猫の死

「地球上の水素が全部発火したら、いい音するし、人間いなくなるし、最高じゃね?」
とコロリくんは言った。今にもコロリと死にそうだからコロリくんと言う。今名づけた。
「人間は地球に害なす存在だから全員殺して自然環境を最高に良くしましょう!っていう環境保護団体さんたちは、今すぐ団結して人間を倒すべきだよなあ。だってあいつら、何もしてない動物たちを無残に殺して食うんだぜ?」
マジきもちわルイ!と独特の発音でコロリくんは熱弁する。
「しかもさ、餌をやってかわいがってから、ある日いきなり殺すんだぜ。同じことを人間がされたらどう思うのか、美少女でシミュレーションするべきだと思うんだよな」
美少女を監禁し、餌をやり、かわいがる(どんな方法でかわいがるのかは彼のみぞ知るところである)妄想をしているのか、コロリくんは少しの間黙った。
「いや、やっぱり最低だよなあ。美少女を縄で縛って、そんな、破廉恥なことを……人間って最低!」
最低なのはコロリくんの妄想の方である。
「人間なんていなければ、そもそも環境悪くならないし、環境なんていう単語も生まれないし、環境問題すら存在しないし、植物も動物も、食物連鎖の外で無残に殺されることなんかないんだぜ。人間がいなければみんな幸せ。人間は死ぬべき。そんなことすらわからないなんて、人間っていう種族はド低能の集まりだ」
はーあ、と彼は嘆息した。
「犬猫ウサギの類はかわいいかわいいとキャーキャー言う癖に、毎日食べてるのは鶏と豚と牛の肉だ。動物殺して食べてる癖に、動物がかわいいだと?愛護精神だと?むやみに殺してはいけないだと?……ふざけろよ。動物愛護するなら牛と豚と鶏も愛護しろ。殺して食うことが愛だと主張するなら犬と猫とウサギと人間も食え。豚野郎とかチキン野郎とか、そんな罵倒語があるけどさ、一番最低な野郎を示す罵倒語として適切なのは、『人間野郎』に決まってるよな」
コロリくんはそう言って、にっこりとわたしに微笑みかけた。
「つまり、俺は死ぬべきなんだ」
彼の論理は華麗に跳躍して、まるで自由落下のように乱暴に着地する。
しかし、わたしはそんなことはどうでもいいと思っている。
そんな結論は、今この場では意味がない。
なぜなら、わたしは真っ赤に染まったナイフを持って立っていて。
ここは人気のない夜道で。
わたしの前には、わたしが先ほど生みだした死骸が無残に置かれており。
そこへたまたま通りがかったのが、この青年――コロリくん、なのだ。
本来ならば、警察に通報されたり、悲鳴をあげられたり、拘束されたりするはずだ。
なのに、コロリくんはまったくそんな反応を示さないまま、「人間は死ぬべきだ」と力説する。
その挙句に出た結論は「俺死ぬべし」である。
意味が、わからない。
動転しすぎて正常な思考ができなくなっているのだろうか。
「あなたは、何です?」
わたしは震える声でそう問いかけた。
「俺は俺だけど。姑息で気持ち悪くて、動物の肉を喰って生きてる人間野郎だ」
コロリくんの声は凛としていた。
そういうことを聞いているのではない。
「通報しないのですか? 悲鳴をあげないのですか? 変質者だと罵らないのですか」
「え、どうして? 別にいいんじゃねーの。人間殺すのも、猫殺すのも、豚肉食べるのも、人肉食べるのも、一緒だよ」
コロリくんは淡々とそう答えて、また笑った。
「いや、だって。この状況で平然としていて、何も行動しないなんて、おかしい……」
「俺に行動してほしい?」
――そんなはずはない。そんなことをされたら、わたしは警察に行かなければいけなくなる。
「じゃあ、これでいいじゃん。あ、でも、ひとつだけお願いしてもいい?」
彼は唐突に、わたしの方をまっすぐ見て、こう言った。
「俺の友達になってください、猫殺しの人間野郎さん」
わたしは、思わず――自分が殺した猫の死体を見ながら、頷いてしまった。

