシがいる。なぜ男女混合で昼食を食べているのかというと、櫻井とヒロシが恋人同士だからだ。ぼくとましろはカップルのとばっちりを受けているようなものだ。まあ、二人とも特に気にしてはいない。普通、弁当は異性同士では食べないものだけれど、慣れてしまえばそう特殊なことでもない。
「んー、作業しながらテレビつけてただけだからなあ」
彼女のネタバレ規律に引っ掛かると危険なので、無難な答えを返しておく。
「俺は裏の番組見てたなあ」
「あ、あたしもー」
二人で笑い合うヒロシと櫻井。二人はそのまま裏番組の話をしはじめ、必然的にぼくはましろと話すことになる。
「お前さ、男子トイレに突撃するのはやめとけ」
「え、なんで?」
本気で不思議そうにしている。
「いや、なんというかその……」
「なになに?」
ぼくが言い淀んだので、余計気になってきたらしい。ましろは箸を持ったまま身を乗り出す。
「……女子が見るべきではないものを見てしまうかもしれない」
デリケートな思春期の男子の気持ちを、遠回しに表現してみた。
「ああ……」
目を細めて哀れそうな表情になる大宮ましろ。捨て犬を見るような目つき。
「あの、ましろさん……? そんな目でぼくを見るのはやめてくれるかな」
「……いや、ごめんなさい」
不遜な態度の校内裁判官が、頭を下げて謝った。これはなかなか拝めない光景だ。
 とかそういう問題ではなく。問題なのはましろが謝る理由だ。
「ひょっとして、さっき、見たのか……?」
ぼくの問いをスルーして、ましろはぽんと肩をたたいた。
「ドンマイ、松浦。わたしはほら、上に兄貴が二人いるからさ。松浦のもそのうち……うん」
「食事中にそういうことを言うな!」
いろんな意味で泣きそうになったが、最後の方の言い淀みっぷりが一番泣けた。
 恥じらいも外聞もない女だった。ああ、まぶしすぎて直視できない。
 コホン、と咳をして。ましろは話を元に戻した。
「わたしは間違っている人を放っておけないだけだよ。誰かが嫌な思いをする前に、こらしめておかないとね。そのためなら男子便所だろうとなんだろうと、関係ない」
まじめな顔で、きっぱりと言い切る。
「……それがそいつにとって余計な御世話でも、か?」
あえてそう突っ込んでみた。チョップを返される可能性もあったが、彼女の手は箸と弁当をしっかりと持ったままだった。
「余計な御世話でも構わないよ。わたしは、わたしが正しいと信じることをするだけだもん」
「そうか」
かたくなに自己を主張するましろには、何を言っても無駄だ。こいつは他人の言葉を聞いて、自分を変えたりはしない。
 ましろの言動を「頭のねじが一本抜けたよう」と表現する者はこの学校にはかなり多く存在するが、むしろ彼女の頭のねじは「常人より多すぎる」のではないか、とぼくは思っている。考え方も、価値観も、すべてが凝り固まって動かない状態になっているのだ。無数の小さなビスできっちりと止められているかのように。
 それがいいことなのか悪いことなのかは、神のみぞ知る――といったところか。
 少なくともぼくは、羨ましいと思っている。確固たる自我を確立している方が、人生は楽しくなるような気がするからだ。


 人生は楽しくない。
 ……と主張する人間に対して、「楽しむ努力をしていないからだ」と言いだす輩がいる。
 楽しむ努力とは何だろうか。その努力をすれば状況は変わるのか。そもそも、そいつが努力していないとどうして言い切れるのか。謎だらけである。謎以前に、「楽しむ」という単語と「努力」という単語の間には遠い断絶があるように思えてならない。楽しいという感情は、努力しなければ得られないものだっただろうか。もっと自然に発生するものではなかったか。
 そんな理屈をこねるぼく自身はどうなのかといえば――人生はわりと楽しい。たゆまぬ努力をしているからではなく、周囲の人間がぼくの人生を盛り上げてくれるからだ。
