女が苦手だ。性欲がないと言ったら嘘になるが、実体を持った女で性欲を満たすという結果と、実体を持った女と人間関係を維持してつきあいつづけるためにかかるコストを見比べてみると、おれのなかで天秤が全く釣りあわない。ゆえに、もう十年以上セックスなんてしていない。恋愛したいと思うことも、もはやないだろうと思う。

 なのに、いま女とふたりでバイクに乗っているのは、なぜなのだろうか? 彼女の体がおれの背中と密着しているのに、それでも何食わぬ顔でバイクを走らせているのは、いったい、どういうからくりなのだ?

「瀬戸内の海を見たい。それさえ満たされたら、死んでもいいんです」

 この旅がはじまる前、彼女はそう言って笑っていた。

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 彼女は自称ヒッチハイカーだった。おれは常にバイクやスクーターを乗り換えて移動している。もちろん、ヒッチハイカーなんて乗せるわけがない。自分自身が逃亡者であることも相まって、どんな下心がおれのなかにあったとしても、女となんて関わるもんかと思っていた。

 しかし、おれのバイクが、スケッチブックを持って立つ彼女の前を通過する寸前に、その華奢な体がぐらりと傾いて倒れていくのを見てしまった。いくら泥棒とはいえ、目の前でぶっ倒れた女を放っておけるほどのクズではない。

「おい、大丈夫か?」

 声をかけたのが、あとから考えればよくなかった。おれは、一度会話した相手は捨て置けない性格だと自負している。あの学校で過ごした春の日も、それで随分と苦労したものだ。おれが失った純情をまだ手から離そうとしないようなピュアな人間が相手だと、めちゃくちゃやりづらい。
 彼女は、あの小学生たちと同じか、それ以上にやりづらい相手だった。

「ごめんなさい……」

 彼女は青白い顔で力なく笑って、「大変申し訳ないんですが……なにか食べるもの、ありますか?」と問いかけた。
 自らをヒッチハイカーだと名乗る彼女だが、薄手のワンピースはあきらかにヒッチハイク用の服装ではないし、荷物も極端に少なかった。
 いまどき、この日本で、女がひとりで荷物もほとんど持たずにヒッチハイク? ありえない。そんな危機感のない女がいるわけがない。
 このときのおれはまだ気づいていなかったが、おそらく彼女はこの旅で死ぬつもりだった。

「カロリーメイトくらいしかないが、ほら、食え」

 もそもそと食べはじめた彼女は小リスかハムスターみたいで、異性という風情ではまったくなかった。いまだに、彼女を異性として見たことは一度もないような気がしてならない。
 食べ終わっても、彼女はぼんやりとおれのほうを見上げていた。道端に座ったまま、おれたちふたりは過ぎ去っていく車をしばらく目で追っていた。

「……名前は?」
「……なまえです」
「おれは浅野」

 そのときのおれはどうかしていた。
 たぶん、あの春の日の再演だと思っていたんだと思う。
 おれがいなければ生きていけない弱い生きものを、おれの手ですくいあげてやらなければならない、というような義務感に突き動かされて、こんなことを言った。

「バイクだけど、一緒に来るか?」


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 瀬戸内の海を見たい、と彼女は言った。それ以外の目的はまったく語らなかった。
 おれは無言でバイクを走らせる。途中、彼女のぶんのヘルメットを店で買ってやった。彼女は嬉しそうに笑っていたような気がしたが、それはおれのエゴが見せた幻かもしれない。
 
「おれさぁ、泥棒なんだよ」

 彼女があまりにも無口なので、渋々そんな会話を切り出した。

「特に寺泥棒が得意でね。寺ってのはだいたい守りが薄くって、そのわりに高価なお宝がたくさんある。宝石店なんかよりも効率よく稼げるってわけだ」
「浅野さん、そんな悪い人には見えないですけど」
「いや~、おれ自身からしてみると、おれってめちゃくちゃ信用ならないやつだと思う。みんな、他人の上っ面しか見てねえからいいやつに見えるんだろうよ」
「……」

 彼女はなにかを思案するように黙ってから、

「……でも、わたしを後ろに乗せてくれました。ちゃんと瀬戸内方面に向かっているし……やっぱり浅野さんはそんなに悪い人じゃないと思います」

 そんなふうに言った。
 いったいどんな表情でそれを言っているのか。顔が見えないのが歯がゆい。

「ははっ。魔が差したってやつだ。おまえが、まるで道に迷った小学生みたいなツラしてっから」
「そんなに子どもっぽいですか?」
「おれからしたら、十代なんてみんな子どもだね」

 そうだ、あの小学生たちと、たいして変わらない。
 おれの体に回されている彼女の腕のあたたかさは、決していかがわしさを感じさせるようなものではなかったし、一人旅ばかりの身としては、すこし安心できる他人のぬくもりだった。

「……もうすぐ、海が見えますね」

 彼女がどこか寂しそうにつぶやいた。
 ……海を見たら、彼女はどうするのだろうか?


