届かない願いというものは確かにある。現在はほぼ離反している状態とはいえ、タイムパトロールという職についているがゆえに、わたしは彼との未来に希望を見出すことができない。どれだけ希望を見出したとしても、そんなものは机上の空論。彼風にいうのならば『存在するはずのない歴史』というところだろうか。ありえない希望なんて、夢想したところで意味がない。むしろ虚しくなるのみである。

 それならば、いっそ希望なんて見なかったことにしようというのが最近のわたしの生き方だ。
 未来に希望は持たない。
 今を彼と二人で生きられれば、それでいい。それだけしか望まない。
 仲間を裏切り、時間犯罪者となったわたしの末路としては、実にふさわしい。

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 その日、彼はワイングラスのなかに日本酒を入れてゆらゆら揺らしながら、例によって椅子にふんぞりかえって座っていた。わたしはとなりで、食事を摂っていた。どうということもない、日常の風景。
 夜景を眺めながら、彼はぽつりと言った。

「ぼくはきみのことがこんなにも好きなんだけれど」

 わたしは、その声に深刻なものを感じて、食事の手を止めた。

「タイムパトロールたるきみがここにいるということは、ぼくはそのうち死ぬし、この世界は消えるということなんだなあ」

 タイム・パラドックス。30世紀の人間は、その現象をそう呼ぶ。タイムトラベルを知らない20世紀の人間も、SF映画にかぶれたりして、同じように呼んでいるらしい。
 わたしと彼は30世紀の人間である。そんなわたしたちが、20世紀へやってきて、日本を支配しているわけだが……ここに矛盾が生じる。
 わたしは自らが『タイムパトロール』であることを知っている。
 彼による支配が平和に続き、その後もひっくり返らなかったのであれば、この日本に、ヒエール政権を阻害する『タイムパトロール』が出現することはない。必然として、リング・スノーストームが野原しんのすけとともに戦うこともないし、彼があの時代で雲黒斎として野原しんのすけと対峙することもなかっただろう。

 『タイムパトロール』が、未来からこの20世紀に来てしまっている。
 それも、時間犯罪者ヒエール・ジョコマンの確保のために。
 この事実は、おそらく彼の治世は長くは続かないし、正しい歴史として定着することもなかったということを示しているような気がする。

「かなしいなあ、やるせないなあ」

 そう、これはかなしいし、やるせないことである。
 わたしがここにいるということは、彼とわたしは『失敗』するということだからだ。
 わたしは、消えなくてはならない。
 彼の安全と未来のために。

「いっそのこと、今のうちに殺してしまったほうが、いいのかなぁ」

 彼は表情の読めない怪しげな笑みを浮かべて、そう問いかけた。

「そうすれば、ぼくは自由に動けるようになるねぇ。もう不安に駆られることもない」

 堂々たる時間犯罪者のヒエール・ジョコマンとて、怖いものはあるらしい。
 20世紀においても、30世紀においても、人を殺しつづけるモンスター。
 人はその異形を『不安』と呼ぶ。

「閣下が望むのであれば、殺してもいいですよ」

 迷わずそう答えた。強がりやおべっかではなく、本心だ。タイムパトロールとしてのわたしは一度死んでしまっている。もう一度死んでも、たいして変わりはない。
 そもそも、わたしはヒエール・ジョコマンの秘書だ。彼が時間犯罪者としてやがて消えゆくさだめならば、そのときはわたしの人生の終わりでもある。
 彼と一緒に終わるのならば……悪くない。

 彼はわたしのほうへ、すーっと音もなく歩み寄る。彼の華奢な両手が首の方へ向かってきたので、絞め殺されるのかと本気で思った。ぎゅっと目を閉じる。

「あなどってもらっては困るな、なまえちゃん」

 しかしその手は、首を通過して、わたしの背中へと回されたようだった。背に人の肌のぬくもりを感じる。
 そのまま、ぎゅっと強く抱きしめられる。

「きみを殺してしまったら、歴史が正しく修正されたかどうかわからないじゃないか。そこまでぼくは愚かじゃないよ?」

 耳元でしゃべられるのは慣れない。脳の奥まで届くように声が響いて、思考がしびれていく。
 精神のしびれが全身に回ってしまってから、『試されたのだ』とようやく気づいた。彼はわたしがどう答えるか知りたかったのだろう。本気で殺す気など、なかったんだ。

「きみはバロメーターだ。それにきみは……秘書である前に、恋人だよ?」

 抱きしめられているせいで表情が見えない。彼はどんな顔で『恋人』だなんて語っているんだろう? 普段は秘書として扱われているから、そんなことを言われるとくすぐったくなってしまう。彼はその姿勢のままでつづけた。

「ぼくにだって恋くらいできる。恋を切り捨ててまで天下を取ろうなんて思わないさ。死ぬときはふたりで死のうよ、ね? なまえちゃん」

 さて、その甘い判断は大統領として、正しいのかどうか。
 まるで言い訳のように紡がれた彼の言葉に、わたしは笑うことで答えた。
 ちゃんと恋人っぽく、うまく笑えているのか、自信は持てなかった。


パラドクス・ゲーム

20190321