コンテンツイズキング



 他人を食い物にして生きていく自分が我慢ならぬのです。いっそ死んでしまった方がマシです。涙をたたえた目で、彼はそう訴えた。ある日のサークル集会での出来事だった。

 2014年の日本は「他人を食い物にして生きていく」人間で構築されていた。人間はSNSやマスコミュニケーションの力によって完全にコンテンツ化されている。隣人や家族ですらも、やはりコンテンツであることから逃れられない。インターネットの外側に位置する人間ならば、そのことを意識しなくてよいのかもしれないが、そうした人間ですらインターネットのなかやテレビのなかではコンテンツなのである。

 コンテンツとのコミュニケーション。あるいはディスコミュニケーション。誰かをネタにして笑い合わなければ、ほかの誰かと安定した関係性を築けない。

 それで……彼は泣いている。彼はこの情報化社会に耐えられない。他人を笑いものにし、食い物にし、電車のなかですらスマートフォンでそうした侮蔑的な情報を発信する彼らに耐えられない。

 泣く彼の隣では、友人たちがポテトチップスを食べていた。友人たちは、彼の気持ちを理解していたし、話を聞いてもいた。スマートフォンなんて持ちたくない。インターネットなんて必要ない。このサークルはもともと、そうした信条のはぐれものが集まって作ったのだ。気持ちがわからぬはずはない。

 しかし、そうして泣きじゃくられると、どうしていいかわからなかった。今更、この社会の流れに逆らうことはできない。泣いたって、むしろおもしろがってオモチャにされるだけであろう。何をしたって、目立てばコンテンツにされてしまうだけ。人間はみな肉食獣のような無邪気な残酷さを秘めている。スマートフォンを持った人間が、自分の周囲にいる見知らぬ他人の情報を無断で発信していくのは、肉食獣の残酷さそのものであった。

 彼はずっと泣きじゃくっていたが、泣くくらいならば、インターネットのない、SNSのない世界へ行くべきではないだろうかと友人たちは思った。パリパリ、パリパリ、と音を立てて咀嚼されるポテトチップスは、スマートフォンの画面に無尽蔵に流れるなかから、無作為に選び出され、脳に流し込まれていく、残忍で軽薄な「コンテンツ」によく似ていた。


20140824