+++

 海面が輝いている。ちょうど昼の二時くらいだろうか、高く昇った太陽が海を照らしつけて、きれいだった。おれたちは浜辺に降りて、しばらくそこで過ごすことにした。彼女の目的は達成された。
 そのまま、飛び込みでもされたらどうしようかと気を揉んだが、彼女はただ海岸から海を見つめているだけだった。

「満足か?」
「はい。ずっと見たかった海です……」

 あまり嬉しそうではなかった。

「……これから、どうするんだ? なまえ

 ずっと尋ねないようにしていた問いだった。
 これを訊いてしまったら、もはや他人ではいられないような気がしていた。
 すべてに対して他人事であれ、というのがおれの人生訓だ。
 しかしさすがに、この子に対して他人事を貫くのは無理だった。
 だって、このあと、死ぬ気だろうから。

「浅野さん、わたしが死ぬと思ってるでしょう?」

 そのものずばりを言い当ててきた。虚をつかれ、反応が遅れた。

「ずーっと、そういう目で見てる。仕方がないかもしれないですけど……」

 大きな波が、白い貝殻を砂浜へと押し上げていくのが見えた。
 まるで一緒に押し上げられるように、消え入りそうな少女はようやく、ぽつりぽつりと本音を話しだしたようだった。

「……わたしには、家族もいないし、お金もない。もうなにもないんです。最期に、お母さんと一緒に行った海が見たくなっただけ。でも……」
「いまは、死にたくない?」
「浅野さんだって、家族もいないし、お金もないんでしょう?」
「ノーコメントだな、それは……」

 彼女に語れるような、ハートフルな家族の話は特にない。幼い弟たちを養うために泥棒をやっているというような美談もない。犯罪者として指名手配されている現状からして、家族が生きていたとしてもすでに絶縁状態にあることは察せられるだろう。
 家族なし、お金なし、家なし、恋人なし。
 唯一、前科だけはある。
 言ってしまえばそんな状態だが、死のうなどと思ったことはない。全国泥棒行脚はまだ始まったばかりだし、この先もこの調子でなんとなく生き抜けそうな気がしている。

「わたしも、もうちょっと頑張れそうな気がしたんです」

 指名手配済みの泥棒の話を聞いて「もうすこし頑張れそう」などと思うのは明らかな錯誤だし正気でない判断だと思うが、あえてそれは言わずにおいた。前向きになってくれたならよかった。彼女の人生におれが介在できる余地はない。ほんとうはひとりくらい旅の道連れが増えてもかまわないが、犯罪者の連れだなんて、人生の汚点もいいところだし、彼女にそんな重荷は背負わせられない。

 ……という言い訳は卑怯かもしれない。おれは結局、だれかの人生を背負ったりしたくないだけだ。背負うのも、背負わせるのも、おれには重すぎる。ひとりだからこそ、こういう生き方ができるのだから。

「おれは……」
「浅野さんがなにを言おうとしてるか、なんとなくわかります。ですから、言わないでください。浅野さんがなんて言おうと、わたしは、浅野さんに勇気をもらいましたから」
「……わかった」

 本来ならば、「困ったことがあったら電話しろよ」とでも言って、電話番号でも手渡してやるべきなのだろう。が、あいにく、そういう足のつきそうな連絡手段は持ち合わせていない。持ち家もないし……彼女にこれ以上やってやれることは、ほんとうになにもない。

 おれは彼女の唇がありがとうという音を描くのを確かに見た。あの春の日を思い返させる笑顔だった。どうやらおれの心はまだ、あの校舎にいるようだ。
 あの日からずっと、おれの面影を追いかけつづける子どもたちの輪のなかに、新たに彼女が加わった。
 ただ、それだけのことなんだろう。

「帰りも乗せてってやるから。行き先を指定してくれ、なまえ
「では、浅野さんと出会ったあの道まで、お願いできますか?」

 前に進むことのない人生だと思っていた。ずっと同じことの繰り返しで、余罪ばかりが増えていくだけだと。でも、どうやらおれは前に進んでいるようだし、少しずつ変わっていっているようだった。瀬戸内の海が夕陽ですこしずつ染まっていくのを、ふたりで眺めてからバイクに乗った。誰に対しても、背を向けて走り去るだけの生き方を、改める気はない。ないけれど、今だけは、頼りがいのある大人のふりをしてみてもいい。

 明日からは、ひとりで生きていく。それがおれの通常運転だからだ。でも、きょうだけは、この背中のぬくもりを全力で守ってみたいと思う。後ろからパトカーが追いかけてこないように祈りながら。

continue

20210312