 大宮ましろ、そして音楽準備室にいるぼくの知り合いも――その「周囲の人間」にあたる。

 彼女は音楽準備室にいる。こう書くと、「彼女」は音楽系の部活に入っているのかな、と思われることだろう。しかし実際のところ、彼女は部活どころかこの学校の生徒ですらない。ならばなぜ、音楽準備室にいるのか。不法侵入してきた部外者ではないのか――そこらへんはぼくもよく知らなかったりする。ただ、他の場所には彼女はいない、ということだけは確実だ。彼女とぼくが出会う場所は、いつだって音楽準備室。天地がひっくり返っても、これだけは絶対に変わる事のない事実である。
 彼女の名前は「クラブさん」。名前と言うより、ただの怪しげなニックネームである。ぼくは彼女の本当の名前を知らない。もしかしたら人間ではないのかもしれないが、そこらへんもよくわからない。クラブさんに関しては、わからないこと尽くしである。

「ああ、今日もマシロコは頑張ってたのか」
ぼくの報告を聞き、クラブさんがそう言った。肩まである黒髪がさらさらと揺れる。マシロコというのはクラブさんが勝手に大宮ましろにつけたあだ名だ。本人の許可は取っていない。どうでもいいことだが、このあだ名は逆から読むとちょっと怖くなる。
 髪と同じく黒すぎるくらいに黒い目を伏せて、クラブさんは物憂げにため息をついた。そして、猫のようにあくびを一つ。
 今書いておかないとタイミングを逃しそうな気がする。ここでクラブさんの容姿について触れておこう。
 黒い髪はぴっちりと分けられ、チェロをモチーフにしたヘアピンが止めてある。背はぼくより少し低いくらい。年齢は完全に不詳、中学生だと言われても頷けるし、二十代後半だと言われてもそれはそれでわかる気もする。年齢不詳という点において、クラブさんの右に出る者はいないのではなかろうか。
 丈の短いワンピースは、地味でありながらなかなかにかわいい。襟の部分には渦巻きのようなマークのピンがついているが、よく見ると渦巻きではなくト音記号。きらきらとした金属でできていて、値が張りそうな逸品だ。
 彼女の最大の特徴は「いつでも眠そう」なことである。けだるげに話し、話している間もあくびが絶えない。睡眠不足なのではないかと思う。
「しかしその瞳はすいこまれそうな色をしている。湖の底のような神秘的な色を帯びた瞳に見つめられると、いろんな意味で落ち着かなくなる。ミュールをはいた生足もかなり萌えである。これで猫耳とかメガネとか、そういうオプションがついていたら最強だろうと思うのだが、どうだろうか。」
「さりげなく地の文の描写に割り込むのはやめてもらえますか。ぼくの立場がすごく危ないものになってきてるじゃないですか!」
油断も隙も恥も外聞もない女、クラブさんだった。
 ……って、さっきも同じようなことを書かなかったか、ぼく。
「怒らないでくれ、松浦。わざとなんだ」
「ああ、それなら別に構わな……って、わざとかよ!」
生まれて初めてノリ突っ込みしてしまった。
「おめでとう松浦君、記念すべき初体験だ。お赤飯炊こうか」
「変な言い方をしないでください。ていうか心読んでるでしょう!」
こんな具合に、ましろとは別の方向に個性的な女、それがクラブさんである。

 しかしながら、ここまで正体不明な人物をあっさりと受け入れることはなかなかできないであろう。普通なら警察に通報すべきレベルの不審人物だ。
 では、なぜ通報しないのか。
 その方がおもしろいからだ。
 特に害はないし、暇な時に雑談のついでに掛け合い漫才までさせてくれる知り合い、というのはなかなかいない。それに、ぼくは彼女に少なからず好感を持っている。二人で過ごす時間を失いたくない、と思うくらいには。
 ちなみにぼくはかつて、
「そういえば、クラブさんってどうして『クラブさん』なんですか? その名前、由来か何かあるんですか」
と聞いてみたことがある。