+++

……ということで、夜道で猫を殺していたら、よくわからない変人と友達になった。
「いやあ、俺、友達いなかったからうれしいやー。ラッキーラッキー」
「何がラッキーですか。こちらはアンラッキーの極みです」
彼との衝撃の出会いから数週経って――今、わたしたちはカフェで向かい合って座っている。
彼はレモンティー、わたしはウインナーコーヒーを飲み、普通に会話を交わす。
「えー、どこらへんがアンラッキーなの?」
「あなたが通報したらわたしは捕まるんです。社会的に抹殺され、周囲からは変態と呼ばれつづけて生きていくことになるんです。それがアンラッキーでないならなんですか」
「あはは、あずはさんが変態っていう単語を発音するとちょっと興奮するなあ。もっと言ってほしい」
「死ね変態」
この内容の会話をするのはもう五回目だが、彼はいっこうに通報する気配がない。
脅迫されつづけて生きていくのだと覚悟を決めていたので、ちょっと拍子抜けである。
友達だなんて名ばかりで、「俺のいうことを聞かないと通報するよ?」みたいな感じで理不尽な命令をされつづけるのだとばかり、思っていた。
「あずはさんのこと、通報とかするわけねーじゃん。せっかくお友達になれたのですからな」
「だから、その『お友達』とかいう単語が信用ならないんです。雑誌の名前だと言われた方がまだ理解できるくらいに」
「あー、俺は最初から『学習幼稚園』を買い与えられてたから、『おともだち』は買ってもらえなかったんだよなあ。実は、ずっと憧れだった」
「それは、『実はずっと先輩に憧れてたんです、つきあってください』的な深刻さの顔で言うべきことですか?」
「俺的にはすごく読みたかったんだよね、『おともだち』」
彼は変わらず真剣な顔で言った。何を考えているのか、さっぱりだ。
「あずはさんは、『おともだち』派?それとも『幼稚園』? あるいは『学習幼稚園』? 『めばえ』?」
「この会話におけるその部分は、そこまでふくらます必要がないと思う派です」
はあー、と感心したようにコロリくんは嘆息した。
「あずはさんは頭がいいよね。学生さん?」
わたしは露骨に嫌な顔をしながら応える。
「身分は学生です。休学中ですけど」
「へえ」
コロリくんは相槌を打ちつつ、「まあ俺もそんな感じだ」と言った。
「そもそも大学生なんて、みんな休学中って感じだよな。俺は二回目の留年の真っ最中だけど、学費さえ払えばまだまだ置いてくれそうだよ」
「わたしは、もう学校になんか行きません」
ちょっと空気が読めていない発言だった、と言ってから後悔する。
コロリくんは「へえ、そう」としか言わなかった。
しばらくの沈黙の後、彼はレモンティーのカップを置きつつこう問いかけた。
「それは、猫殺しと何か関係がある?」
「……あります」
「やっぱりね。それがあずはさんにとって、一番大事なこと?」
「ええ」
「詳しく聞いてもいい?」
コロリくんは笑わずにそう言った。わたしは頷く。
「兄が、死んだのです――」
語りだす自分の声は、案外客観的で、沈んではいなかった。


