彼は時々、とても遠くの方を眺めているような顔をする。風景を見ているのではないと思う。その風景よりも、もっと先へと視線を運びたがっているような顔だ。きっと、自分の国に残してきたいろいろなもののことを考えているんだろう。
 わたしは、これでも一応、日本で生まれて日本で育った。
 だから、異国からこの国へやってきたという彼の気持ちはよくわからない。
 ただ、遠くを眺めている彼の邪魔だけはしないでおきたいと思っていた。

 ……最近はわたしも時折、彼と同じように遠くを見つめたくなることがある。
 それはきっと、山で共に暮らしていたわたしの師匠が、遠くへ行ってしまったからだろう。
 彼は今頃、どこでどうしているんだろうか。

 その日は、李とふたりで山越えをすることになった。山道からは時折、とても遠くの町並みが見られた。まったく知らない町で、まったく知らない人たちが賑やかに暮らしていることを思うと、町ではない遠くを見据えずにはいられなかった。
「お師匠さまのことを考えていらっしゃるのですか、なまえさん」
彼は的確にわたしの単純な心を読んでみせた。
「そうです、お師匠は、今頃どこで呑んだくれているんでしょう」
「お師匠さまは、酒飲みなのですか?」
「ええ。いつだって、お酒ばかり飲んでいたんですよ。でも、酔っ払っているのにめっぽう強いのです」
わたしの返答を聞いて、彼は嬉しそうににっこり笑ってみせた。
「あなたのお師匠さまは酔拳の使い手なのかもしれませんね」
李がそんなふうに師匠を褒めてくれるのが妙に嬉しくて、わたしはしばらく師匠の話をした。世捨て人であり、酔っぱらいでもある師匠のことを手放しで褒めてくれる人なんて、これまではいなかった。李は師匠の武術に興味があるようだったが、それ以外の話も嫌がらずに聞いてくれた。

「最近はそうでもありませんが、あなたと初めて手合わせをしたとき、動きが読めないと思ったんです」
彼はわたしの武術に関してそんな感想を言った。
「動きが読めない?」
「あのときのあなたは、怒り心頭という感じでした。直情的で、冷静でない。本来ならば単調な動きをするはずだとわたしは読んでいました。でも、そうではなかった。あなたは、荒削りなやり方ではあったが、相手に隙を見せることで隙を作る、あなたのお師匠さまの武術を自分なりに受け継いでいたんですね」
そんなことを言われたのは初めてだった。この人と一緒にいると、これまでまったく見たことのなかった自分を知ることができる。
師匠と暮らしていた頃のわたしは、そもそも、自分が未熟かどうかなんて考えたことはなかった。師匠も、この武術をこれ以上高めようとか、心を研ぎ澄まそうとか、そんな武闘家らしい提案は何一つしない人だ。ただ、わたしには武術くらいしか拠り所がなかった。それだけなのだ。
「わたしは、李さんに比べて、自分はとても未熟だと思います。あの日だって、あなたがお師匠を殺そうとしていると思ったから……死に物狂いで戦ったというだけなんです」
李は急に笑みを消し、まじめな顔でわたしに向き直る。
「あの日のあなたは確かに、今よりも強かった。あなたは、それは本当の自分ではない、と思いますか?」
「ええ。思います」
「そんなことはありません。なまえさんはほんとうに強いのです。ただ、その強さにはまだ磨く余地があるというだけなのです。大切なお師匠さまを守るために戦ったこと、立派だと思いますよ」
彼は嘘をつかない。そして、武道を見る目に関しては一流だ。だから、その言葉は本当なのだろう。
急に涙が出そうになって、わたしは目を強くこすった。
「李さん。うまく言えませんが、今、とても嬉しいです。わたし、お師匠や自分のことを勘違いしてたかもしれない」
李はまた遠くの方を向いた。
「自分のことは、なかなかわからないものですね。武術をいくら極めても、自分というものの本質が見えるとは限らない」
遠くを見据えることはとても簡単だ。思い出にすがることや、今ここにないものを求めることも。だが、ほんとうに見なければいけないのは、手の届かない遠くの風景ではない。
自分の近くを見、自分を知らなければ……前には進めない。
「李さん、行きましょう。この山を越えれば、なにか情報が手に入るかもしれない」
彼は頷いて、わたしとともに歩きはじめた。彼が山の向こうに何を見ていたのかは結局聞けなかったが、きっと、いずれ聞かせてもらえるだろう。
それまでは、ふたりで、地道に歩いていきたいと思う。


遠くを見やる、近くを眺める
(近くて遠い、そんな場所)

20140814