「世の中には、見えなくていいものもあるってこと。あなたはそういうものから解放されたんだから、きっとよかったんだと思う」

彼女がそう言ってくれた日のことは鮮明に覚えている。病院で脳の検査をして、表面上の異常がないことが確認された翌日だった。医学の上でなんの問題もないとしても、おれにとっては問題おおありだった。霊が見えなくなっていたからだ。
副業とはいえ、除霊の仕事をしているのに霊を目視できないとは、お笑い草というものだろう。むろん、見えなくても除霊はできるが、信頼性には大きな違いが生じるはずだ。
ふつう、見えないやつを簡単に信じようとは思わないものだから。

もし、彼女が見えない側の人間だったなら、おれは怒ったかもしれない。
おれは拝み屋だぞ、これで金をもらってるんだ、見えると見えないじゃ仕事の効率が違う、などと。

しかし、彼女は見えすぎるほどに見えてしまう人だった。小さいころから気味悪がられて、ろくに友人もできずに生きてきた彼女を、おれは知ってしまっている。彼女がおれに初めて出会ったとき、安堵の表情を浮かべたことは忘れられそうにない。

『ああ、あなたは……見えるんですね』

その一言があまりに強い祈りに満たされていたせいだろうか。その後、彼女と付き合うことになったのは。彼女にとって、おれは恋人である以前に初めて得た仲間だったし、救いだったのだろう。それまで、ただ見えるだけでどうにもならなかった現象を、解決できる人間が目の前に現れた。彼女は、溺れた人間がわらにすがるように、おれにすがりついただけだったのかもしれない。

「そうか、そうだよな。これでよかったんだ」

そう答える自分の声はひどく嘘くさかったが、では自分の本音はどこにあるのか……考えてみてもよくわからなかった。おれの本業は拝み屋じゃない。霊が見えなくても食っていけるし、見えなくてもやりようはある、それでいいじゃないか。だんだんと、そんな気持ちになってきた。

「わたしも頭を打ったら見えなくなるかな?」
「絶対やるなよ。そんなこと」

ふざけた調子で言った彼女の冗談に、おれは強い否定の言葉を返した。彼女はそんな馬鹿げたことはしないだろうと知ってはいたけれど、一応。

「やらない。わたしまで見えなくなってしまったら……あなたも不便でしょ?」
「最初からおまえの力はあてにしてねえよ」
「うん、知ってる」

そんな他愛ない会話を交わした日のことを、こんなにも鮮明に思い出せるのは、何度も何度も忘れないように脳内で繰り返した記憶だからだ。絶対に忘れないように、今度こそ脳から消えてしまわないように、どんなに頭を打っても大丈夫なように、と。

なあ、なまえ
どうしておれには、今のおまえが見えないんだろうな?


+++


おれは、怖いのかもしれない。
原真砂子と、目を合わせるのが。
それまでは意識したこともなかったし、特に気にしてもいなかった。

でも、例の湖のバンガローに泊まった夜、なぜか死んだ恋人の夢を見てしまった。
もうかなり前のことなのに、髪の先までそのまま引き写したようにクリアな夢。麻衣とは違って、霊視でもなく、なんの意味もないただの夢なのだろう。しかし、SPRがなくなるかもしれないという今になって、こんな夢を見るのはなんだか因果なものだと思った。
そこでふと、気づいたのだ。
……SPRがなくなったら、真砂子とは会えなくなる。
彼女は霊を降ろすことができるし、霊の姿が見えている。
むろん、おれの後ろに彼女がいるかどうかも、すでに見ているはずだ。
おれがあえて見ないままで済ませてきた問題の答え合わせは、彼女になら可能だ。
これまでは、ちゃんと現実と向き合えていて、最善の状態だと思っていたのに。ここへきて、この死の匂いに満ちた場所に立ってみると、迷う。
彼女は真実を知っている。
おれは、それが知りたいんじゃないのか?

「どうしてわたくしをそんな目で見るんですの?」

だから、たまたまバンガローの外で会った真砂子にそんなことを言われたとき、かなりビビってしまった。……どうしてって、そりゃあ……。
彼女には見えているのだ。
おれには見えないものが。
どれだけ見たくても見えない存在が。

「あなたらしくもない。もっと飄々としておいてくれないと困りますわ」
「困る? 天下の霊媒サマがか?」
「あなたはみんなのお父さんみたいだって、麻衣が言っていました。わたくしも、そう思います。お父さんは、泰然としていてくれないと、子どもたちが不安になりますからね」
「ツッコミどころ満載だけど、あえてツッコまずにおこうかな……」
「いませんわ」

なにが?
唐突に、真砂子が口にした言葉の意味を悟って、心が凍りついた。

「あなたの後ろには、だれもいません」

……おれは醜い人間だと思う。
真砂子にだれもいないと言われて、ほっとしてしまったから。
ハッとして、思わず強く自らの頬を両手で打ち付けてしまった。

「何やってんだろうな……ほんと。なまえが見たら、笑うか……怒るか」
なまえさんとおっしゃるんですね」
「……おい、まさか、ほんとうはいるとか? だったら怒るよ、おれ」

それを聞いて、真砂子はこれまでになく優しいほほ笑みを浮かべた。

「いません。ただ、あなたはいつもだれかを探しているような気がしていましたの。そこにはいない、だれかを……」
「真砂子……」
「霊媒は、霊を呼ぶだけが仕事ではありません。むしろ、霊を降ろしたいと願う方々の、弱った心を鎮めるのがほんとうの仕事なのではないかと思っておりますの。たとえそこにはもういない霊でも、いてほしいと願う方もいらっしゃるのです。そしてそういう狂おしい思いは、ほんとうに霊を呼んでしまうかもしれない……」

その静かな言葉を黙って聞いていた。心当たりがありすぎて、何も言えない。
たとえそこにはもういない霊でも。
どうしても会いたい。
伝えたいことがたくさんあるから。
おれのそんな心を読むように、真砂子は冷静な口調で問う。

「もし、会えるとしたら……その方に、言いたいことがおありで?」
「あー……そうだな。たくさんある。でも、一番言いたいのは……」

おれは深呼吸して、まるで彼女がほんとうに目の前に立っているような気持ちで、こうつぶやいた。

「『おれは見えなくても大丈夫だし、人生楽しくやってる。こうなったこと、後悔はしてない』」

それを聞いて、幸せそうに笑った真砂子は……なぜだろう、なまえにすごく似ていた。まるでその瞬間だけ、彼女が降りてきてくれたみたいに。

たゆたう、

20210608