恋、その不可思議な迷宮について

 プレイヤーをポケットにねじ込み、再生ボタンを押す。そうして音楽を頭蓋に流している間だけ、彼は平静でいられる。誰もいない部屋で一人、同じ曲ばかりを脳に詰め込む。とっくに飽和している脳髄は、音を飲み込んで膨らむ。膨らみすぎてぶくぶくと肥大化する。奇妙に変形した脳を眺めて、今日も自分は生きている、と彼は実感する。
 自分を正常と認識している人間が正常であるとは限らないが、自分を異常だと認識している人間は大概の場合本当に異常である――というのが彼の人生哲学の主たるもので、要するに彼は自分を異常だと思っている。音を脳に詰め込んで破綻を夢見ているのも、自分を歪ませる行為の一環だ。他者の発する音と自分の発する声は酸素と二酸化炭素のような関係であると彼は考える。自分で声を発することなく音だけを取り込んでいけば、いずれ内側から破裂する。酸素を取り込んで二酸化酸素を吐き出さない肺のように。
 内側から破綻する自分、というビジョンはわりと妥当なものだ、と彼は捉える。なぜなら、そうしなければもっと不吉な未来が訪れるからだ。彼はある少女のことが好きだ。ただの好きではない、肉欲としての愛情。けれど、その想いは絶対に許されない。彼と少女は同じ名字を持ち、同じ住所を持ち、同じ家族を有する、兄妹なのだ。
 この気持ちを抱いたまま生きていった場合に、彼が少女をめちゃくちゃにしてしまわないという保証はどこにもなかった。むしろ気持ちは肥大するばかりで、どこにも収束しない。だから、彼は自ら破綻する道を選ぶことにした。きわめて明瞭な結論だ、と思っている。
 脳が音で満たされつづけていれば、いずれくだらない肉欲はプチプチと押しつぶされて消えてしまう。すべてが消失するまで、彼はこの部屋とこの音楽から逃れられないし、逃れようとも思わない。自分のことは大した問題ではなかった。一番大切なのは、少女を醜い獣から守ることで、醜い獣の正体は彼自身だ。
 彼より三つ年下の妹は、正常だった。長く伸ばした茶髪を器用にワックスで固めて、毎日そつなくメイクをこなし、人間関係をまっとうに構築する、どこまでも普通な少女。彼女が彼のそばを通ると、ふわりと香水が香る。あるいは香水ではなく彼女自身の匂いなのかもしれない。彼はその香りが好きだが、その香りは彼の中にいる獣を呼び起こす。だから、彼はその香りが大嫌いでもある。自室にいても、その香りを思い起こすだけで、獣が起き上がってうめき始める。低い声でうめきながら、獣は獲物を捕らえる機会を狙っている。彼はそれを律するのに必死だった。

 彼と少女の関係性を語るためには、まず、いじめの話をしなければならない。彼の妹は、小学生のころ、いじめられっ子だった。なぜいじめられたか、ということについては語らない。なぜなら、彼はいじめに理由を見出すことに価値を感じないからだ。いじめるのにもいじめられるのにも、固定的な理由なんて存在しない。人間は理由がなくても、平気な顔で他人を傷つけられる。誰も傷つけずに生きている人間などいない。広く捉えれば、誰もが誰かをいじめている。そんな社会で、いじめに責任を問う意味はない。
 ただし、感情が割り切れるのと理屈が割り切れるのは、また違うということも彼は理解している。
 彼は、妹がいじめに遭っているのを知り、いじめている側の人間を可能な限りボコボコに叩きのめした。当時、彼女は小学二年生、彼は小学五年生。妹のクラスメイトと彼の間には圧倒的な腕力の差が存在し、彼が妹のクラスメイトたちを泣かせるのは簡単だった。妹は彼に感謝し、しばらくは彼を神のように崇め、慕った。とても気分が良かった。
 それから数年、妹は彼を慕ってくれた。それはあくまで肉親への愛であり、肉欲に発展しうるような種類のものではありえなかった。しかし、彼は無条件に愛を与えてくれる少女の姿に、あるときどうしようもない劣情を抱いてしまった。情動が溢れだして止まらなくなり、彼は恐怖した。彼の通っていた学校が閉鎖的な男子校だったのもよくなかった。彼は妹しか異性を知らないまま、思春期を迎え、精通を迎えてしまった。
 タイミングが悪かった――ということなのだろう。
 妹は共学校に進学して、当たり前の友だちと当たり前の彼氏を作って、当たり前の生活を送った。彼には当たり前の生活は訪れなかった。彼は妹の面影に依存したまま、大人になった。
 妹のことが好きだという気持ちは、どれだけ頑張っても収まらなかった。
 自分が愛しているのは現在の妹ではない。自分が颯爽と救った、かつてのか弱い少女だ――ということもわかったうえで、彼は今の妹が好きだった。妹が付けている香水は、きっと学校で男を作るための小道具だ。自分なんて、妹の世界の中にはこれっぽっちも介在しない――それでも彼は、妹を諦められない。