 返ってきた答えは――
「ロマンチック・ラブ・サンシャインの略だ」
…………うわあ……。
 真顔なので、本気なのか冗談なのかイマイチわからない。
 聞かなければよかったなあ……という雰囲気を感じ取ったのか、クラブさんは言いなおす。
「というのは嘘で、本当は『センチメンタル・ジャーニー』の略だ」
「それをどう略したら『クラブさん』になるんですか!」
もはや一文字も被っていない。
 クラブさんは適当に笑ってごまかした。
「まあ冗談は置くとして、『クラブさん』というのはわたしの本当の名前だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「下の名前ですか、上の名前ですか」
「女性に上とか下とか聞くな。松浦ったらエロガキなんだからっ☆」
途中から声色を変え、すでに違うキャラっぽい言動になっている。とりあえず、答えたくない質問だということはよくわかった。
 ……というようなかんじで、クラブさんの名前や素性に関する話題はご法度ということでよろしくお願いしたい。彼女は絶対に本当のことを言わないので、追求するだけ不毛なのだ。
 あと、誤解のないように一応断っておくが、ぼくはエロガキなどではない。清く正しい、普通の男子高校生だ。少なくとも、クラブさんにそういう感情を持つようなことは今のところ、ない。


第二話
 その日、ましろはツインテールだった。彼女にはその髪型が一番似合うと思う。走るたびに忙しく上下に揺れる髪の動きは、掛け値なしに芸術的だ。別にフェチ的な嗜好があるわけではないのだが、一般的に成人したらできなくなる髪型だ、と思うと非常にありがたいものになるから不思議だ。
 ぼくは放課後、教室でぼんやりしていた。ましろと一緒に帰宅する約束をしていたので、彼女を待っていたのだ。
 ああ、早く帰りたいなあ。
 今日は音楽準備室、行こうかなあ。
 クラブさん、いるかなあ。
 帰り道に本屋に寄るか、CD屋に寄るか……迷うなあ。
 かばんの留め金をいじりながらの、とりとめのない適当な思考。それをぶった切ったのは、ズダンッ、と大きな音を立てて開いた教室のドアと、大量の本を手に現れた大宮ましろだった。どう見ても帰り支度には見えない。
「事件だ、どうしようもなく事件なんだ。聞いてくれるかい?」
彼女は推理小説の探偵のような古風な口調になっていた。頬が紅潮している。なぜだか知らないが、テンションがかなり上がっているらしい。
「事件?」
問い返すぼくの言葉には答えずに、地響きのような音を立て、本をぼくの机に置いた。
「この本を見てくれ、美袋君」
ぼくは美袋ではない、松浦だ。と突っ込みを入れてもたぶん聞いてくれないだろう。しぶしぶ、一番上の一冊を手に取って眺めてみる。
「特に何も……ん?」
ぺらぺらとめくっていくと、赤い字で落書きがしてあるページを見つけた。妙に白い部分が多いページ……小説本文ではなく、登場人物表だ。推理小説によく付属しているあれだ。
『こいつが犯人だ!!』
……と、手描きの赤い文字ででかでかと書かれたページ。登場人物の中の一人の名前の上には、赤い丸が記入されていた。
「……これはひどいな」
知らずにこの本を開いたら、推理小説を普段読まないぼくでも、ちょっと傷つきそうだ。悪質な嫌がらせだった。
「一冊だけなら、まあ許せる。許さないけど、見なかったことにするくらいは考える。でもね、ぼくは見つけてしまったんだ――これらの本のすべてに、同種の落書きがされているのを」
悲しげに告げるましろの頭上から、スポットライトが当たっているような気がした。演劇部員も顔負けの芝居口調、である。そんなましろが抱えて持ってきた本は、ざっと見て三十冊ほど。
「これ、全部にイタズラが……相当の暇人だな」
「これを許しておけるかい。ぼくは許せないね。これは本への冒涜だ。推理小説に夢をはせる読者に対する冒涜でもある」
