夜明け間際の淡い夢を見ているようだった。
 わたしは、とても遠くから李を見ている。さきほど、河原で顔を洗うため、彼と一時だけ別れた。その帰りのことである。
 今、李の目の前に、うつくしい着物の女がいる。きちんと結われた髪が、育ちの良さを感じさせた。
 わたしとは何もかもが違う、大人びた、この国の女。
――お慕い申し上げます、とその女が言う。遠く離れているのに、凛としたその声だけがきちんと耳に届いた。
 それを言われた李の表情は、わたしの位置からは見えない。
 お慕い申し上げます。もう一度、女が繰り返した。
 おそらく、彼に命を救われた女だろう。その恩がいつしか、恋慕へと変わったのだろう。
 彼に取りすがり、必死に想いを訴える彼女の情念がとても強いことは、遠目でもよくわかった。
 ぽろぽろとこぼれ落ちる涙すらも、完成された女の一部のようで、わたしは目を背けて駆け出した。
 もう一度、河原へ行って顔を洗おうと思った。頭を冷やすためだ。
 だから、その後、彼と女がどうしたのかは知らない。
 あんなものを見たのは初めてだった。
 うつくしい恋情だった。
 わたしは、あんなものを持ってはいない。あの人が持っているものを、わたしは何一つ持っていない。
 それがとても悲しく思えて、地に伏したい思いだった。

+++

 心をできるだけ鎮めてから李のもとへ戻ると、もう女はいなかった。
 李はというと、まったく変わらない様子で、これからどういう道を進むかというようなことを淡々と述べはじめた。
 彼の心中は読めない。そうして他人に心中を悟られないようにふるまうこともまた、修行の一部であるのだろう。
「あ、あの」
 心にかかる靄のようなものを晴らしたかった。
 李に、あの女の手を取ってほしくない。
 ずっとここで、わたしに武術の稽古をつけてほしい。
 師を、ともに探してほしい。
 この気持ちの正体が知りたい。
 それしか考えられない。旅の話なんて、悠長にしていられる状態ではなかった。
 堰を切ったように、わたしは言う。
「あの娘さんは、とてもうつくしかったですね」
「はい?」
 彼は気まずそうに絶句する。そうだ、この人だって、男なのだ。
 艶やかな女に言い寄られて、くらりとくることだって、きっとある。
 どうして、わたしはこんなにも心を乱しているんだろう。
 今、あらためて思う。齢なんて関係なく、わたしは子どもである。何も知らない、野生児なのだ。
 そんな子どもには、何も関係ないはずだ。大人の色ごとなんて。
「さきほどの娘さんの申し出なら、断りましたよ」
 それはどこか、そっけない言い方に聞こえた。模範のような、感情のない答え。
「わたしは修行中の身。それに、大いなる災いの正体もまだわからない。これ以上、関係のない者を巻き込むわけにはいかぬのです」
「それだけ、ですか」
 自分がなぜそう言ったのか、よくわからなかった。
 それだけ、とは何だろう。それ以外にどんな理由があるというんだろう。
 彼はぽかんとした顔で、答える。
「それだけです。あなたが心配するようなことは何もありません。これまでどおり、ふたりで旅を続けましょう」
「で、でも……わたしは……わたしは……」
 彼の答えは、求めていた答えだ。彼はあのうつくしい人の手を取らなかった。わたしは、これからも彼とともにいられる。嬉しいはずだ。
 なのに、心は千々に乱れる。どうしてなのだか、自分でもわからない。
 ふと、涙で目の前が霞んだ。
 それを見た彼は、ふっと優しく笑った。霞んだ視界のなかでも、はっきりとわかる。あの大人びた笑みだ。
「落ち着いてください。茶でも飲みに行きましょう」
 わたしの考えなんて、とっくに見抜いているとでも言いたげだった。
 そんな彼を見ていて、すこし、自分の心が冷静になった気がした。

