わたしの彼は殺人鬼

 一生、この杜王町でくすぶって生きていくのだと覚悟していた。周囲を見回しても、不良ばかりで魅力的な男性なんてどこにもいないような気がして、もううんざりだった。つまらない町だと、上から目線で否定していた。なにさまのつもりかと言われそうだけれど、やっぱりわたしにとってはつまらない場所だった。なにもない。なにも起こらない。予定調和で満たされた町。
 でも、そんな町にもすてきな人はいたのだ。
 こんなひねくれ者のわたしに、好きな人ができた。それはとても劇的なことだ。
 彼の名前は、吉良吉影という。
 とてもきれいな響きの名前だ、というのが第一印象だった。性格は実直で穏やか。同級生たちのようにやかましくない。不良のように下品じゃない。カツアゲもしない。静かで優雅な猫のよう。大人の魅力を感じる人だ。
 
 彼と出会ったのは、行きつけのパン屋であるサンジェルマンだった。わたしはそこのパンがとても好きで、毎日のように通っていた。
 ある日のお昼休み。そのパン屋でサンドイッチを取ろうとしたときに、隣りにいた男性と、手がぶつかった。視線をあげると、お堅い感じの会社員の男性がこちらを見ていた。ちょっと怖そうな顔だったので、カツアゲされないか心配になった。
「ああ……すみません。ぼうっとしていました」
 わたしがあわてて謝ると、彼も笑みを浮かべて謝ってきた。とてもきれいな声なのに、あまり特徴を感じない……一度聞いたら忘れてしまうような声だった。
 それで会話は終わりかと思われた、そのとき――
「このパンを持って、ふたりでランチしませんか。いいランチスポットを知っているんですよ」
 彼がそんなことを言って、わたしの手を強引に引いた。思ったより強い力で手を引かれて、心臓がバクバクした。
 静かで穏やかな彼がちょっと乱暴な振る舞いをした、その瞬間。
 ときめいて、しまった。
 こんなに実直そうな人でも、女性の手を乱暴に引っ張ったりするだなんて……。
 問答無用で二人分のサンドイッチを買って、彼は木漏れ日の差す木の下へ連れて行ってくれた。
「いやぁ、ここのサンドイッチはおいしいですね。そうは思いませんか?」
 柔和な調子で彼が言う。さっきとはうってかわって、やわらかで優しい笑みだった。
「え、ええ。そうですね。わたしも大好きです」

 そのときの会話はあまり覚えていない。緊張して舞いあがっていたせいかもしれない。
 ただ、ひとつだけ思い出せることがある。わたしが、学校の女友達である山岸という女性のことを話した瞬間。そのときだけ、彼の表情が曇ったような気がした。そのことだけを鮮明に記憶している。
 山岸由花子。優美な姿だが、性格はかなり高飛車。その性格ゆえに、彼女を避けている同級生もいるようだ。たまに会話する程度の友人である。わたしは彼女のことが嫌いではない。彼女はたしかに怖い人ではあるが、彼女の美しさはほんものだ。それに、怖い人ではあっても、悪い人ではないような気がしている。
 
――吉良さんは、山岸さんのことを知っているのだろうか?
――知っているとしたら、なぜ?

 疑問には思ったが、初対面でそんなことを尋ねるのは失礼だろう。結局、なにも言わなかった。
「では、また会いましょう。機会があれば」
 話し終えたあと、彼はそう言って、わたしに手を振った。相変わらず無駄のない動作で、惚れ惚れしてしまった。
 学校では絶対に見られない、大人の男性の風格のようなものが、心を鷲掴みにしていた。
 わたしはそのとき、恋に落ちたのだと思う。

