空が、青い。
正確に言うのなら、空だけが青い。
抜けるように鮮やかに、CGの海みたいな、嘘っぽい色をしている。
ここ一週間くらい、ほとんどすべてのものがモノクロに見える。
メンタルをやられたのかと思ったが、特に思い当たるフシはなかった。体調も万全だ。
教室のなかで戯れている男子たち、つまらない授業を繰り返す教師、グラウンドで飛び跳ねている生徒たち、空を飛んでいる鳥たち。すべて、白と黒で表現された世界になってしまった。唯一、教室から見える空の色だけが、くっきりとした青だ。
なにか、とんでもないものに取り憑かれてしまったかのようだった。

「あ~あ……なんでこんなことになっちゃったんだろ」

授業終了のチャイムとともに、わたしは教室の机に突っ伏した。

なまえ、大丈夫? なんか、具合悪そうだね」

隣の席に座った友人に声をかけられる。適当に笑ってごまかした。
『世界がモノクロに見える』だなんて、正直に告げられるわけがない。

「そういやさ、新しく来た先生、見た? やばいよね~」
「先生?」

特に見た記憶がない。
「やばいよね~」なんて抽象的な言葉からはなにも読み取れないが。

「やばいって、どんなふうに?」
「……見たらわかるよ。6時間目、ソイツの授業だしさ」

6時間目は数学の時間だ。
そういえば、数学の教師が行方不明になったという話を聞いた気がする。駆け落ちしたのではないかとか、先週、大騒ぎになっていた。
いまどき、仕事をほっぽりだして駆け落ちするなんて、前時代的というか、現実離れしているなと思った。どうにもウソっぽい。
別のクラスの担任教師が大怪我をして退職したという話もあったし、休んでいる生徒の数も多い。
我が校は大丈夫なんだろうか。

「うーい、席つけよ~。席ついてないやつは内申点減らすぞ~」
「ぎゃはは、内申点減らす権限なんか持ってねえだろ~、適当言うなよな~」

ゆるい挨拶とともに教室に入ってきた男性教師を見て、わたしは呆然とした。
異様な雰囲気の男だった。
黒のワイシャツに灰色がかったジャケットを羽織り、顔の上半分には白黒の仮面をつけている。
と言っても、わたしの目にはすべてのものが灰色か白か黒にしか見えないため、実際、何色なのかはまったくわからない。
仮面をつけた教師なんて、聞いたことがない。どう考えても変だ。
しかし、わたしの目が釘付けになったのは、彼が仮面をつけているからではない。
彼の締めているネクタイが、『赤かった』からである。

「……ッ!!」

黒板の周囲も、机も、教室に座っている生徒たちも、すべてがモノクロなのに。
彼には色がある。異常だ。この白黒の世界の理に反している。

「では、きょうは『二倍角、三倍角、半角の公式』を……」

などと、当たり前のように三角関数の授業をやろうとしているが、生徒たちはざわざわとおしゃべりをしている。

「番井先生! どうして仮面なんかつけてるんですか~?」
「そりゃぁさ、お前、隠しておかないと、イケメンすぎて全員が卒倒するからだよ。くだらねえこと言ってねえで、次の問題解け。5分後に当てるぞ」

番井先生、どうして、あなたのネクタイは赤いんですか……と、聞ければよかった。
でも、そんな質問、できるはずがない。みんなに変な目で見られるに決まっている。

「ん~? 全然解いてねえな。俺の授業中に別のことを考えるとは、いい度胸だな?」

耳元で声がして、ぎょっとして振り返ると、すぐそばに番井が立っていた。
いつの間に、わたしの背後に!?
まったく気配がなかったし、心を読まれたような気がして、ぞっとした。
仮面の奥の目が、わたしを見ておもしろそうに細まる。

みょうじ、放課後に教室に残れ。補習してやるよ」
「おいおい、ツガセン、女子生徒にそれはセクハラじゃね~?」「捕まるって~」などと囃し立てるギャラリーたち。しかし、当の番井は意に介していなかった。