ましろの目は燃えていた。こいつがこんな顔をするのは珍しい。本気で怒っている。
「だから、出かけるんだ。出かけるとも。君と一緒にね」
ましろはぼくの手を取って、走りだそうとする。
「ちょっと待て。どこに出かけるんだよ」
きょとん、として――素の口調に戻った大宮ましろはこう告げた。
「犯人探しに決まっているでしょう?」


「……そうして、今まで何をしていたんだ? マシロコとおまえは」
ぼくの話を遮って、クラブさんが尋ねた。聞き役に徹するのに飽きたらしい。
「図書室に行って、図書委員に貸出カードを見せてもらったんです」
「落書き被害に遭った本を貸し出していた奴が犯人だ、と?」
「ええ。とりあえず、容疑者の見当をつけるにはいい手段じゃないですか?」
クラブさんはコキコキと首を鳴らすような仕草をしたが、首は鳴らない。
「どうかな。わたしが犯人なら、そんな証拠は残さない」
「ええ、そうでしょうね。でも、これはただの落書きですよ? 殺人でも窃盗でもない。気軽な気持ちで、借りた本にちゃちゃっと落書きしちゃったー、みたいなパターンの方が自然じゃないですか。少なくとも初期段階のましろはそう考えていたようです」
ぼくがそう言うと、クラブさんは含み笑いをした。
「……自然、か。どうだろうね」
「クラブさんの言いたいことはわかります。ただの出来心で数十冊も同じことをする必要性が理解できないって言うんでしょう」
落ち着いた口調で指摘してみたのだが、クラブさんはそれに対しては特に何も言わなかった。
「一冊なら軽いいたずらで済むけれど――数十冊分の落書きは『自然』には起こらない。特定の人間に対しての、明確な悪意を感じる行為だ。クラブさんはそう思っている」
ましろが怒ったのも、被害に遭った本の数があまりに多すぎるからだ。
 一冊や二冊なら――彼女は動き出さなかった。
 ましろが犯人探しに乗り出したのは、この落書きに、何か黒い悪意を感じるせいだ。ましろはそういうことは決して口には出さないけれど、付き合いの長いぼくには、なんとなくわかる。
「……人が思っていることを勝手に決めないでくれるかな、松浦君」
クラブさんはため息をつきながら言う。
「だいたいあってるけどな」
「ぼくもクラブさんと同じ考えなんです。おそらく、ましろもね。だから、ましろは貸出カードから数人の名前を手帳に記して、あっさり次の段階に移ったんです」
「次の段階、とは?」
一息ついて、ぼくは言った。
「犯人の筆跡鑑定ですよ」


 大宮ましろは異常である。
 知っていたけれど、全部わかっていたけれど――一度すると決めたことは絶対に最後まで投げださない。それがましろだった。ぼくは改めて、こいつと友達になった数年前の自分はいったい何を考えていたのかと苦悩するしかない。
 ましろはまず、職員室に行って教師にこう頼んだ。
「今日の小テストの答案、全員分見せてくれませんか」
うちの学年では毎週、全クラス共通の英語の試験がある。それを全部チェックして落書きと照合し、一致すれば犯人を見つけて断罪できる。そういうつもりなのだろう。
 もちろん、犯人が他の学年にいたり、部外者だったりした場合はまったくの無駄骨だ。そもそも、一学生にすぎないましろに他人の筆跡を照合する能力があるのかどうか、かなり疑問だ。ましろは警察でも裁判官でもなければ科学捜査班でもない。しかしましろの執念を持ってすれば可能なんじゃないか、と思ってしまう自分がかなり恐ろしい。
 当然のことだが、教師は答案を引き渡してはくれなかった。
 元になる筆跡が手に入らなくては、打つ手がない。鑑定する以前の問題だ。
 ましろはもう一度図書室に行って、今度は図書委員に聞きこみを始めた。やるべきことの順序が逆のような気もするが、彼女はひたすらマイペース、というだけの話だ。言及してもあまり意味がない。