 それからたびたび、彼に会うようになった。待ち合わせしているわけでもないのに、どうしてだろう、よく顔を合わせるのである。まあ、狭い町だから、そんなにふしぎなことではないはずだ。
なまえ、きみはきれいだ」
 と彼はよく言ってくれた。わたしはどう考えたってうつくしくなんかない、田舎町の芋臭い小娘に過ぎなかったのだが……でも、彼はそんなわたしを認めてくれたのだ。
 嬉しかった。
 自分がこんなにも単純な人間だとは思わなかった。
 これまで、自分の心のことを枯れ果てた泉のように思っていたというのに、彼と会うだけで、その泉をいっぱいに満たすことができるようになっていた。
 ひとつだけ心配なことがあるとすれば、よく山岸由花子が話題にのぼることくらいだろうか。どうやら彼は、彼女とわたしが友人であることが信じられないらしい。定期的に彼女の動向を尋ねてくる。
 ほんとうは、彼の目当ての女性は山岸さんなんじゃないだろうか……。そのうち、「彼女を紹介してほしい」と頼まれるのかもしれない。
 もしそうなら、わたしはとんだピエロだ。でも、彼と楽しく話す時間がとても好きだったから、会うのをやめようとは思わなかった。

 ある日、彼と図書館に行くことになった。
 杜王町の図書館は、壁に茨のツタが絡まっている、かなり怪しい雰囲気の館である。通称【茨の館】。内装は少々古めかしいが、どこにでもある図書館である。
 落ち着いた場所をデートスポットに選ぶセンスがとても大人びていて、また彼を好きになってしまった。
 図書館内に入ってみると、思いのほか、しんとしていた。だれも口を開かない。時折、司書の声が響くだけ。
 いろんな本が置かれていて、目移りしそうになる。たまにしか本を読むことはないけれど、読書そのものは嫌いではない。
 彼の方を見やると、彼は表紙をこちらに向けて飾られている、一冊の本を見つめていた。
「モナリザ?」
 とわたしが問うと、彼は浮気現場でも見つかったみたいに気まずげな顔になった。たかだか本を見ていたくらいで、そんな顔をするなんて……謎めいた男である。
 その本の表紙には大きくモナリザが描かれていた。どうやら、絵画についての考察を主とする本のようだ。
「モナリザ、お好きなんですか?」
「あ、ああ。そうだ。とてもうつくしいからね」
 心ここにあらずといった調子で、吉良が答えた。どうしてだろう、普段の彼とは様子が違うように思われた。なんだか、ぼーっとしているような、酒に酔ってでもいるような……。
 妙な雰囲気を変えたくて、わたしは明るい声を出してみた。
「じゃあ、この本借りていこうかな。わたしもモナリザについて勉強したいし」
「それはダメだッ!」
 わたしののんきな言葉に対し、彼が間髪入れずに語気を荒げた。静かな図書館に彼の怒声が響いたせいで、周囲の人たちがわたしたちのほうを凝視する。
 そこまで強い言い方をされるとは思わなかったので、かなり驚いた。
「どうしてです?」
 問いかけられた彼ははっとして、わたしを見た。そして、取り繕うような調子で言う。
「ほら。このモナリザは、全体像が見えていないだろう? こんなふうに中途半端に絵画を切り取るなんて、ろくな本じゃないさ」
 言われてみれば、そのモナリザは不完全だった。本の帯のせいで、麗しい彼女の手の部分が隠れてしまっている。帯をはずせば全体が見えるはずだったが、図書館の本の帯ははずすことができない。
 こんな細かい部分を気にするなんて、この人はよほど絵画が好きなのだろう。
 わたしは、そんなことはなにも気にしていなかった。あらためて、彼の知見の深さに頭が下がった。
 別れ際、彼がぽつりとこう言った。
なまえくん 。きみに会えてよかった。きょうも幸せな気持ちになれた。"これから先"のことを思うと、もっと幸せだ」
「ありがとうございます、吉良さん。わたしも幸せです」
 彼は、なにも答えることなく、背を向けて歩いていった。
 彼がいなくなってから――きみに会えてよかった、と言ったときの彼の顔を思い出してみる。とてもロマンティックな言葉だったけれど、彼の目はわたしではなく、ほかの場所を見ていた。そんな気がして、心がもやもやしてしまう。
 時折、彼はわたしのことを見ていないような気がする――愛の言葉や、褒め言葉を言うときには特にそうだ。わたしそのものではなくて、別の部位でも見ているような目をする。でも、たぶん、わたしの気のせいだ。すくなくとも、今は、彼と一緒に図書館に来られたということだけで、じゅうぶんに満足しているのだし、きっとこのままでいいはずだ。
 心にかかりそうになった雲を、必死に追い払った。彼とのデートの記憶を反芻して、幸せのかけらを探してみることにした。そうすることが、今のわたしにいちばん必要なことだった。

