real-world.


その陸橋には存在意義があまり感じられなかった。真下の道を通る車はほとんどなく、わざわざ上に上がらなくとも、少し歩けば横断歩道だってある。
それゆえ、その橋の上に人がいるのを見たのは、初めてだった。
最初、その丸いシルエットが何なのかよくわからなかったが、よく見るとどうやら人だった。
スキンヘッドか坊主頭で、頭の輪郭があまりにもはっきりと丸く映しだされていた。
そして、その人物は微動だにせず、夕陽を背負っていた。
逆光のせいで、顔どころか、前を向いているのか、後ろを向いているのか、あるいはそれ以外なのか、それすらもよくわからなかった。
あまり見つめていると不審に思われるかもしれない。
そう思って視線を外すと、紫色の夕陽で眼球まで染まりそうだった。
少し離れてからもう一度その人のほうを見ると、やはり顔は見えない。少しも動くことのない人影。本当にあれは人なんだろうか。
これはわたしのくだらない感傷にすぎないが、なんだか幸せそうに見えた。

NighOt-world.


その夜、わたしは同居人が寝ている間に、静かに外へ出た。
深夜二時。
陸橋に上がると、その人はまだそこにいた。
話しかける勇気はない――ただ、後ろを通り抜けようとした。
彼は深刻な、アインシュタインのような顔で、この世界のすべてを見極めるように、呆然としていた。
ここに彼の意識はないのかもしれない。
今は夜。たゆたうわたしの意識もここにはないのだから、おあいこだ。
車は通らない。先も見通せない。誰もいない陸橋で、アインシュタインは、何を見ているんだろう。
彼の脳にわたしの脳を接続してみたら、彼の視界を知ることができるだろうか。
相対性理論というのはどういう理論なのか、わたしは知らないけれど、彼なら教えてくれるかもしれない。

toY-morning.


帰宅すると朝だった。当然の現象だ。
同居人はトーストをかじっているところだった。
ブルーベリージャムと苺ジャムの上からマーガリンを塗っている。グロテスクだが、おそらくおいしいだろう。
わたしは炊飯器を開け、茶碗を手にした。
さらにザーサイ、浅漬、ベーコンをとりだして、いただきますと言った。
その間に同居人はさっさと出て行った。
わたしたちはかつて、同性でありながら恋人と呼ばれる仲であったはずなのだけれど、最近はよくわからない。
そもそも、「同性でありながら恋人」というその在り方そのものが、わたしと彼女にとっては間違っていたのかもしれない。
体をつなぐこともできないのに、わたしはなぜ、彼女がいつまでもわたしのそばにいてくれると錯覚したんだろう。
ふたりともがそういうものに魅力を感じていないならともかく……わたしは、彼女が好きで、なおかつセックスがしたかった。その時点でアンバランスだった。
女性には性欲が欠けている、三大欲求なんてものが成立するのは男性だけだ、とよく聞くけれど、その説は少し解せないところがある。まず、快楽の追求のみが性欲であるわけではない。
三大欲求の一部に組み込まれている「性欲」というのは、子孫を残し繁栄するための種の本能のことなのだろうし、地上に存在している女性すべてに性欲がないというのならば、人間なんてものはすでに滅んでいるに決まっている。「男性に比べ、女性には性欲が欠けている」というのも一般的な事実ではあるのだろうけれど、ここにいるわたしには性欲がある。「ないのが当たり前だ」というふうに語られると、自分を否定されいてるようで落ち着かない。
一方、わたしの選んだ彼女は当然のように最初から、「ないのが当たり前だ」と主張していた。
彼女はわたしとは対極にあり、わたしのことが好きだからではなく、異性とまじわりたくないからという理由で、同性のわたしを恋人に選んだらしい。
わたしは彼女が好きだった。でも、彼女はそうじゃなかった。
その理由付けは、すくなくともわたしにとって、とても無慈悲だと思う。
やりたいことのために行動する人間は図々しく貪欲だが、やりたくないことのために行動する人間は、浅ましく、狡猾だ。
彼女は、わたしのことが好きだから恋人になったのではない。
同性で、彼女にとって都合よく振る舞う誰かなら、誰でもよかったのだ。
もはや恋人ですらなく、ただの奴隷だったのかもしれない。恋という名の天秤は、はじめからくずれて、こわれていた。
わたしは完全な同性愛者ではない。彼女のように異性を忌み嫌っているわけでもない。そもそも、異性がどうとか、同性がどうとか、そんな基準はわたしのなかではどうでもいいことだった。同性愛は世間体が悪いとか、親にも言えないとか、そういう話をよく聞くけれど、わたしは自分の恋人が女性だからという理由で、世間体が悪くなると思ったことはない。異性や性行為を汚いと思ったこともない。その一方で、両性愛者、という響きにもしっくりとこないものを感じる。同性愛者でなければ両性愛者でもない、異性愛者でもない。そんな自分が何者なのか、よくわからない。
ただ、わたしはわたしを必要としてくれさえすれば、唯一に愛してくれさえすれば、相手はどんな人だろうとよかった。誰のことだって、ちゃんと愛せると思った。
「誰でもいい」「どんな人でもいい」――そんな言葉を恋の手前に置いていたという点において、わたしと彼女は何も違わない。
ただ、わたしは彼女を愛していて、愛ゆえにまじわりたいと思った。彼女はわたしを愛すことはなく、そしてまじわることを拒否した。違うのは、そこだけだ。
泣きたくなるほど痛くて孤独な夜を回避できるのなら、どんな相手でもいい。切実にそう思っていたのだけれど、彼女の側はむしろ、わたしと過ごす夜を億劫に感じていたような気がする。隣で眠る彼女が不幸そうに眉をひそめているのは、とてもかなしい。外に飛び出して、陸橋も道路も何もかも越えて、月世界まで行ってしまいたくなった。アスファルトのように暗い夜空は、きっと駆け抜けたら気持ちがいいだろう。朝が来たらすべて焼け焦げてしまうとしても。