+++


 さて、こうして語りだしたものの、わたしの物語というものを語る必要性を、わたし自身は感じない。
 どんな感動的な理由があっても、殺戮は殺戮。
 それで罪が軽減されるのはおかしい。
 たとえば、「たったひとりの犠牲で世界が救えるなら、その犠牲は受容してもいい」という命題はよく語られるような気がするけれど、そのたったひとりの犠牲というものが自分にとって耐えがたい苦しみだったら、きっと誰も世界を救おうとは思わない。それ以前に、世界というやつは、たったひとりの人間がいなくなったくらいで救われてしまうほど安くない。ひとりの犠牲で世界が買えるなら、そんな安い世界はいずれ簡単に捨てられてしまうだろう。簡単には買えない、救えない、というのもひとつの価値の指標なのだ。
 わたしは、わたしの犯した殺戮については、言い訳をしない。
 わたしの世界を救うために必要な犠牲であったとしても、それを必要だったとは主張しない。
 ただ、殺したという事実を。
 淡々と語るだけである。
 兄は立派だった。自慢の兄、などという陳腐な言葉が似合ってしまう兄だった。
 眉目秀麗で、成績もよく、誰にでも好かれた。
 そんな彼は簡単に死んでしまった。
 道に飛び出した小さな子猫を、救うために。
 それが、自分に関係のない話であったなら、わたしはただの美談として片づけたと思う。
 自分を投げ出してまで、他の命を救うなんて――かっこいい話だと、思うだろう。
 美しい犠牲の物語だと、感嘆するだろう。
 しかし、この物語は美談じゃない。
 わたしは、心の底から、思ったのだ。
 猫なんて助けなくってよかった。
 わたしの目の前で兄が轢かれてしまう方が、よほど悲しい。
 猫なんて、目の前で轢かれて死んでしまっても、しばらく経てば忘れられるではないか。
 理不尽さを感じた。
 兄の命は、野良猫の命と等価だったのだろうか。そんな風に考えると腹が立った。
 世界は、ひとりの犠牲で救えるほど安くない――でも、世界と違って、兄の命は安かった。人間の価値なんてそんなものなのだろうか。わたしの自慢の兄は、吹けば飛んでしまうような、そんな命の持ち主だったのだろうか――
 兄が好きだった。
 自分にない才能をすべて持って生まれてきたような彼が愛しかった。
 だからこそ、あの子猫が憎かった。
 猫を恨むのは筋違いであろうとはわかっていても、そんな理屈では、気持ちは割り切れない。
 そして――わたしは猫殺しに至った。同一の猫ではないが、どこにでもいる野良猫であるという点は共通していた。
 兄が命がけで救ったのと同じ命を奪うことは無意味だと、憤る方もいるだろう。
 そんなことをおまえの兄は望んでいないと、誰もが口をそろえて言うかもしれない。
 でも、そんな理屈ではない。
 わたしが知っているのは、ただ、殺したという事実だけ。
 ここで一匹殺しておけば、道に飛び出した猫を救って死ぬ人間も減るはずだ。もしも、未来に兄と同じような人間が存在するんだとしたら、猫を殺すことは未来の彼の命を救うことにつながる。兄を失って悲しむ妹も減る。そんなめちゃくちゃな理屈をつけて、自分を納得させたこともある。
 理屈では納得しても、罪は消えないのだということに気付いたのは最近のことだ。
 どんな理屈があっても、殺戮は殺戮であり。
 血も涙もない、ただの外道だ。
 戦場で人を殺すのも、ホームに人を突き落すのも、樹海で首を吊るのも、極限状態で人を殺して食べるのも、ガス室に人を閉じ込めるのも、全部、全部、一緒なのだ。これは罪を犯した人間にしかわからないことなのだ。裁判で、無垢な人間が汚れた人間を裁くことは、実はおかしい。汚れた人間の罪は、同じように汚れた人間にしか理解できない。すべての裁きは理不尽だ。裁きの中に理解が存在しないことこそ、この世で一番気味の悪いことである。意味のわからないものに価値を定めて断罪する、なぜそんなことができるのか、理解に苦しむ。しかし、そんな断罪がなければ秩序が保たれないのも事実である。
 わたしの猫殺しも――どうしようもない罪悪だ。そこには断罪があるべきだ。
 わたしは、罪を告白しよう。
 罪に至ったすべてを懺悔しよう。
 兄にも、謝ろう。
 でも、どんなに懺悔し、反省し、悔やんでも、罪はなくならない。
 失った命は、戻らない。
 兄が戻ってこないのと同じく。
 わたしが子猫を殺してしまったことも、取り返しは付かない。