 もう少しだけ、いじめの話をしようと思う。
 『いじめ』という現実はどこにも存在しないのではないか、と彼は感じている。
 在るのは、被害妄想と加害妄想、そして外界を遮断する閉鎖空間。
 いじめている、という誰かの意識。
 いじめられている、という誰かの意識。
 いじめという幻想を封じ込めるシェルターとしての、学校とか会社とか、そういうもの。
 その三つが合わさって、幻想を組み立てる。
 まるで蜃気楼のように、その場所は空っぽで、そこには何も存在しない。
 彼が中学に通っていたころ、クラスのすべての人間のかばんから、財布が抜かれていたことがあった。体育の時間で、教室には誰もいなかった。犯人は捕まらなかったし、警察も呼ばれなかった。きっと、被害総額は相当なものだっただろう――けれど、そこに犯罪という現実は存在しなかったのだ。ただ、クラスの人間が少しずつ損をした。財布が、虚空に消えた。それだけ。
 彼の財布には二万円が入っていた。バイトで必死にためた金だった。その金はもうどこにも存在しない。彼がバイトしたという事実ごと、どこかへ消えてしまった。
 学校という閉鎖空間の中で、窃盗罪は成立しなかった。
 なのに、いじめという罪が成立するわけなどない。それが、中学生の彼が得た答えだった。
 誰かが大けがするか、あるいは死ぬか。そんなことでも発生しない限り、外界は閉鎖された学校に干渉しない――中学生の財布なんて、あるのかないのかすらわからない曖昧な存在だ。その財布を持っている中学生本人だって、外界からしてみれば、曖昧な存在なのではなかろうか。
 誰かがいじめたと言えば、いじめたことになる。誰かがいじめられたと言えば、いじめられたことになる。しかし、そこに本当にその事実が存在すると、どうやって立証するのだ?
 加害妄想と、被害妄想と、現実。その間に境界線なんて、ないじゃないか。
 彼は、強烈な加害妄想と被害妄想でがんじがらめにされた自己を認識しながら――そんな風に思っている。

 現在――妹は、大学のクラスメイトの一人をいじめているらしい。
 暗くて、うざくて、どんくさくて、どうしようもない女で、それなのに妹につきまとう。そんな彼女のことを、妹は『お化け』と称している。黒髪が野暮ったくてうっとうしい。話しかけるのをやめてほしいのに、彼女はそんな妹の気持ちを解しない。妹は毎日のようにそう主張しながら、死ねばいいのに、と言う。
「あんなお化け、死んだって誰も困らないのに」
その言葉を聞いて、彼はひそかに身を震わせる。彼も髪を染めていない。黒髪が野暮ったいという妹の暴言は、もしかすると遠回しに彼を批判しているのかもしれない。実は『お化け』なんて人物は存在しなくて、妹は彼に死んでほしいのかもしれない。気持ちを解さない彼のことを疎んでいるのかもしれない。
 ああ、もう、どうにでもなればいいんだ。彼は思う。妹が死ねと言うのならば、彼は喜んで死ぬだろう。しかし、自分が思っていることを理解しないおまえはクズだ、と暗黙のうちに言われているのだとしたら。彼はどうすればいいのだろう。
 いつのまにか、彼は自分を『お化け』と呼び始めていた。
 妹の香水を嗅ぐたびに湧き上がってくる一定の衝動も、妹が暴言を吐くたびにどこかで怯えている情けない自分も、何もかもが怪奇に思えてならない。自分は人間ではなくお化けなのではなかろうか。むしろそのほうが都合がいい。人間を超えた何かならば、実の妹に欲情しても、モラルには反しないだろう。