「女子だろうと男子だろうと、できてねえやつは補習させるのが俺のモットーだからな。おまえらも、演習はちゃんとやれよ?」
「ウゲー、俺は補習は勘弁だぜ。16時からレイドイベのフィーバータイムあんだよ~」
「俺も俺も。補習はみょうじだけで充分だろ~」

……などと、さんざんなことを言われつつ、わたしは放課後の補習のことよりも、番井のネクタイのことを考えていた。
頭のなかで、鮮やかな赤が明滅する。
モノクロの世界のなかで、彼だけが色を持っている。そのことに、なにか意味があるのだろうか。

+++

放課後の教室は、本来ならば夕陽が差し込んで真っ赤に染まるはずだ。
しかし、わたしの目を通すと、完全なモノクロとなる。昼間は空の青だけががまぶしかったが、夕陽の赤は認識できない。どういう仕組みなのだか、まったく理解できない。
番井はプリントと教科書を抱えて、静かに教室へと入ってきた。

「うーい。じゃ、ちゃっちゃと補習しちゃいますか。おれもレイドしてえんだわ」

教師とは思えないハチャメチャな発言に、わたしは白けた顔をしていたと思う。

「昼間の演習をやればいいですか? わたしも、さっさと帰りたいんで、手短にお願いします」
「じゃあ、手短に聞くけど、色が見えなくなったのはいつ?」
「……え?」

心臓がバクバクと鳴る。
聞き間違いだ。わたしがモノクロの世界にいることは、わたししか知らないこと。
番井にわかるはずがない。他人の視界をハックできる人間なんて、いないのだから。

「いや~。いるんだよね。自分のなかに『膿』を溜め込むタイプのやつ。贄川みたいに放出するタイプは、存在を主張するから御しやすいんだが。溜め込んじまうと、発見が遅れて、その後、とんでもねえバケモンになることがある」

番井は、わけのわからないことをブツブツと言っている。
どうやら、わたしに聞かせているわけではないらしい。

「まだ、この学校を滅ぼすわけにはいかねえからさ。とりあえず、その目、治しとこうか?」

番井が白い手をわたしのほうへ伸ばしてくる。
まっすぐ、わたしの目を触ろうとしている動きだった。
本能的な恐怖で、わたしは椅子から転げ落ち、教室の隅へと逃げた。
……この教室には、わたしと番井しかいないのだ。
なにが起きても、だれも助けてはくれない!

「いや……! 来ないでください! これ以上近づいたら、大声を出します」
「あー。そういうのマジでいいから。こう言っちゃうとなんかベタなシチュエーションになりそうで嫌なんだけど、この教室、今、学校から完全に切り離してるからさ。窓の外、見てみ?」

言われたとおりに窓の外を見やる。
そして絶句した。
窓の外には、なにもなかった。
ただ黒いだけだ。モノクロの世界なんてものじゃない。完全にブラックアウトしている。

「なに、これ……」
「『非交差分割』だよ。ま、お前には難しすぎるか? 授業でまだやってねえしな」

番井はまたわけのわからないことを言って、ニヤリと笑う。

「色彩がなくなるってのは、女や子どもにありがちな『兆候』でな。その段階ではたいした『力』はないし、枢学的意味もなく、無害だ。しかし、目の奥に蓄積された膨大な色集合が、将来、爆発的な『力』に変わる。そのとき、理論では御しきれないほどの『グロタンディーク宇宙』が発生するってわけだ」

番井の説明を聞きながら、わたしは番井の右手に着目していた。
彼の右手が、数学のプリントにめりこんでいる。プリントの反対側に貫通しているわけではなく、その先は別の空間に通じているようだった。
ぐぐっ、と強く力を入れて引き抜くと、次の瞬間、彼の手には巨大な円錐が握られていた。
すでに理屈の世界を超えている現象が起きており、今度は逃げる気力もなかった。

