a part of a part



 過去というのは、とてもうつくしい。なぜだかわからないけれど、どのようなひどい出来事であれ、過去になってしまった瞬間、わたしには宝石のように感じられる。

 昔、一年だけとてもひどいアパルトメントに住んでいたことがある。その年は本当に悪いことばかりが起きて、自殺でもしようかと思ったくらいだった。三条大路のそばにあったアパルトメントはとても壁が薄く、隣に住んでいる子どもの泣き声は筒抜けだったし、床は抜けそうに軋んでいた。当時、小学六年生だったわたしは、塾に通いながら大阪の私立中学の受験を目指していたのだけれど、あまりの環境の悪さに失神しそうだった。勉強をしようにも、周囲がうるさすぎる。かといって、喫茶店に通う金もない。絶望の淵に立ちながら、しかし、勉強以外に取り柄がなかったわたしは、努力をやめることはなかった。努力をやめて大人になった今のわたしにとっては、唯一の輝かしい過去である。

 あまりにひどいアパルトメントだったのだが、今思い返してみると、どうしてかわからないが、もう一度あそこに住んでみてもいい、という気持ちになる。この思いは他人には理解されないかもしれないが、わたしにとって、過去とは例外なくうつくしいものなのである。どんなに残酷な出来事であっても、どんなに大きい絶望であっても、記憶が薄れゆくにつれて色を脱色され、まろやかな風景になる。あばら家のようなアパルトメントも、それに付随する嫌な思い出も――今となっては等しく懐かしい思い出でしかない。

 わたしは今、広島に住んでいる。休みの日を使って、奈良の三条大路に行くことはできなくもない距離だ。だが、おそらく、今のわたしが三条大路に行ったとしても、あの頃の思い出には出会えないだろう。淡くうつくしい過去の風景は、わたしの脳内にしか存在しない。ボロボロで、地震でも来たら潰れてしまいそうなアパルトメントは、わたしの思い出のなかで、さらなる記憶的脱色により、どんどん理想的な建造物になってゆく。
 淡い淡いアパルトメントには、小学六年生の少女が住んで、毎日ただただ勉学に励んでいる。


20140930