話を戻すが、そもそも、彼女と破局するのは当然の流れのようにも思える。
たとえば、食べ物を食べない人間や、睡眠をとらない人間がいたとして、わたしは彼らと恋人になることができるだろうか。
答えはわかりきっている。できない。
なのに、なぜ、同じ欲求を共有しない彼女と、うまくいくなんて思ってしまったのか。
矛盾してしまうけれど、「愛してくれるなら、一緒にいてくれるなら、どんな人でも」とは思ったものの、やっぱり誰でもいいなんてことはないのだ。そんなのは当たり前だ。「夕食は何がいい?」「なんでも」なんて会話を交わしておいて、実際に用意されたメニューを見たら後悔してしまうことは、誰にでもある。
たしかに、彼女とは気があう。映画の趣味も、読書の趣味も、とても似通っている。きっといい友だちにはなれたことだろう。だがそれでは、恋人にはなれない。
そして、これからそのことを考えなおしてやり直すのは、もう遅い。出会ったときから、友だちになるという選択肢は提示されていなかったのだから。
いつのまにか、わたしは彼女のことが好きではなくなってしまった。彼女は最初からわたしのことなんて好きじゃない。もうわたしたちは何にもなれない。
この同居状態――そう、最初から、同居であって同棲ではない――も、惰性でズルズルと続いていくだけだ。

皮肉なことに、いまだに、わたしと彼女の心は常に響き合っている。
テレパスのように、同じ言葉を、彼女が声を出さずに叫んでいるのがありありと分かる。
彼女の心はこう言った。
『ひとりにはなりたくない。』
わたしの心も、やはり同じだ。
『もうひとりには戻りたくない。』
わたしは、ひとりになるくらいなら、いっそ、愛情なんてなくていい。セックスもなくていい。彼女と一緒にいたい。
わたしの切実なる三大欲求の一部分も、そのためならばよろこんで捨てよう。性欲のみでなく、食欲と睡眠欲を消し去っても構わない。
わたしは愚かだ。これでは愛をもたない彼女と同類。まったくもってお似合いだ。
だが、もう、これしかない。
他の道は、可能性は、とっくに閉ざされた。
ふたりきりの袋小路は心地が良い。
もうこの先に進むことはなく、道に迷うことも考えなくていいのだから。

NiSght-flight-world.