 図書館の逢瀬から一週間が経過した。心のもやもやは、いつしか晴れていた。モナリザの完全性に異様なほどのこだわりを見せた彼のことを思い出すたび、幸福な気持ちになった。あのとき、彼がわたしに初めて素顔を晒してくれた。悠然とした大人の彼が、あのときだけ、ほんとうの心を垣間見せた。その素顔は、わたししか知らない大切なものだ。そんな気がしてならないのだった。
 もしかすると、わたしは最初から、彼の本心が知りたかったのかもしれない。
 彼はわたしよりもずっと年上で、手の内を見せないスマートな男だ。だからこそ、あの日あのとき、図書館で慌てた顔を見せた彼のことをいとおしいと思った。
 ……どんな醜い本心でもいい。わたしは、彼の心のうちをもっと知りたい。
 吉良のことが好きだという気持ちは、きっとどんな彼を見ても、変わらないと思うから。

 そして、わたしは夢を見た。
 彼とわたしが必死に手をとりあって、逃げる夢だ。
 走っているのは杜王町のなかで、追いかけてくるのは、わたしと同じくらいの年の学生たちだ。どうして追われるのかはわからない。
 SUN MART、サンジェルマン、茨の館、ぶどうヶ丘高校――見知った風景が流れていく。
 でも、いつしか、見たことのない小道へと迷い込む。
「おかしいな。こんな道が杜王町にあっただろうか」
 彼が戸惑ったような声を出す。そんなふうに困る彼の姿は現実では見たことがないから、くすりと笑ってしまった。
「だれもいませんね」
 わたしはそう言って、周囲を見渡す。ほんとうに、だれもいない。ポストがひとつ、ぽつんと置かれているだけ。
「これで、あいつらはもう追ってこないな」
「そうですね」
 ああ、これはとてもロマンティックな夢だ。最初は悪夢かと思ったけれど、そんなことはない。だれもいない小道。ふたりきりの時間。いつまでも、この場所にはだれも来ない。
 いつまでも、ふたりきり。
 そんなシチュエーションって、とてもすてきでしょう?
「この瞬間を待っていたんだ」
 彼は言う。冷たい声だ。そんな声はこの場にそぐわない。わたしは内心で抗議しながら、彼の言葉を待った。
「この瞬間を待っていた――あいつらが追ってこなくなる、このときを――」
 ふたりきりになれるときを待っていたのだ、とは言わなかった。そんな架空の彼に、わたしは不満を持ってしまった。彼の言葉には甘い響きなんてかけらもない。せっかくの恋の夢だというのに、なぜそんな辛気臭い顔で、意味不明なことばかり言うのだろう。追ってくるやつらのことなんて、どうだっていいではないか。
「好きだよ、なまえ。きみの…………が…………なによりも………」
 夢の終わりが近いのだろうか。不自然に愛の言葉が途絶える。
 妙にねっとりとしていて、いやらしい感じの言い方だった。
 仮に愛の言葉を言うとしても、彼はこんな言い方はしないだろう。現実とぜんぜん違うではないか。彼はもっと軽やかで、紳士的で、かっこいい愛の告白をするはずなのだ。
 やっぱり、変な夢だ――
 そこで、目が覚めた。
 まだ外は暗く、朝は来ていない。手には汗がにじんでいた。
 いい夢を見たのか、悪い夢を見たのか、自分でもよくわからなくなってしまった。