 図書室に常駐している図書委員は、不審な人物は見ていないと言う。高い本棚が林立する図書室には死角が多い。一か所に座っているだけの図書委員が犯人を見ている可能性は低かった。ましろも、そんなに期待はしていなかったようだ。
 続いて、図書室にいる生徒にも何人か聞きこみをしてみたが、誰も犯人らしき人影は見ていなかった。
「やっぱり筆跡からたどるしかないとぼくは思うね。そうだろう、香月君」
「ぼくは松浦だ」
一人芝居モードに突入したましろはぼくの言葉を無視し、数十分間にわたる演説を始めた。特に本筋に関係のない長話だ。ただのストレス発散だったのだろう。ぼくも疲れていてあまり聞いていなかった。内容は割愛する。
 気づいたら夕方になっていた。今日は帰ろうかな、と素に戻ったましろが言い、ぼくはましろと別れて音楽準備室に来たというわけだ。


 そんな今日の出来事をすべて聞き終ったクラブさんは、何やら気分が悪そうに顔をしかめた。
「他に効率のいいやり方がたくさんあるように思えるんだけどね。マシロコは、あえて難しい方法を選んでるような気がするよ」
「それがましろなんですよ」
「おまえは、マシロコを信頼してるんだな」
そう言われて、ようやく気づいた。
 ぼくは彼女を信頼している。それも心の底からだ。
 普通、筆跡から犯人を突き止める、それも何の力も借りないで、自分一人で――などという言葉を信じることなんてできないだろう。
 だけど、ましろならやり遂げる。そう思える。
「きっと、クラブさんも普段のましろを見たら、そう思えるはずですよ」
黒髪をふるふると揺らして、クラブさんは首を振る。
「……遠慮しておくよ。ちょっと怖い」
 怖い、か。
 確かにましろは怖い人間かもしれない。
 正義に忠実で、美人で、頭がよくて――でも、何を考えているんだかまったく読めない。いきなり一人芝居を始めるし、男子便所には突入するし。断罪の基準だって意味不明。勝手に人を連れ回すし、けっこう無神経だ。
 それでもましろは、ぼくにとって……ただ怖いだけの存在ではない。
「怖いけど、ぼくはましろを見てると安心します」
「安心?」
「ましろはぼくにはできなかったことを、代わりにやってくれてる。そんな気がするんです」
自分の正義を、自分の才能で、自分の熱意で、達成する。誰の力も借りずに、自分を生かす。
 それがましろという女の、すべてだった。
 ぼくのような普通の人間には、それはとても輝かしく、きらきらとした魅力的なものにも見えるのだ。
「それは、」
とそこでクラブさんは何とも形容しがたい表情になった。嬉しそうにも見えるし、苦々しそうにも見える。眉間にしわを寄せているのに、口元は少し緩んでいる。笑っているのでもなく、困っているのでもない。ではどんな感情が込められているのだろうか、それはまったくわからない。奇妙な顔だった。
「…………わたしには、なんとも言えないな」
 クラブさんは、何かを言いかけて――やめた。
 彼女は、なんだかわからないが大切なことを口にしようとしたのではないか。あとになってそう思った。しかしこのときのぼくはそんなことはまったく考えていなくて、ただ「そうですか」と受け流すことしかできなかった。
 もしかしたら、クラブさんとの関係や、ぼく自身の在り方を変える分岐点を、そうと知らずに踏み越えてしまったのかもしれない。
 ぼくはここで、選択を間違えた。今はそんな気がする。しかし、選択肢を一つ間違えても、明確に未来が変容するわけではない。ひとつの間違いが、どこまでも呪いのようにつきまとうことはない。現在が未来へと移り変わっていく中で、修正される間違いもあるはずだ。少なくとも今のぼくは、そう考えている。


間章 『大宮からくれないのちいさな冒険』
 自分の顔を知っている相手に読ませても、小説の正当な評価はしてくれないという。そんな意見をネットで見かけた。運の悪いことに、わたしはネットの意見に流されやすい人間だった。