「つうわけで、痛くはないから、ちょっとじっとしてろよ。悪いようにはしない」

円錐の先をわたしの目の方へ向け、彼がなにかを呪文のようにつぶやいた。
円錐の先が瞳に突き刺さり、見える世界が急激に広がる。
目のなかで、真っ赤な火花が散った。
そして意識が、風に飛ばされるように、優しく闇へと落ちていった……。

+++

きょうも、空は青すぎるくらいに青い。
校庭の桜は満開になっていて、淡い桃色が光そのもののようで眩しい。
青と桃のコントラストが奇跡めいていた。
放課後、クラスの全員が帰路についたあとで、わたしは教室の窓を開けた。
ふわりと優しい風が吹き抜けてくる。

「だれも、見てないよね……」

つぶやきながら窓の枠に足をかけ、そのまま外へと飛び出した。
足をまっすぐに下へ向け、『力』の加減を合わせると、ゆっくりと校庭に着地。この教室は、ちょうど校舎の裏側を向いているので、こうして抜け出すにはちょうどいい。
……3階の教室から、校庭までまっすぐに帰ることができる、わたしの見つけ出した『最短距離』の公式である。

「『だれも見てないよね』じゃねえよ。俺が見てるっつの。この悪ガキが」

背後から声が聞こえて振り向くと、思っていた通りの人物だった。
番井だ。相変わらずうさんくさい出で立ちで、放課後だからなのか、ネクタイは普段よりだらしなく緩んでいた。

「番井先生。待ってたんです。あの日、教室でなにがあったのか、よくわからないけど……先生がわたしを助けてくれたんですよね?」

あの補習の日、気づいたらわたしは家にいて、色彩は元通りになっていた。
番井がわたしの異常を治してくれたのは明らかだった。
枢学とかなんとか、そういう彼の理屈はよくわからないけれど……。
そして、色彩を得ると同時に、わたしは不思議な『力』を得ていた。その『力』を使って、こうして教室から『飛んで』帰ったりしているというわけだ。
番井は感謝されるのに慣れていないようで、困ったように、仮面の奥からわたしを見つめている。

「……『助けた』、ねえ。結果的には、やっかいな『力』を持ったやつを増やしちまったってことにはなるが。まあ、人を傷つけたりはしてないようだから、要観察処分ってとこかな」

番井の赤いネクタイが、春風で揺れている。
まるで彼の心そのものが揺れ動いているように錯覚して、わたしはつい、ほほえんでしまった。

「笑えるようになったなら、まあ、よかったよ。悪さ、すんじゃねえぞ?」

番井の表情は仮面のせいでわかりづらいけれど、口元はたしかに笑っていた。

+++

「あ~! つがっちだ! 元気~?」
「げっ、馬場!」

みょうじを見送ったあと、番井の背後にはひとりの教師が立っていた。
名前は馬場。専門は化学。
なぜか番井によく絡んでくる、白衣を着た陽気な男である。
彼は枢学のことはまったく知らないはずなのだが、なにもかも知っているような態度をしている。
それが番井には気に食わなかった。

「『つがっち』とか呼ぶのやめてくれる? キャラと合ってねえから」
「つがっちはつがっちでしょ~。ね、ね、みょうじちゃんと仲いいの? 彼女、筋いいよね~」
「仲良くねえよ。俺は誰とも仲良くしない主義なの」

番井が毒づくと、馬場はにやりと楽しそうに笑った。
よくないことを考えているときの笑い方だった。

「でも、いつものつがっちより、いきいきした目だったよ。この私のスペシャル・馬場・アイはごまかせない」
「……勝手に言っとけ」

馬場の話はいつも感覚的で雑然としているので、今回もスルーすることに決めた。
みょうじの笑った顔を思い返しつつ、番井は馬場に背を向ける。

「あ~! 今、つがっちが優しそうに笑ってた~! めっずらし!」

馬場の歓声が背後から聞こえてきたが、番井は全力で無視した。
桜の花びらがひとひら舞っているのを見て、番井はもう一度だけ、今度は誰にも見られないように口元を隠してから笑った。


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20240314