ナポリを見てから死ぬ



 上野駅の改札を出ると、改札の前でいつも立ち尽くしている少女がいる。
 朝倉くらら。十七歳。本名なのかどうかはわからない。
 喫茶店巡りが大好きで、透き通るような薄い茶色の髪が印象的な女子高生である。

 改札の前といっても、人の邪魔になるようなポジショニングではない。改札からあふれる人々の波には決して触れずに、それでいて改札からは必ず見えるような位置。常識的に考えると、彼女は誰かを待っているのだろうが、いつでもそこに立っているということは、もしかすると待ち人なんていないのかもしれない。

 ぼくは、最近田舎から東京に引っ越してきて、上野という土地にベタ惚れしてしまった男である。
 奇しくも朝倉と同じ十七歳。
 美術館や科学博物館に一日中入り浸って、くたくたになって帰ろうとすると、改札の前では必ず朝倉が佇んでいるのだ。
 相手もどうやらぼくの顔を覚えているらしく、手を振られることもある。
 ぼくが彼女の名前を知っているのは、インターネットで写真を晒されているのを見たからだ。
 いつも上野駅前にいる茶髪の少女は誰なのか――という小さなうわさ話。
 そこに、彼女と同じ学校の生徒だろうか、「あれは朝倉という子だ」という情報を提供した人物がいた。本当にそういう名前なのか、でたらめなのかはわからない。喫茶店巡りが趣味というのも、そこからの情報。真偽は不明。

 朝も、昼も、夜も、朝倉はそこにいる。
 読書をしたり、ウォークマンで音楽を聞いたり、たったひとりでずっと立っている。
 いったいどうしてなんだろう?
 春がすぎ、暑い夏が終わり、透き通るような秋の空気も消えて、今は重苦しい冬。
 茶色のマフラーをしたぼくは、雪の降る上野で、ひとり立ち尽くしている彼女を見た。ふかふかの手ぶくろと、ボンボンの付いた帽子が彼女らしかった。タイツを履いているせいで足元は寒そうだったが、トナカイの模様のついたレッグウォーマーは暖かそうだ。

 そうやって詳細に観察してから、いつのまにやら、彼女に会うために上野を訪れているような気がしてきてしまった。ぼくは、どうしてこんなにも彼女を気にしているんだろう。

「あの、あなたは、いつもここに来ていますね?」

 ぼくの無遠慮な視線に気づいたようで、朝倉はついにぼくに話しかけてきた。約一年、彼女を観察しつづけてきたぼくだけれど、話しかけられるのは初めてだ。無視しようかどうか一瞬悩んだ。しかし、この綺麗な子を邪険に扱う訳にはいかないと、自分を奮いたたせる。

「ええ、ぼくは、上野が好きなので……」
「わたしも上野が好き。でも、ナポリタンはもっと好きなの」
 朝倉は、暗い光を目に宿していた。
「わたしが立っているここ。三十年前には喫茶店だったんですって。そこでは、マスターのふるまうナポリタンスパゲティが絶品だったらしいの。わたし、喫茶店巡りが趣味なんだけど、その話を聞いたとき、悔しくてたまらなくなった。どうしてわたしが生まれる前に、そんな素敵なお店があったんだろうって。それで、ずっとここに立って、そのお店にすこしでも近づこうとしてるってわけ」

 聞いてもいないのに饒舌に話す朝倉は、とても真剣な口調だった。頭がおかしいふうでもない。
 しかし、話している内容は常軌を逸している。事実であるかどうかすら危うい。
 ぼくは困惑しつつ、そのことを指摘する。