 ところで、人間は幽霊を怖がるものだが、幽霊は幽霊と出会ったとき、何を思うのだろうか。やっぱり、怖いのだろうか。それとも、人間が人間を愛するように、彼らも同族を愛せるのだろうか。
 その日、彼は『お化け』に出会った。
 より正確に呼ぶのならば、妹が『お化け』扱いしている少女に、出会った。
 本屋の店先で、ベストセラー書の並ぶ列を、迷子の子供のように眺めている黒髪の少女。
 一度だけ、妹に写真を見せられたことがある。彼はその顔を覚えていた。
 当然のことながら、彼女は彼の顔を知らない。そのまま、無視して通り過ぎてしまえばよかったのに、なぜか、そうできなかった。魔が差したとしか言いようがない。
「すいません。井上詩織の、お友達ではないですか?」
彼は、彼女に話しかけた。井上詩織、というのは妹の名前である。口に出してその名前を言うのは、久々だった。
彼女は一瞬驚いて息をとめたあと、「ええ、そうです」と答えた。

 彼女の名前は香穂子と言うのだそうだ。妹は『お化け』としか呼称しないので、彼はその名前を知らなかった。
 彼は自分も名前を名乗り、本がお好きなんですか、と尋ねた。
「ええ。でも、売れている本はどうにも苦手で」
「それで、あんな困った顔で立っていたんですね」
「え、わたし、そんな顔してました?」
恥ずかしそうにうつむく香穂子の黒髪が揺れる。
「ええ、してましたよ」
彼は妙にすらすらと言葉を発している自分に気づいて、少しおかしくなった。妹以外の異性とまともに話すのは、初めてだった。
「今、お暇ですか?」
「え、ええ。もう、これから家に帰ろうかと思っていました」
唐突な彼の質問に、香穂子はそう答えた。
「これから一緒に、夕食を食べませんか。ぼくもちょうど、暇していたところなんです」
彼の提案を嫌がる様子もなく、香穂子はゆったりと笑んだ。
 その表情はか弱いけれども美しくて、彼は心の中でガッツポーズをとった。