 その日、杜王町は雨だった。地面はぬかるみ、みな憂鬱そうな顔で町を歩いていた。わたしは、特に用事はなかったが、SUN MARTへ向かうことにした。そろそろ彼に会えるような予感がする。夢に恋の相手が出てくるときは、その相手に会えるときだと相場が決まっているのだ。
「あれ、なまえくん。こんな日に会うなんて、奇遇だね」
 案の定、SUN MARTの前で、彼に声をかけられた。傘をさしている姿も、絵になっていた。すっと伸びた背筋。上品に整ったスーツと、なでつけられた髪。ドクロの柄が入ったネクタイも、似合いだった。猫背でそこらをうろついている不良たちには真似のできない、優美な立ち姿だ。この美麗な人は、わたしの行動を見張ってでもいるみたいに、こうやって現れてくれる。こういうのを運命と呼ぶのではないのだろうか、と思う。
「話したいことがあってね――」
 彼は妙に乾いた目でわたしを見やる。いつもの明るい彼ではない。
 別れ話でもするつもりだろうか。そもそも、付き合いはじめた記憶もないけれど。
 しかし彼の口から出たのは、別れ話などではなかった。むしろ逆だ。
「追われる危険を考えて、ずっと我慢してきた。でも、もう限界だよ。きみがほしい。山岸由花子にバレたら、そのときはそのときだ」
「え?」
 心臓がばくばくと高鳴った。それは、つまり……告白、ということだろうか。でも、追われる危険ってなんだろうか。わたしは犯罪者ではないし、彼もそんなふうには見えない。むしろ、犯罪とは一番縁がなさそうな人物に見えるのだけれど。それに、「きみがほしい」だなんて、直接的な単語を使う人ではなかったと思う。山岸由花子のくだりに至っては、ほんとうに意味がわからない。いったい、どういう意味なんだろう?
 わたしは初めて、彼を怖いと思った。
 告白をされたはずなのに、言葉の意味がわからない。
 ほんとうの彼のことなんて、なにひとつ知らないのかもしれないと気づいた。
 知りたいと願っていただけで、知ることなんてできていなかったのだろうか。
 ただ、彼が異質で、魅力的で、わたしの理想そのもののようだったから……本質を見ないで、虚像を追いかけていただけなのだろうか。
 図書館の彼も、ほんものではなかったのだろうか。
「黙っていたことがあるんだ。ウソをついていたわけではない……しかし、いちばん大切なことを言っていなかった」
 急に恐ろしくなって下を向いたあと、わたしは勇気を出して、顔をあげた。
 いつもとは違う表情の彼が、植物のような静かな瞳で、わたしを見つめていた。生きていないような冷えた目なのに、その目の奥には欲情のかけらが光っていた。その顔は、夢のなかで見た彼にそっくりだ。
 
 これが、ほんものの――吉良吉影?
 今、初めて、ほんとうの彼に出会ったのだろうか?
 ずっと会いたかった人が、今、眼前にいる。
 わたしは、嬉しいの?
 それとも、失望しているの?
 嬉しさと恐怖がないまぜになって、自分の本心がわからなくなった。
 
 彼の唇が、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「なあ、なまえの手は、すごくきれいなんだ。好きだよ。今まで出逢ったほかのだれよりも、きみの手がほしくてたまらない。だから……」

 そこから先は、なにも聞こえなかったし、なにも見えなかった。
 うつくしい声の愛の告白は不自然に途絶えて、もうわたしの耳に届くことはなかった。
 でも。
 それはたしかに、愛の告白だった。
 それだけは、ほんものだった。
 ほかのすべてがウソだったとしても……その言葉だけはほんとうだったのだ。
 ぐちゃぐちゃの感情のなかから、最期に――『嬉しさ』をたしかにつかんだ。
 わたしは、嬉しかった。
 嬉しかったのだ。

 吉良吉影の声が聞こえなくなった今でも、わたしは彼のことを愛していると思う。
 彼は色のないこの町に、色をつけてくれた。
 彼がつけてくれた色は、たぶん、深い深い緋色だった。
 予定調和で満たされているこの町で、彼だけが予定調和ではなかった。
 わたしのなかの乾いた泉を、緋色の水で満たしてくれた彼の名を、わたしは絶対に忘れない。
 
 今、彼はわたしの自慢の彼氏として、杜王町を堂々と歩いているはずだ。
 ふたりでサンジェルマンに行って、サンドイッチを買って、木漏れ日の下で食べたりして……。
 あとどれくらい、彼とともに杜王町にいることができるのかは、よくわからない。
 もしもあなたが、ぱりっとした高級スーツを着こなし、ドクロをあしらったネクタイをしている会社員を見たら、そっとその人の胸ポケットの内側を見てみてほしい。
 そこには、たぶん、わたしがいると思うから。
20170130
リクエストボックスより「吉良吉影に殺される話」でした。
だいぶサイコになってしまいましたが、どうでしょうか。吉良、とても好きなキャラなのですが、それっぽくするのがむずかしいですね。