異説・羅生門

 下人は雨の中を走っていた。先ほど、門の上にいた時分に一度止んだかと思われた雨であったが、それはまた再び、激しくなりだしたようである。
下人の手には薄汚れた布切れが握られている。羅生門で、女の髪の毛を抜いていた老婆の纏っていたものである。くすんだ桧皮色の布切れ。それはつい今しがた、自分が初めて、生きるために誰かを傷つけた証であった。
 下人は夜の闇の中を走りながら、何度目かわからないため息をつく。さっき、自分は老婆から着物を剥ぎ取った。その瞬間、自分は飢え死にをしないために、これから盗人として生きてゆく覚悟ができていたはずであった。
 なのに、どうだろう。今下人は、とてももやもやとした、嫌なものの中にいるような気がしていた。本当に、これで良かったのだろうか。彼は自問した。老い先の短い婆さんの着物を奪い、自分は生きる。しかし、自分に他人を踏みつけてまで生きてゆく価値は果たしてあるのだろうか。これからも、何人もの人から金を奪い、物を奪い、未来を奪い、そうして生き残った先に、何か、意味はあるのだろうか。
これでは門の下で悩んでいたときと同じだ――彼は雨に打たれ、思った。何一つ変わってはいない。一つだけ変わったとすれば……自分は、一人の貧しい女を不幸にした。罪を、犯した。それだけである。
 だが、である。下人は腹が減っていた。とりあえず、この着物を売って何か食べ物を得なければ……そう、意識の片隅では思っていた。こんな薄汚い布切れである。二束三文にしかなるまいが、さしあたり何か口に入れなければ、死んでしまう。売るための店を探さねばなるまい……そう思ってはいたものの、例の良心が下人を引止めにやってくる。今頃あの老婆はどうしているだろうか。この肌寒い雨の夜に、あの羅生門に、自分は年老いた女を裸で置き去りにしてきてしまったのだ。彼女が、もしもあすこで死んでしまったなら、自分が殺したことになるのではないか。羅生門の死体の山の中で独り朽ち果てる老婆の死骸を想像し、下人は身震いした。
「あ」
と、下人は小さな声をあげ立ち止まった。息があがっている。自分は案外長いこと走りつづけていたらしい。
下人が立ち止まったのは、目の前に女がうつぶせに倒れていたからである。おぎゃあ、おぎゃあ、という耳障りな声に気づき女の背をみると、そこには幼い赤子がいた。女は赤子を背負ったまま気絶しているらしかった。
「おい、大丈夫か」
声をかけ、しゃがみこんで下人は女の顔色をみた。
う、と下人は呻いた。それは女ではなかった。すでにかなり腐敗が進んだ、それは女の死体だった。つんと鋭く鼻をつく死臭が、下人を唐突に襲った。下人は慌ててその場から飛びのいた。そのとき、
おぎゃあ、おぎゃあ――赤子の泣く声が下人の耳についた。この赤子はいつ頃からこの場所に一人でいるのだろう。そういえば、泣き声が弱弱しいようにも感じられる。もう、長くは生きられないのだろうな……下人は思った。
 下人の心に、そのときまたある勇気が起こった。赤子を助けよう、などという善の勇気ではなく、この死んだ母親が金になるものを持ってはいまいか――もしも持っていたら、それを奪って、今持っている老婆の着物と共に売ってしまおう。それはそういう思いつきであった。少なくとも、生きている者から物を奪うよりも、気が楽なはずだと下人は踏んだ。生きている者を襲う盗人には、ならなくて済む。死人には、髪の毛も金も必要のないものなのだ。
そう言い聞かせながら下人は母親の死骸を調べ始めた。残念なこと、というべきか、女はほとんど物を身に着けてはいなかった。結局、下人は鮮やかな赤い色をした櫛を一つ、女の懐から見つけただけに終わった。そして気づいた。おそらく、この女は自然に死んだわけではなく、盗人や賊に襲われて殺されたのだ。行き倒れたのであれば、先に赤子が死んでしまうはずだからである。つまり、目ぼしい、価値のあるものや金は全て、賊に奪われていて当然なのである。下人はまた、何度目かわからないため息をついた。もっと早く気づいていれば、気味の悪い死骸を丹念に調べることなどやめていた。いくら死体の珍しくない時代とはいえ、用もないのに見知らぬ女の死体に手を加えるなどということは、あまり気持ちのいい物ではない。
 盗人になることを避け、罪悪感を軽減しようとした行為が失敗に終わったことで、やはり生きている人間を襲わなければ生きていくことはできないのだろうと下人は結論付けた。羅生門の下で、「罪人になる」か「餓死する」かで悩み続けた彼は、その二つ以外に選択肢があるのなら、それを選びたいと思っていた。しかし、このとき下人は、生きていくためにはやはり罪を犯さねばならないことを、再認識した。
 人を襲ってしまおう。人を襲い、殺し、金や金になりそうなものをねこそぎ奪ってしまおう。そう、下人は決めた。下人は腹が減って眩暈がしていた。もう自分のくだらない良心にしがみつくのはやめにしようと、彼は心に誓った。思い出したように頬にできたにきびを撫で、下人はそれをつめの先でつぶした。
 おぎゃあ、おぎゃあ……だんだんと弱く小さくなる赤子の鳴き声を背に、下人は歩き出した。雨はもう止もうとしていた。
 