 パスタ専門のレストランに入ると、周囲はカップルばかりだった。もしかすると自分たちもカップルだと思われているかもしれない、と一瞬思ったが、特にそれ以上の感慨を彼が抱くことはなかった。
 香穂子は、黒髪で、化粧っ気がない。野暮ったいと妹が言うのも頷ける外見だったが、日本人形のように長い髪はさらさらで、顔立ちも整っていて、彼が思い描いていたような『お化け』ではなかった。想像の中の『お化け』にシンパシーを覚えていた彼は、少しだけがっかりした。
 パスタが運ばれてきて、必然的に、妹の話をすることになった。他に共通の話題があるかどうか、わからなかったからだ。
「詩織さんが、わたしのことをお兄さんに言っていたのですか?」
「あ、ええ」
どんなふうに言っているのか、と尋ねられたらどうしようか。お化け扱いしているなんて言えない。
彼は少し戸惑ったが、香穂子は寂しそうに笑うだけで、特に追及してこなかった。
「……わたし、詩織さんに嫌われていると思います」
「そんなことは、ないよ」と言いたかったが、すぐにバレる嘘はつけない。彼は黙るしかなかった。
「きっと、詩織さんはわたしに失望しているんです」
「どうして、そう思うんですか」
「最初は、とても優しく接してくれました。でも、今は、そうじゃない。詩織さん、わたしとは一緒にいたくないんだと思う」
彼はうつむいたまま、フォークにパスタを巻きつけ続けた。香穂子の顔を見ることが、どうしてもできなかった。パスタを口に入れる気にもならず、ただフォークを弄っていた。
「詩織さんは綺麗だし、わたしとは違う。友達だって、いっぱいいる。ただ、わたしを拒絶したら、体面が悪くなっちゃうから、一緒にいてくれるだけ。わたしには詩織さんしかいないけど、詩織さんにとってのわたしは、そうじゃないんです」
あ、と香穂子は何かに気づいたように声をあげた。
「ごめんなさい、話しすぎてしまいました。詩織さんの悪口みたいで、気分悪かったですよね。悪口じゃないんです。わたし、詩織さんのこと、尊敬しています」
「ぼくはさ、君の気持ちがわかる気がする」
彼は自分でもよくわからないうちに、そんなことを言っていた。
「詩織が君に優しくしてくれたなら、詩織はその責任をとるべきなんだ。一瞬だけ気まぐれみたいに優しくして、そのあとで急に態度を変えるなんて、卑怯だ」
香穂子は呆れたようにぽかんと口を開けていたが、やがてくすくす笑い始めた。
「お兄さんは、子供みたいですね」
まったくもってその通りだったので、彼は苦笑いした。責任を取るべき、なんて言ったのは、自分の都合だ。いじめられている妹を助けた彼を、妹は愛してくれた。その結果として、こんなどうしようもない自分が形成されたのに、妹は何事もなかったかのようにのうのうと暮らしている。そのことが、彼は許せなかった。逆恨みだとは分かっているけれど、自分の気持ちを理屈で割り切ることが、できない。妹が彼に優しくしなければ、彼はこういう人間にはならなかった。それだけは確かなのだ。
「わたしは、正しいのは詩織さんだと思います。なぜなら、わたしは間違っているからです」
彼が怪訝そうな目を向けると、今度は香穂子が苦笑した。
「ねえ、お兄さん。知ってますか。正しいか間違ってるかは、多数決で決まるんです。事実や現実なんて、多数の民衆の前では意味を持ちません」
ああ、知っている――彼はそう答えながら、現実が現実と認識されなかった過去を思い起こしていた。返ってこなかった、彼の財布。帰ってこなかった、彼だけの理想の妹。それらも、多数決で導き出された結果なのだろうか。
「だから、わたしは自分が間違っていることを否定できません。いつだって、わたしは少数派なんです。たくさんの人が、わたしを否定します。おまえは間違っている。そう言われて初めて気づくんです。自分が普通じゃなかったことに」
「俺は、言われる前からわかっていた」
彼が独り言のように漏らしたその言葉に、香穂子は何も言わなかった。彼は、口に出してから、それが独り言ではないことに気がついた。さっきまでは『ぼく』と言って猫を被っていたのに、台無しだ。
 彼は、誰かに指摘されるまでもなく、わかっていた――妹に欲情する自分の愚かさくらいは。世間のセクシャルマイノリティへの冷たさも、知っている。見ている世界が狭いからだ、思春期の一時の勘違いだ、生まれついての変態だからだ……そんな風に、民衆は彼らを追い詰めていく。そう、正しいのはいつだって『多い方』で、自分はいつだって『少ない方』なのだ。
 ただ、『間違っている』という言葉でそれを定義するのは初めてだった。
 自分は、間違っている……その言葉がしばらく、脳の中でリフレインした。
「お兄さん、またわたしと会ってくれますか?」
別れ際、勇気を振り絞るようにしてそう言った、香穂子の顔が忘れられない。
 それは、彼がいないと世界が終わるような、顔だった。