 理想論を言えば、おもしろい内容なら、誰に読ませてもおもしろいのが小説、というものであるはずなのだ。多少の好みの差はあるだろうが、それはこの際考えない。知り合いだから価値観が歪む、そんな理屈はおかしい……そういう話だ。
 でも、確かに思い当るところはある。友人の書いた小説はあくまで「友人の書いた小説」であって、「どこの誰だかわからない誰かが書いた小説」とはスタート地点にずれが生じている。読み始める前からスタートラインがずれているのに、同列で語ることができるだろうか。
 同列で語れる。だって人は人、作品は作品だから。
 と真っ向から断言できる人間は幸せだろう。わたしにはそうは言えない。逆に言えば、嫌いな人間が書いた小説を、嫌いにならずにいるという保証はどこにもないということだからだ。自分も小説を書く人間であるならなおさらだ。
 ワイドショーでくだらないことを言っている作家や、違法薬物所持で捕まった作家の作品の評価が、世間的に暴落へ向かうことがしばしばある。作家と作品が無関係でないことの証明ではなかろうか。世間は――いや、こう言い換えようか。
 世界は、正直なのだ。


 ……と、さも自分も作家か何かであるような態度で言ってしまったが、わたしはまだ中学二年生だ。名前は大宮からくれない。「から」「くれ」「ない」という三単語ではない。「韓紅」という色の名前である。信じがたいことに、ペンネームではない。本名だ。わたしには姉が一人いるが、姉の名前は「ましろ」という。女の子の名前としては「ましろ」の方がかなりまともである。というか、「からくれない」は聞いただけでは人の名前だと分からない。しかしわたしの名前なのだった。これだけはどうやっても動かない事実だったりする。
昨今、子供にオリジナリティあふれる名前をつけるのが流行っているらしいが、つけられた本人からしてみるとかなり迷惑だ。名字だけが「大宮」というありふれたものというのも落ち着かない。いっそ名字もものすごく変だったら諦めがつくかもしれない……というのは詭弁である。もし「新大宮からくれない」とかいう名前になったら、ちょっと死にたい。地下鉄か新幹線の駅名みたいだ。
 ちなみに母親の名前は「あさぎ」、父親の名は「象牙」、祖母の名は「あずき」、祖父の名は「赤也」。色の入った名前をつけるということに偏執的にこだわっているとしか思えない家庭である。呪われているのだろうか……と思うこともあるが、名前以外はそこそこ普通の家だ。名前については、不運としか言いようがない。
 話を元に戻そう。知り合いに小説を読ませても正当な評価を下してもらうのは難しい、という話だ。どうやったって作品の向こうの作者の顔が透けて見えてしまう。自分の体験や知人をモデルにしている場合は特にそうだ。
 だから文芸部というものは小説家になりたい者にとって、鬼門なのだ。……と気づくまでに二年もかかってしまったわたしは馬鹿かもしれない。最初は「知り合いの書いた小説」を読むのが楽しかったのだ。ほほう、彼女はこんなことを考えていたのか、彼はこういう話が好きなのか。異世界を垣間見たような気分になる。それは決して悪いものではなかった。
 しかし、技巧を競いはじめたり、優劣を決めはじめたり――生存競争が関わった瞬間、「顔を知っている人間」を相手にすることの気まずさに気づく。仲がいい相手の作品をけなすのは心苦しいものだ。どうやったって自分の方が勝っている、もしくは負けている、ということに気づいても口に出さずにいるのは、苦しい。言ってしまうのも苦しい。
 わりと生き地獄だった。
 というのは大げさだが、あまり居心地のいい環境ではなかったのは確かだ。お互いを高め合おう、という理念を掲げながら、内実はおべっかと足の引っ張り合い。もううんざりだ、と思ったのでさっき退部届を提出してきた。
