『 君をふしあわせにするということ 』

 他人の不幸が嬉しいなんてどうかしている、という意見は、僕に言わせてみれば幸せな人間の戯言でしかない。自分が地獄の底ではなく普通の場所に立っているからそんなことが言えるのだ。もしも自分が今、どん底にいるのなら――違う人間がそこに降りてきてくれたら、嬉しいに決まっているじゃないか。他人が不幸に落ちたことが嬉しいのではない。自分と同じフィールドに誰かが訪れてくれたことが嬉しいのだ。
 他人の幸福が憎いのではない。
 自分の不幸が悲しいのだ。
 誰も仲間のいない場所で、暴力に怯え震え続けなければならない苦痛は君たちには分からないだろう。
 冬のベランダで震えながら眠る苦痛も。
 実の親に殴られる痛みも。
 もしもあのとき、ベランダで恐怖におびえながら眠る僕の隣に、君が来てくれていたなら。君にとっては最大の不幸だろうけど、僕は救われたに決まっているんだよ。

 だから僕は、他人の不幸が嬉しくないなどとは絶対に言わない。それは、不幸のただ中にいる僕を、誰かが救いに来てくれることを拒絶することを意味するから。僕は、君を不幸にしてでも君と一緒にいたいと思う。僕はここから這い上がることはもうできないから、幸せになるためには君を引きずりこむしかない。もちろん、嫌なら逃げ去ってしまえばいい。地獄の底にわざわざ訪れる必要なんてないんだ。でも僕はいつまででも待っているよ。この不幸の底に、君という救済が訪れてくれることを。



2011年11月10日(木)


ここは不幸の底だけれど、
幸せの底、というのは存在するのかな。
それとも幸せには根底などないのかな。
幸せになったことがないから、僕には分かりかねるけれど。