 香穂子とは、定期的に会うようになった。香穂子が彼と会っていることを詩織が知っていたのかどうかは、定かではない。少なくとも家庭の中で、詩織が香穂子の話をすることはなかった。香穂子という名前はもちろん、『お化け』の話も出なくなっていた。妹は、いじめに飽きてしまったのだろうか。いじめなんて、一種の娯楽のようなものだ。飽きてしまえば、それまで。恋人を捨てるのも、友達と縁を切るのも、いじめをやめるのも、全部一緒だ。彼には恋人も友達もいないし、いじめられてもいない。誰が恋人を捨てても友達と縁を切ってもいじめをやめても、彼には関係ない。根本的にどうでもよかった。
 ただし、香穂子は幸せになるべきだ、と彼は思っている。会うたびに、彼は香穂子がどうしていじめられるのかわからなくなる。少し性格は暗いかもしれないが、美人で、愛想がいい。頭もいいようだ。
「わたしなんて、この地球上に生きる価値もない女なんです」
香穂子が時折そんな風に謙遜する言葉を、いつでも彼は全力で否定した。
 香穂子には、生きる価値がある。
 少なくとも妹に欲情する自分よりは、ずっとずっと世界にふさわしい。『生きていてもいい人間』と『死ぬべき人間』に人類を分ける機械ができたとしたら、きっと彼は死ぬべき人間の方にふるい分けられ、香穂子は生きていてもいい側に行けるだろう。では妹はどうだろう、と考えてみたが、よくわからなかった。多数派が正しいという香穂子の弁によるのなら、妹も『生きていてもいい人間』になるに違いないであろう。しかし、香穂子に不愉快な思いをさせた妹の罪は、そんな風に許されてもいいものなのだろうか。
 彼には、いまだにわからない。


「地球って、星屑なのですよ」
ある日、香穂子がそう言った。二人は、海辺を散歩していた。夏の終わりの夜。もう海には誰もいなかった。
「何億光年も離れた星は、地球に住んでいる人にとっては、あってもなくても同じですよね。それなら、その星に住んでいる誰かから見ても、地球はあってもなくてもいい星で、空の隅にあるだけの星屑です。所詮、それくらいのもの」
「なんか、そういう厭世的なことを言われると、逆に俺は励まされる。なんでだろうな」
彼はそんな感想を述べつつ、香穂子と一緒に星空を眺めていた。
「それは、わたしたちがマイノリティだからですよ」
「『明日地球が終わるとしたら、どうしますか』って聞かれると、普通は悲観的な意味で地球が終わるんだと思うんだろうけど、俺はむしろ、世界が終わったら嬉しいな。ああ、ようやく地球が終わる。俺の人生も終わる、やった、ラッキー、って思う」
「自分から死ぬ気はしないけれど、みんなが一様に死ぬなら、世界なんて終わったっていい。平等に振り分けられた終わりならば、きっとそれは不幸ではないのですから」
香穂子はその言葉の内容にそぐわない明るい笑顔でそう言って、彼も微笑み返した。とても気分が良かった。
 星空の下で、いつまででも、こうして二人で生きていければ。他愛ない話をして、笑い合って、世の中の人間とは違う世界で生きられたら、きっとそれは無上の幸せだ。星が瞬いている。星がどこにもいかないのと同じように、香穂子もどこにも行かなければいい。
「ところでお兄さん――免許って、持っていますか?」
香穂子の唐突な問いかけで、彼は水を浴びせられたように現実を思い出した。
――彼は免許を持っていなかった。


 そう、免許の話をしなければならない。
 これはそもそも、そういう物語なのだから。
 恋愛免許制度というものについての彼のスタンスを言えば――言うまでもなく、彼は免許制度自体をなかったこととして脳内で処理していた。免許を取ったところで、妹は彼を好きにはならないし、おそらく免許制度も兄妹の恋愛を認めてはいないであろう。ならば、免許のことなんて考えるだけ無駄だ。考えれば考えるほど、妹が手に入らない事実を見つめなくてはならなくなる。そんな現実と生身で戦えるほど、彼は強くなかった。
 香穂子に免許の話をされた彼は、大幅に動揺した。香穂子のことは好きだったが、恋愛という言葉でその感情を括ったことはなかった。あくまで友情の延長線の関係だと、無意識に信じていた。香穂子と海辺で語り合ってもなお、彼が抱きたいと思い、愛してやまないのは妹だけだった。
 彼は、香穂子の元から逃げだした。
 砂浜に足を取られ、香穂子が背後から呼び止める声を無視し、ただ走りつづけて、家に帰った。
『免許って、持っていますか』――それは、免許制度ができて以降、告白の定番のセリフとして世の中に出回っている、悪しき呪文である。それくらいは、世間知らずの彼でも知っていた。
 部屋に飛び込んだ彼はイヤホンを耳に強く押しこんで、音楽を流し始めた。音楽が脳に流れ込み、それに押し出されるように涙が出た。音楽が流れつづけるのと同じスピードで、涙が流れつづけて止まらなくなった。
 もう香穂子には会えない。
 彼は、そう心の中で唱えて、泣きつづけた。