 だが、誰にも評価してもらえないのもそれはそれで苦しいのだった。知り合いも家族も無理、となれば「知らない人」しかターゲットはいない。知らない相手に突然小説を読ませ、感想をくれ評価をくれ、などというのも馬鹿な話だ。ネットで評価してもらうということもできるのだが、完全にまっさらな状態で読んでもらえるのは最初の一回だけだろう。文には癖があるから、匿名でも誰が書いたのかだいたい分かるのではないか、と思う。それでは「知っている人」に読ませるのと大差ない。
 八方ふさがりだ。ここは何か、打開策を講じなければならない。わたしはとりあえず、小説を書きたいのだ。文章がうまくなりたいし、作家にもなりたい。独学でそれをなすことは難しいだろうとは知っているけれど、知り合いに頼るのはやめた。
 ではどうすればいいのか。
「知らない人に読んでもらえばいいじゃない」
わが姉、ましろは「1+1は2じゃない」と言うかのように、軽々しく言い放った。
「だからそれが無理なの」
わたしがしょんぼりと返すと、姉は胸を張った。
「うちの高校の音楽準備室。誰か『いる』らしいよ」
いきなり怪談話か。
「大丈夫、人間かどうかはわからないけど、会話はちゃんとできるらしいから」
なんだかわからないが、胡散臭い話だということは理解できた。
「お姉ちゃんはそのお化けを見たの?」
「見てない。けど、松浦が見てる」
松浦、というのは姉の友人の名前。一応は信用できる筋の話のようだ。
 姉は話に飽きたらしく、あくびをしはじめる。
「まあ、暇だったら行ってみればいいんじゃないかなあ。松浦にはわたしから言っとくから、もしかしたら『それ』に伝えておいてくれるかも」
伝言ゲームのようなありさまになっている。お化けに伝言は通じるのだろうか。お化けは小説が読めるのだろうか。というか、日本語は通じるのか。
「松浦が言うには『お化け』じゃないんだってさ。人間、なんだって。ちゃんと名前もあるの。確か、クラ……クラ……」
「クラ?」
「……クランプトン、じゃないな。クライムボム……いやクラシックカー?」
「忘れたのね、名前……」
頭はいいのに馬鹿なのだ、この姉は。一応、学校内でも名のある天才児……ということになっている少女、という肩書である。興味のないことは覚えない、興味のあることもたまにしか覚えない、が信条らしい。どこかで聞いたような信条だった。何かの受け売りなのかもしれない。
 そんな姉は「てへへ」と笑いながら部屋を出て行った。
「……音楽準備室の、クラなんとか、かあ」
お化けかもしれない。
 だが危険はないらしい。
 ……他にすがるものはなさそうだ。
「…………よし」
 溺れる者は藁にもすがる。
 行ってみよう――と、わたしは思った。


 音楽準備室のお化けは読書が好きらしい。
 というのは姉から得た予備知識である。
 音楽準備室のお化けは美人だ。
 これはわたしが自分で得た視覚情報である。
 音楽準備室のお化けは口が悪い。
 あと、かなり眠そうだ。
 これもわたし自身が得た情報。
 ……そう、わたしは音楽室のお化けに会うことができた。
 それは人間だった。黒髪にチェロの形のヘアピンをつけた、女の人。年齢はいまいち判じがたく、不思議な、人間離れした、という単語がしっくりくる。でも外見は普通の人間だった。飛んだり魔法を使ったり、ということもない。
「わたしは天才的な才覚を持つ作家というものを知っているが、お前はどう考えてもそういう作家にはなりえないな」
これはわたしの小説を読んだ音楽室のお化けの意見だ。
 実に辛辣だった。真っ向からの全否定である。
「…………くっ」
どうして初対面のあなたにそんなことを言われなければならない――という怒りは特に起きなかった。わたしも自分の才能を妄信しているわけではない。自分の才能を妄信している人間は、怖気づいて退部届を提出したりしない。知り合いに作品を読まれることを怖がったりもしないだろう。胸を張って差し出せばいいだけの話だ。正当な評価をされなくても、胸を張ったままでいればいい、それだけの話。
