メトロ・アンド・コスモ

 抽象画は目に痛い、と最初は思っていた。しかしながら、じっと見つめていると少しずつ、引きこまれている自分に気づく。大好きな絵のなかに閉じ込められるという、かの有名な歌を恐怖していたこともあったのだけれど、よくよく考えれば、大好きな絵のなかに生きられることはしあわせだろうと思う。

 作家という立場からも、自分の小説のなかに入ってしまいたくなることはある。わたしは、自分の小説に誇りを持っている。作家としてはむしろ足かせにも思えるその誇りの性質のひとつに、自分にとって理想的な世界を、小説として描き出したいという願望が含まれている。

 むろん、「理想的な世界」という概念は非常に流動的であり、一定ではない。あるときは「戦争のない世界」であり、またあるときは「不幸な子供のいない世界」であり、さらにまた別のときは、「わたし以外の全員が不幸な世界」でもある。
 また、「戦争の終わらない世界」でもあるだろうし、「生まれてくる子供がすべて不幸な世界」でもある。要するに、そのときのわたしが「こうあってほしい」と望みながら、無意識のうちに紙のなかに実現しようとしているなにか。一応断っておくが、そこにはイデオロギーや特定の思想はない。わたし自身の立場なども、小説の内容にはまったく関係ない。ただ、それとは矛盾するようだが、すこしでも、この世界に対するなんらかの希望が存在しているからこそ、わたしの小説は完成するのである。

 何を言っているのかわからない、と思われるだろう。残念ながら、それがわたしの文章の売りである。わたしが、いちばん最初に出版社に持ち込みをした時、編集者はこう言った。
「文体の矯正をせず、今のままで、その『わけのわからなさ』を最大限に活かしきった文章を書いてほしい」と。
 わたしは言うとおりに、自分の表現形式を固定して書き続けた。その結果、まったく売れない作家になってしまったのだけれど……少なくとも編集者にとって、そして数少ない読者にとって、意味のわからない支離滅裂な文章にこそ価値があるらしい。

 抽象画に話を戻そう。今日、わたしは編集者とふたりで美術館にやってきた。普段、編集者以外の人間とはまったく交流がないせいで、わたしはひどく浮き足立っている。もともと、めったに外にでることなどないのだ。ましてや、美術館なんて。少なくとも成人してからは訪れていない場所だ。
 最初は駆け足に絵を見ていたのだが、途中、わたしは絵に引き込まれてしまった。絵の具に、呑まれてしまうような錯覚。画家の精神にとりこまれ、濁流のような執念に自身を責められる。画家は、死してなおこうして他人を狂わせるような、情念を筆に含ませて操っているとでもいうのだろうか。もはや何色かもわからないぐちゃぐちゃの世界にトリップしながら、わたしは編集者の後ろ姿を眺めていた。もともとが抽象であるせいか、絵に具体的なイメージがないことも、いっそう、わたしの心を蝕んでいた。しかし、そのトリップが妙に心地よい。

「先生、さすがに没頭しすぎですよ。この後、打ち合わせがあるのですから、そろそろでませんと」

編集者の声で、急に体が冷えて、現実に意識を戻された。否、わたしの身体だけが現実の世界に押し込まれた、というほうがしっくりくる。思念はまだあの絵のなかにある。しかし、編集者にそんなことを言っても信じてくれるはずがない。

「わたし、絵を見るよりも物販を見るのが好きなんです。先生、はやく出口に行きましょう?」

 編集者の声に、わたしの身体は頷いて……歩き出す。しかし、その身体を思念のわたしが眺めている。まだ、呑まれたまま。わたしの心が、置いて行かれている。からっぽの身体だけが歩き出している。待って、置いて行かないで……子供のように叫んでみるものの、それは本心ではなかった。わたしは、ほっとしていた。これからも、あの身体は機械的に同じような文体の小説を書き続けてくれるだろう。わたしはこの大好きな絵のなかで、静かに、ぐちゃぐちゃに、溶けていく。何の伏線もない、何の意味もない、わたしのこころ。そして、この世界。流動的に変化していく小説のなかの希望は、結局のところ、わたしのこころがいつだって、決まった思想を持たず、ただ流されていくだけだということを物語る証だ。だが、これからはもう、この絵という希望がある。
 物販なんて、絶対に見たくない。このように人のこころを取り込んでしまうような魔性を、金で切り売りするなんて。それは、悪魔的な絵を描くよりもずっと悪魔の所業に思えた。いつだって、悪いのは何かをつくる人間ではなく、それを使って紙幣を大量に手に入れるような人間であるのだ。美術館という商業施設のなかだというのに、わたしはなぜだか妙に、そんな「彼ら」が憎らしく思えた。


20140526