「そんなことをしなくても、今あるお店でナポリタンスパゲティを食べたらいいんじゃないの?」
 朝倉は、斜めに空気を斬って降る雪を手に乗せて、薄く笑んだ。
「あなたは何もわかっていないわ。わたしがどれほどそのお店にあこがれているか、知らないのね」
「ああ、知らない。どれだけあこがれたって、過去にはたどりつけないからね」
 科学博物館を愛するぼくは、そういった非現実的な夢想に対して過剰な嫌悪を持っている。きっぱりと否定して、にっこり笑ってみせた。こうすれば、彼女は現実に帰ってくると思ったのだ。
「過去にたどりつけないなんて、そんなことはないわ。あなたがたどりついたのは過去だもの」
 さらさらと、ぼくらを馬鹿にするように雪が降っていた。そんな雪のなかで、彼女がぼくに手を差し出す。
 その動作で、初めて上野にやってきた日にも雪が降っていたことを思い出した。
 そう、あの日も、彼女はここにいた。
 あの日のぼくは、上野という地をすばらしいものだと思った。
 それは、美術館や博物館がすばらしいからだと、この一年、考えていた。

 ――本当にそうか?

「過去になんてたどりつけるわけない、」
 と、ぼくは否定する。なぜだか必死だった。
 朝倉は、慈しむように雪を眺めているだけだ。
「人はどこにでもたどりつけるわ。それを阻害しているのはあなたの理性だけ」
 どうしてこんなふうに説教をされているのか、わからなかった。
 わからないから、ぼくはイライラした。
 でも、ぼくはこの焦がれるような怒りの感覚を望んでいる。この一年間、ずっと待ち焦がれていたとすら思える。
 ぼくは大人げなく喚き散らした。
「じゃあ、それをきみが証明してみせてよ!」
「いいわ。わたしはね、ただナポリタンスパゲティが食べたいんじゃないの。わたしと同じような人と一緒に、楽しく、同じものを食べたいのよ」

 由緒ある風景を切り取るように、何もかも消していくように、まっしろな雪が降る。朝倉は、そんな雪のなかに垂らした赤インクみたいに、消えずに立ち尽くしていた。そんな彼女の背後に、真っ赤な魔物が立っている気がした。急に、直感する。ナポリタンスパゲティが食べたいなんてのはただの言い訳だ。彼女は、こうして自らのテリトリーのなかに獲物を引きずり込むために、ここにいた。ぼくは白い雪に身を斬られて、真っ二つになった上半身を魔物に食われていく。上野駅にはもう誰もいなかったし、ぼくは上野になんていなかった。ぼくがいたのは、精神の迷宮。クラクラするような甘い陶酔に満ちた、科学の手の及ばない場所。

 初めて上野に来た日から、ぼくは彼女の姿ばかり目で追っていた。彼女は彼女で、そんな獲物を観察していた。科学博物館や美術館や動物園は確かに楽しかったけれど、思い返せば、ぼくはいつだってその楽しさを疑っていたかもしれない。むなしく過ぎゆく季節のなかで、人間の営みのすべてが、なんだか嘘くさく思えて仕方なかった。文化も、変化も、ちゃちな玩具のようだった。玩具めいているからこそ、それらはとても美しい。いつだってすぐに失われてしまう過去の記憶の残滓が、展示物として並べ立てられる場所。それが上野であった。
 ぼくは、この土地のことが、本当は嫌いだったのだろうか。
 絶対に変わらない置物のような彼女の姿だけが、魅力的に見えてしまった。
 ぼくの好きな上野は、不変な彼女がいるから、上野足りえるのかもしれない。
 でもそんなことはもう、どうだっていい。

 赤いケチャップをぼくのなかにぶちまけて、彼女はおいしそうにナポリタンスパゲティを食べる。
 白い雪は粉チーズのように彼女の上に降る。ナポリタンスパゲティには、タバスコと粉チーズがとても合う。
 麺のなかにすこしずつ見え隠れするピーマンの苦み。ケチャップに巧妙に紛れたタバスコの辛さ。ケチャップや玉ねぎの甘みのなかに、ピーマンやタバスコの残酷な顔がチラチラと瞬いていた。しかし、彼らは泥沼のようなケチャップの淀みから逃れられない。

 ここは屋根のない喫茶店の、ナポリタンスパゲティのなかだ。
 世界のどこにもない喫茶店は、三十年前に生まれたらしい。
 この店は、どろどろとした赤い淀みと、白い粉チーズと、他愛ないいろんなもので、できている。
 


20150227