その夜、またわたしは動き出した。
陸橋のアインシュタインは、やはり思索にふけっていた。
どうしてだろう、わたしは彼のことがとてもうらやましい。
わたしだって、この夜に浮かんでいたい。
同じ場所に立ち止まって、いろんなところへ向かっていく車や人を眺めていたい。
袋小路に立ち止まるのではなく、せめて可能性の岐路に立ちたい。
だが、もはやわたしには何かを変えるという意思がない。
彼女と別れて、そのまま誰にも出会えなくなってしまうのが怖い。
ひとりぼっちで生きていくのは、怖い。
惰性で、同情で、愛のない、利害だらけの、恋をした。
今わたしの手にあるのは、その恋の残骸。
飛べない飛行機のようなその残骸を失いたくなくて、わたしは、心を砕いて彼女の機嫌をとろうと思っている。
アインシュタインは何も言わなかった。わたしも無言で、彼の後ろをそっと通り抜けた。
その一瞬だけ、なぜか満たされた気がした。
わたしが彼に背を向けたその一瞬、きっと彼は夜空へと溶けて消えてしまったに違いない。

nextT-day.


恋は簡単に終焉するし、愛は簡単に変質する。
翌朝、彼女は部屋にいなかった。
トーストを焼いていたらしい匂いだけが部屋に残っていたが、彼女を示すものはそれくらいだった。
彼女はどうやら、この袋小路に嫌気が差したらしい。
わたしはとりあえず、炊飯器を開けて米を盛り始めた。
ザーサイ、浅漬、ベーコン。いつもの雑多なとりあわせだ。
何の脈絡もない、意味もない、ただ好きなものを三種類集めただけの朝食。
でも、わたしはこの朝食がとても好きだった。
わたしの目の前でいつも彼女は、トーストを焼いていた。
ブルーベリージャム、苺ジャム、マーガリン。
やはり彼女もわたしと同じく、好きなものを三つ合わせて、ただ黙々と食べていた。ふたりとも、お互いの好みに口を出さない。そのかわり、相手と同じものを食べることもない。その距離感は、たしかに居心地のいいものだったと認めよう。彼女だって、このときばかりはわたしを悪く思ってはいなかったと思う。
そんな彼女はもういなかった。
立ち止まる理由を失い、袋小路は瓦解する。すべての壁と障害物は取り払われた。
わたしの前には、広い道が見える。
今なら、どこへでも行ける。北へ、南へ、東へ西へ。どの方向にもすすめる。
どこにでも行けるということは、こんなにも虚しい。
そしてどこにでも行ける今だからこそ――あの陸橋へ行こうと思った。

RE:REal.


太陽は天へと昇ろうとしている。昼間の日差しは懐かしく、外出することもまた懐かしかった。
陸橋のアインシュタインに会うのは二度目だ。それ以外のときに会った彼は、彼であって彼でない。まぼろしみたいな存在だった。
わたしは彼の顔をよく知らない。
しかしながら、彼がずっと陸橋にたたずんでいたという事実は知っていた。
今日は、彼に話しかけてみようと思った。でもすぐに、その思いつきは取り下げた。
陸橋は今日も閑散としていたが、アインシュタインはちゃんとあのときと同じく、そこにいた。

太陽の下だから、彼の顔がちゃんと見えた。アインシュタインというより、キュリー夫人みたいな、小さな顔だった。
その顔は若さに満ち、太陽に負けないくらいの生気に輝いていた。
整った目鼻と、濁らない瞳が、うつくしい。
その風貌に、ひどく驚かされた。
わたしは彼を、老齢の男性だと思っていた。
最初見たときは、彼の輪郭や、髪のほとんどない風貌、かもしだす雰囲気、すべてが――わたしよりも一回りも二回りも年上の男性のそれだった。
しかし今はそうではなく、同い年、あるいは、もっと下――明らかに若者になっていた。
そのとき、わたしはふとひらめいた。
初めて彼を見たあのとき、たしかにアインシュタインは老齢の男性だった。
わたしが必死に恋の残骸に心を砕いている間、彼はずっとここに立っていた。
その間に、彼はうつくしい青年へと変貌していったのだ。
わたしには性欲がある。それゆえ、恋とはきれいな幻想ではなく、汚い欲のぶつかり合いなのだと知っている。
あの気高い彼女ですらもその醜さの例外にはならず、彼女はわたしを、自分の孤独を埋めるために利用しようと画策したらしい。そのことも、わたしは知っている。
性欲のない恋はあっても、エゴのない恋はない。
恋することは汚れていくことで、そもそも人間同士の絆なんてのは油汚れのかたまりみたいなものだ。
そうしてわたしたちが、欲と欲をぶつけて争い、すり減り、醜く老いていった間に――彼は争わず、欲をもたず、すり減らなかったとしたら。
誰ともまじわらないで空とだけまじわりを持つこの人は、老いすらも置き去りにして――時間を逆流していくように、そのうつくしさの純度を増していくのではないか。
飛べない飛行機をあっさりと捨て、飛べる飛行機すらも捨てて、彼はそのまま何も持たず、空へ昇っていくのではないかと思えた。
わたしは泣いていたかもしれない。
気づいたら、彼の隣にわたしが立っていた。陸橋から見る景色は、素朴で何の変哲もない。車も人も通らない、粗末な車道が見えるばかりだ。きっとすぐに飽きてしまうだろう。
彼はやはり微動だにせず、わたしの存在には気づかないようだった。