 急にドアが開かれて、彼は心臓が飛びあがるかと思った。彼の部屋の扉が開くのは数日ぶりで、ついでに述べておくのなら、妹がそれを開けたのは、初めてだった。
「ちょっと、にーちゃん、電話に出てくれない?」
妹はつかつかと歩み寄り、彼に自分の携帯電話を突きだした。とても機嫌が悪そうな顔。
彼は何が何だか分からないまま、それを受け取る。
「電話終わったら呼んで」
と言いながら、妹は出ていった。
「もしもし」
注意深く、自分の名前を言わずに彼は電話に話しかけた。
「あの、お兄さんですか?」
――その声は、忘れるはずもない。香穂子だ。
「お話があるんです。お兄さんは大きな勘違いをしています」
「勘違い?」
香穂子は一拍置いて、彼の耳に声を流しこんだ。
それが妹の携帯電話であるということも忘れて、彼はその声に聞き入る。
「わたし、あなたに告白したわけではないのです。わたしも、免許なんて持っていないから」
「は?」と、実際に声に出したかどうかはわからない。彼は混乱していた。
「詩織さんの電話をいつまでも使うのは悪いですし、会ってお話していただけませんか?」
香穂子がそう言った。彼はたぶん、頷いた。
自分でも覚えていないうちに電話を切り、妹に返し、そして彼は数日ぶりに家を出た。
香穂子に会うために。

「お兄さんは、人の話を真面目に聞かないところがあります」
と、香穂子は開口一番に指摘した。スターバックス・コーヒーの外にあるテーブル席に、二人はいる。もう秋になるのだが、注文したのは二人ともアイスコーヒーだった。
「確かにわたしの言い方もややこしかったかもしれないですが、言い訳する暇も与えず逃げるなんて、お兄さんの器の小ささがうかがえます」
香穂子の意見は辛辣で、穏やかな表情の下で彼女が怒っていることが容易にわかる。彼はすっかり縮みあがって、何も言えなくなった。
「あ、今日はお兄さんにそんなことを言いたかったわけじゃないんです」
香穂子はコーヒーを一口飲んでから、思い出したように話題を転換した。
「わたしは、恋愛免許なんてものに興味はなくて――きっと、これからも免許を取ることはないでしょう。その理由を聞いたら、きっとお兄さんはわたしを嫌いになる」
「は?」と、今度は確実に口に出して、彼は言った。香穂子の言っていることが、よくわからなかったからだ。
「でも、お兄さんも無免許なのだったら、言ってしまってもいいかもしれない。お兄さんには、知る権利があるから。そう思ったのです、海に行った日に」
「ちょっと待って。知る権利があるってどういうこと?」
「あなたは詩織さんの兄なのでしょう?」
「ああ、そうだけど」
今、この話に詩織が関係しているとは思えなかった。香穂子は何を言いたいのだろう。
「お兄さんは、わたしが詩織さんに不当ないじめを受けていると勘違いされているようです。それは、詩織さんの名誉を傷つける、悪質な誤解です」
「実際に妹が君にひどいことを言うのを、俺は何度も聞いたよ」
「ですからそれは、詩織さんに非はないことだと言いたいのです。悪いのはわたしです」
それは、君の加害妄想だ。
悪いのは、間違いなく詩織だ――と言おうとした彼の言葉をさえぎって、香穂子は言葉で空間を切り裂いた。