+++

 茶屋に入り、緑の水面を眺めていると、さらに冷静になってきた。
 この茶屋では、どこから仕入れたのか、物珍しいギヤマンの器を使っている。
 どこか、この国のものではないような、不可思議な空気を感じる。
 ……そんな不可思議さは、彼に似ていると思った。
 息を一度吸って吐いて、わたしはようやく、自分の心を彼に伝えようという気になった。
「李さん。わたしもきっと、李さんのことを慕っているんです。だから、こんなにも心乱されるのだと、思います」
 ゆっくりと、言葉を切りながらそう言った。
 言いながら、どうにも自分の本当の気持ちではないような感覚に陥った。
 彼は一瞬だけ面食らったような顔をした。だが、すぐに涼やかな目になる。
なまえ。落ち着いて、よく聞いてください」
 女に慕われた男の顔ではなく、厳格な修行僧の顔だった。
「あなたは、お師匠さま以外の人を知らない。そのことを、すっかり失念していました」
 淡々とした彼の声。なんだか、見知らぬ人のようだ。
「われわれは、たくさんの人たちとさまざまな営みをしていますね。悪い人間がいて、尊敬できる年長者がいて、友人がいて、家族がいて、異国の民がいて、異形がいて……想い人がいる。そんなふうに多くの人がいるからこそ、唯一無二の人の大切さがわかるのです」
 ことん、と茶器を置くように、彼の説法がわたしのなかへ入ってくる。
 静かに、しかし確かな重みを持って、まっくらな心の底に光が落ちる。
「あなたには、まだそうした人たちとの交わりが足りぬと、わたしは思う。むろん、わたしにも足りぬとは思いますが……」
 だから、知らぬ人の見せた恋慕に対して、そんなにも惑うのですよ。
 李は諭すように、そう付け加えた。わたしは、言葉が出なくなってしまった。言い返そうにも、言い返す言葉が見つからない。
「ですから、ふたりで学んで行きましょう。あなたが戸惑うのも、心が乱れるのも、自らの心がわからぬのも、学びが足りぬからです」
 凛とした彼の佇まいが、ひどく恐ろしく思えた。
 彼の申し出も口調も、とても優しくて正しいのに、わたしにとって無慈悲だった。
 何を言われたのか、よくわからなかった。
 わたしの惑いを見越してか、彼は茶器に触れながら、噛み砕くように言い含める。
「あなたがわたしに抱いたものは、たしかに恋慕かもしれない。しかし、そうでないかもしれない。あなたには、その差異を知るための力が備わっていませんね。あなた自身も、そう思うでしょう」
 ざくざくと、心を切り裂くように、彼は真実をつきつけていく。
 わたしの痛ましい表情を見たのだろう、彼はそこで一息ついた。
 そしてすこしだけ優しい声音で、こう言い直す。
「わたしは、あなたを否定しているのではない。誰かを恋い慕うことを、悪いことだと断じるわけでもない。どうか、そんな悲痛な顔をしないでください。これから先、さまざまな人を知った上で、それでもなお、その気持ちが恋慕の情であると、あなたが感じたとしたら……そのときは、あなたの気持ちとまっすぐに向き合うと約束します。あなたも、今よりもまっすぐに向き合えるようになるはずだ。今はまだ、そのときではない。しばらく、お預けです」

 その言葉は、彼が初めてわたしに見せた、甘い優しさではない何かだった。
 冷徹で、厳しくて、耳に入れたくないような強さだった。
 経験が足りない。交流が足りない。了見が狭い。自分の気持ちすら、わからない。
 全部、本当のことだった。だからこそ、悔しいと思う。
 わたしは、李を慕っている気持ちを、恋慕だと言い切ることができない。
 なぜなら、わたしのなかにはいまだ、ふたりしか他人がいないからだ。
 家族としてのお師匠と、旅の同志としての李成龍。その、ふたりしか。
 恋を恋だと気づくためには、恋でない感情を知らなくてはいけない。
 わたしにはそれを知るすべがない。
 彼にさんざん子ども扱いされて憤慨していたわたしだったが、何のことはない。本当に子どもだったのだ。それも、ただの子どもではない。赤子も同然である。
 ぎりり、と歯をかみしめる。そうして、わたしは彼に自分の思いを告げなければならない。
 自分の未熟さを、認めなければならない。
 
「すべて、李さんの言うとおりだと思います。でも、わたしは、この気持ちは恋慕であると信じたい。思いも、惑いも、無視することはできません」
 李の目をまっすぐに見て、意を決する。わたしはこのとき、初めて自分の心に正直に、何かを決めたのかもしれない。
「だから、学びます。李さんと一緒に、この旅のなかで」
 それを聞いた彼は、満足そうに微笑む。
「それがいいでしょう。きっと、その先に答えはあるはずです」
 彼のその言葉を聞いてから、空になったギヤマンの茶器に触れた。
 冷たいけれども安らぐ異国の存在感が、わたしを勇気づけたような気がした。

+++

 しばらくして、わたしは思案した。
 わたしに思いを告げられた李成龍は、もっと強くわたしを拒絶することもできたはずだ。
 修行中の身だから、異国の民だから、住処を持たない流浪の者だから、等々――拒絶するための理由はたくさんあった。
 でも、彼はそうしたことを一切言わず、わたしに成長を促した。
 わたしの気持ちをいっさい否定せずに、ただ未熟なわたしに足りないものを認めさせた。
 彼は一途に優しいだけではない。時に厳しく、鋭い。やすやすと甘さを容認しない。
 不可思議なことだが、わたしは彼にこうして自らの思いを突き返されたことを、むしろ嬉しく思っている。
 今まで知ることのできなかった彼の強さに、感動すら覚えている。
 そんな彼とともに旅することを、ただただ誇りに思う。
 彼への思慕も――そのうち、誇りに思えるときが来るといい。
 そのときは、もう一度、彼にこの気持ちを告げよう。
 ごつごつとした険しい道を歩きだしながら、まっすぐに進みつづける彼の隣で、そう思った。



子どもは、知らない
(しかし彼もまた、知らないのかもしれない)

20151120