「うーん、この漢字、なんて読むんだっただろうか」

 まったく興味のない番組を、テレビでだらだらと垂れ流しながら、俺は焦っていた。小説新人賞の原稿の〆切まで、もう時間がない。今回が最後のチャンスなのだ。ブラウン管テレビが奏でる、自動車保険のCMの特徴的な歌を一緒に口ずさみつつ、原稿用紙に殴り書きされた自分の文字を解読しては、ワードプロセッサに打ち込んでいる。

 世間では最近、パーソナル・コンピュータなる高性能な機械が流行しているらしい。それを使えば、もしかするともっと楽に原稿を扱えるかもしれない。だが、使い慣れたワードプロセッサから、どうしても離れられない。
 俺はワードプロセッサが好きなのだ。呼び名も、ワープロ、などという軽々しい呼称は使いたくないと思っている。ワードプロセッサ。それが俺の愛機に許される唯一の名称だった。

 とは言え、原稿を打ち込む分には、パーソナル・コンピュータでもワードプロセッサでも、たいして変わりはないかもしれない。問題は、小説新人賞において、求められている原稿の形式だ。応募要項によれば、整った書体で、誰にでも読みやすく、できれば紙に印刷されているものが望ましいということだった。

 俺は原稿用紙にガリガリと文字を書きなぐっているのだが、非常に文字が汚い。「誰にでも読みやすい」とはとても思えない。それゆえ、こうしてワードプロセッサで打ち直しをしなければならない。もう、全て書き終わっているというのに、〆切寸前まで自分の文字の解読に明け暮れている。我ながら情けないことだと思う。

 そして、俺には小説家志望として致命的な欠点がもうひとつある。
 漢字が苦手なのだ。
 自慢じゃないが、漢検五級だ。
 この原稿を書いているときは、漢字を調べるための辞典を持っていたので、原稿自体は問題なく仕上がっているのだが……原稿を書き終わったとき、誤ってコーヒーをこぼしてしまった。生命線とも言うべき辞典を失い、今、俺は自分が原稿用紙に書いた文字が読めなくなってしまったのだ。

 今は、「鈍い」という文字が、どうしても判別できない。
 「するどい」だろうか? 
 「にぶい」かもしれない。「のろい」の可能性もある。
 前後の文脈から推測しようとしても、なんだか書いたときとはニュアンスがずれているような予感が襲ってくる。
 金偏だから、金属に関連する漢字のような気がするのだが……
 深夜なので、図書館に駆け込むこともできない。本屋も閉まっている。
 知り合いも近所には住んでいない。誰かに電話で説明しようにも、「鈍」の右側の部分をどう説明したらいいかわからない。
 ああ、どうしたらいいのだろうか……こんなバカバカしいことでチャンスを失うなんて。今度からはちゃんと辞典を大事に扱おう、そして、今度のバイト給料が入ったら、パーソナル・コンピュータを買ったほうがよいのかもしれない……そう思いながら、俺はまた同じCMソングを歌い、ため息をついた。


20140929