 下人が歩いていると、前から人が歩いてきた。下人は身構えた。その人間が非力な女や、自分より腕力のなさそうな男だったら、一気に襲いかかろうと下人は決めた。
 闇の中をだんだんと近づいてくるその人間は、一見奇妙な風貌をしているように下人には見えた。だが、近づいてみて、下人はそれが坊主であることに気づいた。
 坊主……! 下人はこみ上げる笑いを抑えられなかった。いくら腹をすかしているとはいえ、自分が坊主より非力なはずがないと下人は思った。同時に、初めて人を襲い、殺さなければならないという決意に身が震えた。
 ある程度坊主が近づいてくると、下人は距離を詰め、飛びかかった。坊主は慌てた様子もなく、逃げようともしなかった。何だ、こいつは……下人は一瞬戸惑ったが、そのまま坊主を組み伏せて首を絞めた。坊主は抵抗しなかった。
「何故、何故、抵抗しないのだ」
とうとう下人は首を絞めながらそう尋ねた。首を絞めていては返事ができないかもしれないと思い当たったが、力を緩めた拍子に反撃されるかもしれないと思い、力は一瞬たりとも抜かなかった。坊主は首を絞められながらも落ち着いた声でこう答えた。
「生に執着することに意味などありましょうか」
「綺麗事を。生に、生きることに執着するからこその、人間であろう」
下人は焦った。早く、早くこいつを殺さなければならない。下人が今まで真摯に悩み、苦労をして結論付けたことを、この坊主の言葉が一瞬にして無に帰してしまうような、そんなぼんやりとした不安が下人の中にあった。下人は坊主の首にかける力を強くした。
「生きることに意味などありませぬ。貴殿はもうそのことをわかっておられる」
「うるさい」
「わかっておるのに、答えは見えておるのに、何故、目を逸らされる。真っ直ぐに、前を見なされ」
「黙れ」
下人は全身の力を腕に込め、坊主の首を絞めた。もう坊主は何も話さなかった。頭が真っ白になり、下人は何を考えられなくなった。
 答えが出ているだと?
 もう、俺が、わかっているだと?
 しばらくの間下人は手の力を抜くことができなかった。ぱらりと頬に触れた雨の感触で、下人ははっとして手を離した。当然のことながら坊主は死んでいた。その顔は醜く膨れ上がっていたが、苦悶の表情は全く見られなかった。下人はそれを見て急に怖くなった。首を絞められて殺された人間というものは、とてつもなく苦しみながら、それこそ地獄の業火に焼かれるような苦しみを味わいながら死ぬのではないのか。なのに、この坊主の顔ときたら、そんな苦しみなど微塵も感じさせない。この坊主は何者なのだ。本当に、人間なのか。ぞくぞくと背筋が寒くなった。
下人はみたび降り出した雨を体に浴びながら、ふと。操られるように、傍に落ちていた、坊主の唯一の持ち物の、包みを開いた。そこには、下人の思惑通りならばあるものがあるはずだった。
あった。
下人はそれを手にとってじっと眺めた。それは、鈍く光る小刀であった。あの坊主がどういう意図でそんなものを所持していたのかはわからないが、下人はそんなことはどうでも良いと思った。
下人は迷わず、それを自らの胸に突き刺した。赤いぬるぬるとしたものが、胸から腹へと伝う。
「そうだ、俺はわかっていた」
消え入りそうな、しかししっかりとした声音で、下人はそう言って、坊主の死骸のすぐ横にばたりと倒れ伏した。
 下人の、当初の願望――餓死と、盗人になるという選択肢以外に選ぶことのできる道があるとしたら、それを選びたいという――あの坊主は、おそらく下人の悩みなど、そして望みの薄い願いなど、全てお見通しだったのだ。その上で、なぞなぞのような、思わせぶりな言葉を吐いて、下人に、あることを気づかせたのだ……。
 生に執着することに、意味などない。
 悩まずとも、終わらせてしまえば良いのだ。

