マグカップと月夜の美酒



 空に貼られた銀紙が星のようにまたたく夜、ぼくはシルクハットをかぶったマグカップにウイスキーをもらった。「自分はマグカップであるため、このような大人びた酒は身の丈に合わない。このウイスキーをあげるから、きみのココアの粉をくれないだろうか」――彼の主張はそんなものだった。

「そんなことを言われても、ぼくはウイスキーなんて飲まんのだがね」
ぼくは苦い顔をした。酒は苦手である。特に今は、街角の歯科医院でうつ病の治療をしてもらっており、酒など飲もうものなら、歯科医院を経営するツノジカに何を言われるかわかったものではない。
そんなぼくに、マグカップはにんまり笑ってこう云った。
「これはただのウイスキーではないのだ。これは、きみの人生に希望を与える酒だよ。飲めば飲むほどに、希望に近づく美酒なのさ。飲みたいだろ?」
マグカップの言葉は、ぼくの心を揺さぶった。実のところ、あのツノジカが本当にぼくのうつ病を治してくれるのか、ずっと不安だったのである。

 結局、ポケットにたまたま入れていたココアの粉と酒を交換して、家に帰った。線路沿いにあるぼくの家のなかでは、線路をたどってやってきたらしいバラストたちがティーパーティーを開いていた。ぼくの暗い目を見て、彼らは窓から飛び散るようにしていなくなった。

「さて」
と前置きして、ぼくはワイングラスにウイスキーを注いでみることにした。前述したように、ぼくは酒が苦手だ。ワインだけが唯一飲める酒であるので、家にはワイングラスしか置いていないのである。

 ウイスキーは青い色をして、ワイングラスのなかをたゆたう。ウイスキーとはこんなに青いものだっただろうかと考えてみるが、途中でやめた。色なんてどうでもよい。とにかく、早くこの酒を飲みたかった。

 一口、飲んでみた。ガツンと頭を殴られたような気がして、目の前を青い星が舞っていた。
「なんだこれは……」
とつぶやきながら、ふらりふらり、社交ダンス初心者のように不安定なターンを繰り返して、なんだか暗い気持ちになっている自分に気がついた。
「いやいや、しかし、希望の酒というからには、もっと飲めば気分が良くなってくるに違いない」
独り言で自らを励ましながら、ぼくはステップターンをやめて、ワイングラスに残ったウイスキーを一気に飲んだ。パチン! 頭のなかの配線が狂うような音がして、また憂鬱が押し寄せてきた。幻聴だろうか、ツノジカが怒っている声がする。
「ううう」
唸り声が聞こえたと思ったら、自分の声だった。まずい。非常にまずい。暗いことしか考えられなくなってきた。
「マグカップめ……嘘を教えたな」
恨めしい声でシルクハットをかぶったマグカップのことを思い浮かべると、ポンと音を立てて、目の前に例のマグカップが出現した。おそらくは幻覚であろう。
「やあ、おいしいココアをありがとう」
「きみはおいしいココアが飲めてよかったかもしれないが、ぼくは非常に困っているんだ。この酒、本当に希望の美酒なのかい? 気分が悪くなってきたよ」
マグカップは首を傾げて、「全部飲んだんですか?」と聞いてきた。
「全部?全部だって?」
「全部飲めば、きっと希望にたどり着けますよ。妙な飲み方をすると、妙な酔い方をするもんですからね」
言われてみればそうかもしれない。薬だって適量を飲まなければ毒である。
ぼくは瓶に残っていたウイスキーを飲み干した。
心のなかに、透き通った石のようなものが出現した。
それはおそらく希望の源であったのだろう。

 ぼくは希望の正体を知り、急いで家から飛び出した。ちょうど、都へ向かうエクスプレスが線路を走っているところだった。ぼくはエクスプレスの前に飛び出し、何かを確かめるように、そのタイヤへ身を押し付けた。ぱぁっと、体の全部が霧のように散り、夜のなかへ溶けていく。突然の出来事に驚いたバラストたちは、ぼくを追いかけるように空へとジャンプを始めていた。エクスプレスはすこし戸惑った顔をしながら、都へと駆けていく。そういえば、昔、ツノジカが言っていた。この世には、体を星に変えてしまう酒があるという。その酒を飲めば、人間のうつ病なんてすぐに治ってしまう。なにせ、人間の悩みなどというものは、星の立場から考えると、くだらないものばかりなのだから……と。ぼくはツノジカを信用していなかったので適当に聞き流してしまったが、実際にこうして星になってみると、なるほど、彼は正しいことを言っていたのだ、と思うのである。


20140725