+++


「――あずはさんはさ、まじめだよね」
わたしの話を聞き終え、コロリくんはそんなことを言った。
「……まじめ?」
猫を殺すことの、どこがまじめであろうか。まじめならそんなことはしないだろうと思う。
「今の世の中、人を殺して何とも思わない奴もたくさんいる。罪なんてあってないようなものさ。この間も言ったけど、かわいがった家畜を食べちゃうのだって罪だろ。でも、屠殺は普通に行われる。物を食べないと生きていけないという理由があれば、殺戮は許容されるんだ。人間は、罪を犯しても麻痺しちゃうように出来てるのさ。なのに、ちゃんと罪を罰そうとするあずはさんって、めちゃくちゃ古臭くてカッコイーと俺は思うけど」
 わたしは、絶句する。
 そして、黙ったままで思う。
 わたしは苛立っているんだ。
 自分にではなく、この、目の前の青年に対して。
 なぜ苛立つのかと言えば、彼がわたしを否定しないからだ。
 わたしは、
 否定してほしかった。
 猫を殺すのは間違いだ、
 天国のお兄さんもかなしんでいる、
 懺悔して裁かれるべきだ、
 粛々と、罪人として生きていくべきだ、
 そんな言葉がほしかった。
 そう言ってもらえれば、気が済むような気がした。
 わたしは、誰かに否定されたかった。猫殺しで外道な自分を、完膚なきまでに否定してほしかった。
「俺はあずはさんを否定したりしないよ。そういう正義っぽい行為は違う人にやってもらうべきだ」
わたしの心を読んだように、彼はそう言って笑った。
「俺はね、自分が大嫌いだ。屠殺は罪悪なんかじゃないし、人肉を喰うのは外道のすることさ。人間が人間を滅ぼすなんて、明確に間違ってるよ。だけど、人間が地球からいなくなったら俺は幸せなんだ。そんな汚い自分は、この世から消えてほしい」
「……死にたいのですか?」
わたしはそう問いかける。コロリくんは軽くうなずいた。
「ああ、死にたい。俺は最初からそう言ったはずだよ。俺は死ぬべきなんだ」
「わたしは、死にたいと思ったことはないです」
猫を殺そうと思ったことはあれど、自分を殺そうと思ったことはない。
コロリくんは苦笑する。
「あずはさん。俺はあなたがそういう人だと思ったから、声をかけたんだよ」
わたしは、彼を最初に見たとき、今にも死んでしまいそうな顔だと思った。
だから、コロリくん、などとふざけて呼んだのだ。
「俺は死にたい仲間が欲しかったわけじゃないからさ。たぶん、俺もあずはさんと同じ。自分を否定してほしい。死にたいなんてゆーな!って怒鳴ってほしい。でも、あずはさんはそんなことはしないんだよね」
「……わたしは」
どうだろう――とわたしは思考する。答えは簡単だった。
「わたしは、あなたともう少し話していたい。あなたが死んでしまったら、少しだけ悲しいです」
「うん、俺はそんな言葉は望んでなかったけど、そういうのも悪くない」
「あなたの命は……」
わたしは、コロリくんの目をまっすぐに見た。

「あなたの命は、猫よりも軽いものなんかではない。簡単にどぶに捨てていいものなんかではない」

わたしのその言葉に、コロリくんは面食らったように一瞬だけ沈黙して、そして。
「うん、今、少しだけ生きていようと思ったよ。地球上に存在する人間なんて滅べばいいって思ってたけど、あずはさんにだけは滅んでほしくないっていう気がする」
くすり、とわたしは少しだけ笑った。

 これは偽善である。
 しかし偽善は善よりも美しい。
 なぜなら、人類は偽善を規定する行為をやめないからである。
 わたしは、命の重さではなく、命の軽さを知っている。
 命は何よりも軽い、吹けば飛ぶ木の葉のような存在だとわかっている。
 だが、その事実を知っているからこそ、誰にも死んでほしくない。
 大切なものではないからこそ、大切にしたい。
 もう、目の前で誰かが犬死にするのはまっぴらだ。
 だから、わたしは別れ際、彼にこう言った。

「また、会いましょう。」

 りょーかい、と彼は言う。軽い口調で、約束をする。
 今、この世で何よりも尊いのは、その約束の重みだった。
 兄にも同じことを言えば、彼は死ななかったかもしれない、と思った。
 もちろん、兄は兄であり、コロリくんではないのであるから――どうやっても死んでいたんだろう。
 どんな策を尽くしたとしても、彼はあの日、あの瞬間、猫を助けて死ぬ。
 その事実は変えられないけれど、わたしは生きている兄を夢想してしまう。
 想像の中の兄は、まるで思い出のように優しく笑って、わたしに語りかける。
 そんな兄が憎くて、愛しくて――わたしは夢から逃げるために、今日も現実へと走り込むのだ。



110202