「わたしは、詩織さんの友達などではありません。昔は友達だったかもしれないですが、今は純粋にそういう気持ちで彼女を見ることができない。わたしは同性愛者なのです」

彼女が切り裂いた空間の裂け目に、彼は落ちた。自由落下の感覚。体が、引力に引かれてふわりと下へ落ちていく。その感覚を味わいながら、彼は出会ったばかりの香穂子とレストランに入ったことを思い出す。異性と二人きりで食事をする、そんなシチュエーションだったのに、彼はまったくドキドキしなかった。周囲はカップルばかりで、そういう場所だということははっきりとわかった。そこでその感情が起こらないのは、不自然だ。
 その後、香穂子と何度会っても、恋愛感情を意識することは一度もなかった。その理由を、彼は「自分が本当に好きなのは妹だから」だと定義した。けれど、それだけではなかったのだ――香穂子も、彼のことを恋愛対象として見ていなかった。
「詩織は……それを知ってるのか?」
「わたし自身は、言っていません。でも、詩織さんはきっと、何か、不自然さをわたしから感じとっているのです」
「それで拒絶した……っていうことか?」
「たぶん、そういうこと。だからこれは、当然の報い。いじめではありません。わたしはいじめられてなどいません」
香穂子は表情を変えずにそう言った。
『いじめ』という現実はどこにも存在しないのだと、彼はずっと思っていた。
そして確かに、香穂子と詩織の間に生じた軋轢は、いじめという言葉でくくれるものではなかっただろう。
その場所に、いじめなどという現実は存在しなかった。
そこにあったのは、ただ香穂子が不当に傷つきつづけるだけの――現実だ。
そう認識した彼は、広すぎる大海に漂うペットボトルのような気分になった。
そのペットボトルが、別のペットボトルに出会う可能性は。
人間に拾われる可能性と比べると、どちらの方がありえることなのだろうか。そして、どちらが幸福なのだろう。
彼はずっと、人間に拾われることを夢見て、流れてきたはずなのだけれど。

彼はしばらくして、顔をあげた……ある決意を、胸に秘めて。
「ちょっと待ってくれ。俺にも言いたいことがある」
「なんですか?」
「俺は、妹が好きなんだ」
彼は勇気を振り絞ってそう告げたのだが、香穂子は不思議そうに目を細めるだけだった。
「兄妹なのですから、好きで当然ではないですか?」
「違う。そう言う意味じゃなくて――君が詩織を好きであるように、俺も詩織が好きなんだ」
香穂子は目を見開いて絶句していた。少し時間が経過して、彼女はコーヒーを一口飲んだ。
そして、
「――なんだ。そういうことかあ」
屈託なく、心底おかしそうに微笑んだ。彼にはその反応が、理解できなかった。コーヒーを頭から浴びせられるくらいの覚悟はしていた。それなのに、まさか、そんな風に軽やかに笑うなんて。
「わたし、なんとなくおかしいと思っていました。あなたは、少々ストイックすぎる。もしかするとわたしと同じような人間かもしれないって、考えたこともあるくらいに」
「気持ち悪く、ないのか?」
唖然とした彼がそう問いかけると、香穂子は人さし指で彼の額をつついた。
「それは、わたしのセリフです。お兄さんは、わたしのことが気持ち悪くないのですか?」
「気持ち悪く、ない」
「わたしも、お兄さんのことを気持ち悪いとは思いませんよ」
香穂子は堂々とそう言って、この世のすべてを許すように笑った。
「お兄さんと初めて会った日――わたしが何を考えていたか、わかります?」
「本屋で、本を見てたんだろ?」
「この本の山に灯油をまいて、火をつけたらよく燃えるだろうなって思ってたんです」
平然と告げられたその言葉に、彼は今度こそ本当に、呆然とした。
香穂子は、遠くを見るような目つきになって、語り始める。
「詩織さんとまだ仲が良かった頃、彼女が本を貸してくれたことがあります。すごく売れている本で、みんな、それをおもしろいって言ってました。でも、わたしにはどうしてもおもしろいとは思えなかった。こんなの、どこがいいんだろう……って思った。せっかく詩織さんが貸してくれたのに、申し訳なかった」
香穂子の声は、彼には泣いているように聞こえた。
「わたしが、ベストセラーの本を嫌いなのは、きっと詩織さんが本を貸してくれたときからなんです。詩織さんの好意を、上手に受け取ることができなかったから……」
彼は、ただ黙っていた。香穂子は言葉を継いでいく。
「あの日のわたしは、現実がとてもとても嫌になって、極限まで落ち込んでいて。今にも泣きだしそうだった。もしかすると本当に、ライターで火をつけてしまっていたかもしれない。お兄さんが声をかけてくれたのは、そういうときのわたしだったんですよ」
迷子のように、本屋にたたずんでいた香穂子を思い出す。
別れ際、彼女は世界の終わりのような顔で、彼を引きとめた。もう一度会ってほしいと、香穂子は言った。
その言葉の重さを――初めて、彼は理解した。
毎日、好きな相手に冷たくされる悲しさ。
かつて、優しく接してくれたはずの人に、そっけなく接されてしまう虚しさ。
両方とも、彼にはよくわかる気持ちだった。
彼の衝動が音楽を脳髄に流し込んで脳を変形させることに向かっていったのと同じように、香穂子はあの場所にたたずんで、頭の中でひたすら本を燃やしていたのだ。