雨が降っている。二人の男が道端に倒れている。一人は仰向けに、そしてもう一人はうつ伏せに。仰向けになった男は、顔が真っ赤になって醜く大きく膨れている。首には人間の手の跡がついている。うつ伏せになった男の周りには、紅い血だまりができている。
ざあざあと、雨が降っている。
夜の闇はもうすぐ、明けようとしている。

 ……下人は気がかりな夢から覚めた。
 胸の辺りがずきずきと傷む。頬の、にきびの跡にはぽたぽたとしずくが落ちてきている。屋根に雨漏りができているのだ。簡素な寝床に寝かされているため、酷く体の節々が痛い。朝の光が、何処かから差し込んでいる。
 下人は、はっとして体を起こした。
「何処だ、此処は」
下人には帰るべき家などない。それに、下人は罪のない坊主を殺し、道端で自害したはずではなかったか。
「おやおや、起きられて大丈夫ですか、お若い方」
落ち着いた声が聞こえ、下人はそちらを見た。そこには背の低い老婆がいた。羅生門で会った老婆とは対照的な、穏やかな笑みを口元に浮かべた老婆である。遥か昔の、遠い記憶の中の母親を、下人は思い起こした。
「俺は死んだのではないのか」
「いいえ、あなた様は死んではおりませんよ。この老いぼれが、あなた様を此処に連れてきて、傷の手当を致しました」
淡々と、老婆が告げた。この荒れ果てた京都で、怪我をした他人を自分の家に連れ込み、あまつさえ手当てをするなど、非常識もはなはだしい。
そう下人が告げると、老婆はころころと笑った。
「そうかもしれませんねえ」
下人はその笑顔を見て拍子抜けした。
しかし、次に老婆が吐いた言葉で、下人は凍りついた。
「あなた様が殺した坊様は、この老いぼれの、息子なのでございますよ」
下人は老婆の顔を、目を、見た。そこに怒りはない。ただ、風のないときの湖の底を見ているような……静かに波打つ何かがあるのに下人は気づいた。
「俺を、どうするんだ」
下人は顔面蒼白になって言った。手当てをされたといっても、胸の傷はまだじくじくと痛む。今、刃物でも持って襲いかかられたら、いくら力のない老婆だとはいえ、殺されてしまうかもしれない。もう生きることに対する執着など、あの自害の瞬間に捨てたはずではあった。しかし、やはり死ぬのは怖い。昨日一度死にかけた身であるから、余計に死にたくないという気持ちが強まる。
下人は老婆の返す言葉を待っていた。老婆は下人の表情を探るようにしばらくじっと見つめていたが、やがてこう言った。
「そうですねえ、とりあえず、雨漏りを直して頂こうかしら」
下人が何も言えずに、驚いて老婆を見やると、彼女はにっこりと笑った。質素な窓から差す日の光が、彼女の穏やかな笑顔をそっと照らした。
 その老婆の笑顔を見て、生きてみるのも良いかもしれないと、ふと、下人は思った。

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