 結局……そういうことなのだ。唐突に、気づく。
静かに、悟るように――気づかされる。
 自分に都合のいい理由をつけて逃げ回っていた。それが大宮からくれないの真実だ。自信がなくなった。自分の才能を、信じられなくなった。だから誰かに認めてもらいたかった。お世辞を言わない、利害も体面も関係ない、そんな誰かに。
 自分でも全部わかっていた。都合のいい幻想を求めているだけ。
 ただ、自分の真実をわかりたくなかっただけ。
 はぁ、そんなもんか――と思う。彼女の辛口の評価にではなく。敵に背を向けることしかできない自分自身に、だ。
 向かい合えばいい。立ち向かえばいい。
 しかしそうすることができないのは、何かが決定的に欠けているからだ。


「才能があるけど自信はない人間と、自信はあるが才能がない人間。どっちがマシだとおまえは思う?」
わたしが黙っているせいか、音楽室のお化けがそう尋ねてきた。
「才能はあるけど自信がない……方じゃないかな」
「違うな。正解は、『どっちもろくなもんじゃない』だ」
誇らしげに胸を張るお化けさんだが、答えになっていない気がする。
「両方とも必要なのさ。強いて言えば努力と情熱、なんかもあればいい。そういうことを言うとスポ根漫画みたいだからあえて言わないだけだ」
「才能と自信。どちらもない場合は、どうすればいいんだろう」
ねえ、お化けさん。と語りかけると、彼女は心外そうに眉をひそめた。
「簡単だ。その二つを補うだけの、努力と情熱があればいいんだよ。もしくは諦めるか自己満足しろ」
「今、論点をすり替えたような……」
才能と自信は両方とも必要、という大前提を言ったのは彼女ではないか。その前提がなくても、努力と情熱だけで何かできるとは思えない。遠まわしに諦めろと言っているようなものだった。言葉の毒を悠々と放ちながら、お化け女は退屈そうにあくびをした。
「論点なんて知らないな。あと、わたしはお化けじゃない。クラブさん、って呼びなさい」
お化け女はそう名乗った。
「クラブさん……さんづけじゃないとダメなの?」
「さんづけじゃないとダメだ。そういうルールだ」
「どこのルールなのよ」
変な名前だ……わたしが言えた義理ではないけれど。「からくれない」に比べたら「クラブさん」の方が多少マシかもしれない。いや、あんまり変わらないか。
「おまえは天才的な作家にはなれないけど、作家にはなれる」
クラブさんは言う。少し遠くを見るようにして。
「わたしの知ってるやつも、才能も自信も全部なくして、うじうじ悩んで逃避しまくってるけど、なんとかなりそうだから。きっと、おまえもなんとかなる」
妙に自信ありげに断言した。誰のことなんだろうか――とふと気になった。この人にそんなに知り合いが多くいるとは思えないが。まあ、わたしの知人ではなさそうなのは確かだ。
 そう考えた後、クラブさんはわたしを励ましているのだ、と気づいた。わかりにくい励ましだったが――確かに、元気づけられていた。
「クラブさん、あなたっていい人ね」
「そんなことはどうでもいい。……なあ、大宮からくれない」
褒め言葉をあっさりと受け流して、彼女はわたしの名前を呼んだ。フルネームで呼ばれると、妙にかしこまった気分になる。長い名前なので、フルネームで呼ばれる機会はそんなにない。
「何?」
「ひとつ、お願いがあるんだ」
お願い――という言葉には縁がなさそうな尊大な彼女は、こう言った。
「わたしと会ったことは、大宮ましろには秘密にしておいてほしい」
意図は不明だが、特に断る理由は見当たらない。もともと会えるかわからなかったお化けなのだし、別に秘密にしたって構わないだろう――そう思って「いいよ」と返事をしておいた。クラブさんはそのとき、なぜかとても嬉しそうに笑った。悪戯が成功した子供みたいに。