わたしは「性欲とは種の繁栄をするための生物的本能だ」なんて言ったけれど、あれはくだらない戯言だったのかもしれない。
彼の隣で海のような空を眺めていたら、小学生の頃に図書室で読んだ、子供向けの絵のついた「シャーロック・ホームズ」のことを思い出した。
ホームズといえば理知的な活躍をする探偵という印象なのだけれど、わたしの記憶しているホームズのセリフは、そういった理知的なイメージとは遠い。

「なぜ大洋の底一面が牡蠣で埋め尽くされないのか、あれほど多産の生物なのに。」

どんな場面だったか思い出せないのだが、彼はうわごとのようにそう言っていたと記憶している。彼の言った他の言葉は何も覚えていない。
ならばわたしは、かの有名な探偵のうわごとにならって、こう言おう。

「なぜこの世界は人間で埋め尽くされないのか、あれほど孤独を嫌ういきものなのに。」

この問いに対する答えは簡単である。
人は孤独を愛しても、いやむしろ孤独を愛することで、空に溶けるようにうつくしくなることができるからだ。わたしはその一部始終を見た。どんなに偉い誰かがが否定しても、実際にこの目で彼を見たのだから、この答えは曲げない。
絆がうつくしいなんてのは、孤独を愛せない誰かの言い訳だ。わたしも彼女も、絆にしがみつこうとしたから、こんなにも、餓鬼のように、醜い。
絆をもたないアインシュタインはきれいな目の青年となり、老いを忘れ、わたしのような雑多な人間を見ることもなく空へ落ちていく。
そんな彼を見ても、わたしはやっぱりひとりにはなりたくない。孤独を愛したくない。今すぐ飛んでいって、彼女にすがりついて泣きたいくらいだ。
わたしは彼女のためなら、三大欲求をすべて捨ててもかまわないと言った――それでも、孤独になりたくないという気持ちだけは捨てられなかった。
陸橋のアインシュタイン。彼はわたしと違って、きっと何も持っていない。だから飛行機がなくても飛べる。
彼と同じにはなれないだろうけれど、なんとなく、このまま空を見ていれば彼に近づける気がしていた。
明日の朝起きたら、何も塗らないでトーストを食べようと、青い空に右手を浸しながら思った。




ダブル・スタンダードというのは悪だと思われがちだし、実際に非常に迷惑なものではあるんでしょう。
でも、一人の人物の中に矛盾する価値基準が存在してしまうというのは、実に人間的だと思ったりもします。
極端な話、矛盾しないことしか言わないコンピュータのような人と、すぐにダブル・スタンダードに陥ってしまう人だったら、後者のほうが人間らしい気がしてなりません。
常に価値判断がゆらぎ、すぐに結論を撤回し、精密な論理から遠ざかっていく。そんな人はきっと大多数に嫌われるでしょうが、わたしはどうしても嫌いになれません。

そんなあやふやな価値基準をもった思考回路の女性と、なにももたないだれかのお話、「陸橋のアインシュタイン」でした。
作中の引用は、アーサー・コナン・ドイル「瀕死の探偵 THE ADVENTURE OF THE DYING DETECTIVE」(青空文庫)より行わせていただきました。

[2013年 09月 06日]