「お兄さんは、あの日、わたしの世界を救ってくれたのです」

香穂子がそう言った、その言葉で、彼は世界が終わるような気持ちになった。
世界が終わるとしたら、彼はきっと喜ぶ。ようやく世界が終わる、この世界から救われる、そう思うに違いない――ずっと、そうイメージしていた。今、こうして世界が終わるような気持ちになることも、決して悪いことではない。何かが終わることは、何かから救われることと同じなのだから。

「俺たち、同じ相手を好きになったんだな」
彼は思わず、そうつぶやいていた。ええ、と香穂子は頷く。
「あんなやつの、どこがいいんだ?」
彼がそう言ったのを聞いて、香穂子はおかしそうに笑った。
「高慢ちきだし、化粧濃いし、自己チューだし」
彼が詩織の欠点を列挙し始め、
「気まぐれだし、好き嫌いは多いし、すぐに彼氏を取り換えるし」
香穂子も彼の真似をして、そう言った。彼は腹を抱えて笑う。
「……恋愛、っていうけどさあ」
彼は香穂子がコーヒーを飲んでいるのを見ながら、そう切り出した。
「恋と愛って、別のものなんじゃないかなあ……って、俺は思うよ」
「それは、どうして?」
「詩織はどこがいいのかわかんないようなやつだ。正直、どこにでもいる普通の嫌な女だ」
「それは確かに、そうですね」
「香穂子は、俺と同じ匂いがする。俺は香穂子が好きだ。一緒にいて一番楽しいのは、間違いなく香穂子だ」
「でも、それは恋じゃない――」
香穂子は彼の言葉の先を読むみたいに、そう告げた。彼はゆっくりと頷く。
「俺が恋しているのは詩織で、俺は香穂子には恋しない」
「わたしが好きなのは詩織さんで、わたしは、お兄さんには恋しない」
香穂子は、彼の言葉をなぞって、言った。
 もし、彼が香穂子を好きになっていれば、あるいは香穂子が彼を好きになっていれば、物語は簡単に収束したはずだ。それはとても都合がよく、どこにでもある、普通のストーリーになったことだろう。
 けれどここにある現実は、そんな風に美しくはならない。
 井上詩織は、決して振り向きはしない。もう、愛してくれることすら、ない。彼女はいつだって『多い方』に平然と立っていて、『少ない方』にいる彼を憐れむように見ている。それでも彼は、そんな彼女だからこそ憧れ、恋する。その無謀な恋は、決して終わらない。
 そんな絶望すべき現実の風景を――彼は、ようやく正面から受け止めたのかもしれなかった。
 音楽を脳に詰め込むことでも、部屋に閉じこもることでもなく――同じ悩みを抱えた香穂子と話すことで。
 現実は変わらないのに、なんだかとても、すがすがしい気持ちだった。

「恋じゃないってわかってても、俺は香穂子と会いたいと思う。それは、綺麗事だろうか?」
「わたしだって、同じ気持ちです」
香穂子はおどけるように首をかしげて、彼に笑いかけてくる。
「恋愛無免許同士、仲良くしていただけますか?」
「もちろん」
彼が香穂子にそう答えることをご都合主義と呼ぶのなら、きっと、それはご都合主義だったのだろう。
――ご都合主義だっていいさ。幸せなら、なんだっていい。
そううそぶきながら、彼と彼女は現実を生き抜くための共同戦線を張ったのだった。



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思っていたより長くなってしまいましたが、
性愛と情愛が合致しなかった二人のお話、いかがだったでしょうか。
書いている間とても楽しかったので、自分的には悔いはありません。