幽霊は幸福な暮らしの夢を見るか?

 もう何年も孤独に溺れそうな暮らしを送っていたから、他人の声を聞いたのは久しぶりだった。
 その声が、屋敷の玄関に立つ自分に向けられているのだと気づくまでに、かなり時間がかかってしまったくらいだ。
「この扉を開けてくれないか」
 その声はたしかにそう言った。あわてて答える。
「鍵はかかっていません。入っていいですよ」
 すると、ひとりの男が部屋に入ってきた。彼の風体の異様さに、心臓が跳ねる。素っ頓狂な帽子をかぶり、妙な柄の入った服を着ている。年は三十くらいだろうか。顔立ちは整っているが、目つきは尖っていて、怖い感じがする。人を殺してもなんとも思わなそうな顔。無意識に、三歩ほど後ろに下がってしまった。こんな異様な男がわたしの家にやってくるなんて……思いもしなかった。
「こんなにかんたんに『魂の許可』がもらえたのは初めてですよ。あなた、ちょっと不用心なのでは?」
「あの……どなたさまでしょうか」
 びくびくしながら彼に問うた。
「名前なんて訊かれるのはひさしぶりだな。わたしの名前は吉良吉影という。で、きみは?」
「……わたしはみょうじなまえです」
 名前を言うだけで魂をとられそうな気がして、どぎまぎしてしまった。彼は、なまえなまえね……と名前を口のなかで何度も繰り返して、なにか考えているようだった。
「なにか、御用ですか?」
「きみに用はない。この屋敷に用があるだけだ」
「屋敷に?」
 この屋敷は、わたしのすみかだ。ここ数年、ずっとここに住んでいて、とても気に入っている。しかし……ここに用事があるなんてことは、本来ありえないことだ。そもそも、わたしのことが見えるという時点で、ありえない。
 彼はわたしのことなんて気にせず、部屋をうろうろしはじめた。そして、部屋の隅でほこりをかぶった本棚を発見し、うれしげな顔になった。
「おお、江戸川乱歩、宮沢賢治……あの館にあった本棚と同じような趣味だな。もしかして、きみも『卵』を持ってたりする? あれ、いやなんだよなあ」
「『卵』というのがなにかわかりませんが……。あの、読みたければ、手にとってもよろしいですよ」
 彼はその言葉には答えず、ぐるりと首をまわして、わたしを見る。
「……この屋敷は、あなたの持ちもの?」
「え、ええ」
「へえ……どうやって手に入れたんです?」
 ねっとりとした、冷たい声音だ。明確な敵意を感じる。やっぱり、この人はおかしい。わたしのなかの本能が警報を鳴らしまくっている。はやく、追い出したほうがいいような気がしてならない。……追い出せる気がしないけれど。
「もともとは親の持ち家です。ずっとここに住んでいるんです。家族は、死んでしまったので……いません」
「ってことは、きみは死ぬ前から、ここにずっと住んでるわけ?」
 その言葉で、わたしは観念した。
 ああ、やっぱり、この人は知っているんだ。
 わたしが、幽霊だということを。
 もう隠しごとはできないと思い、真実を口にした。
「……死んでから、見つけたんです。この家は……」
「それで勝手に住んでいると? いやあ、いけないなあ。さっき、親の持ち家って、嘘ついたんだな。わたしに嘘をつくなんてね。舐められたもんだ」
「ごめんなさい。なんだか怖かったから……」
「女性に怖がられるなんて、初めてかもしれんな。しかし、もうすこしだけ怖がってもらおうかね」

 と言って、彼はナイフを取り出した。そして、わたしはようやく気づいた。彼には片腕がない。ナイフを持っていないほうの腕は……肘から下がきれいに取り去られていた。……削られたんだ。
 幽霊には幽霊の掟があるということを、幽霊であるわたしはちゃんと知っている。わたしたちは、生きている魂に触れると、『削られる』。わたしは削られた経験がないから、詳しくは知らないが、削られた場所はおそらくもとには戻らない。道端には、脳や手足を削られた幽霊たちがうようよしている。わたしはそうなりたくないから、この空き家に住むことにしたのだ。空き家には持ち主がいないらしく、『魂の許可』は必要なかった。古びた屋敷はいずれ取り壊されるのだろうと思い、一時的なすみかとしていたのだが、意外にも、この屋敷が取り壊される気配はまだない。

 彼は鋭いナイフをちらつかせ、殺意をこめた目で見つめてくる。幽霊は、生きている魂に触れると危険である。これは確定事項だ。では、幽霊が幽霊に触れるとどうなるのか、あるいはナイフの刃に触れるとどうなるのか……それは知らない。それを知るためには、この体が欠損することを覚悟しなくてはならない。試す勇気はなかった。

 わたしはさらに五歩ほど後退した。そろそろ壁にぶつかるかもしれない。
「ナイフだなんて……」
「幽霊はナイフで倒せるのかね? ま、知らないけど、やってみる価値はある」
 と言ってナイフを振るおうとする彼を、あわてて制す。
「待ってください。どうして、わたしを攻撃するんですか。なにが目的です?」
 彼はあきれたようにわたしを見やる。まるで、わたしのほうが変だとでも言いたげに。
「わたしはね、静かに暮らしたいんだ。『削られる』ことに怯えて、本も読めない、音楽も聞けない、そんな暮らしはもううんざりさ。穏やかな暮らしのために必要なもの。なんだかわかるか?」
「わかりません」
 彼は低い声で脅すように言う。
「きみが今持ってるもんだよ! 家さ。それさえあれば、削られなくて済むんだ! 読書だってできる」
「わたしを消して、奪おうっていうんですか! そんなこと、しなくたっていいでしょう」
「ほう、では代案があるってのか?」
 彼は一歩下がって、わたしの話を聞く姿勢になった。
 問答無用で襲うつもりではないらしい。よかった。どうにか説得しなくては、この住み慣れた住居から出ていかなければならない。冷や汗がにじみそうになってきた。
「……わたしはここで幸せに、静かに暮らしているんですよ? どうして、その幸せを奪おうとするんです」
「きみの幸せなんて知ったこっちゃない。わたしは自分が幸せになるために、最善の選択肢を選ぶだけだよ」
 うーん、意固地だ。
 脳内で、吉良吉影という人のデータに、「自分勝手」だが「頭がよさそう」の二点が書き加えられた。
「別の住居を探してはどうでしょうか」
「論外だ。今、ここできみを脅せば、すぐに手に入るんだぞ?」
「わたしは脅されたくありません!」
「そんなのは関係ないね」
「あなた、鬼ですか!」
「鬼かもな」
 飄々と応じられると、ほんとうに困ってしまう。しかし、なにもしないわけにはいかない。言葉を強引に絞り出す。
「……この家は、わたしが無断で住んでいる家です。いつ取り壊されるかわからない。もし、この家が取り壊されたら、あるいはべつの持ち主の手に渡ったら、『削られる』かもしれません。あなたの求める静かな暮らしって、そんな不安定なものなんですか」
「ほう。それは聡明な意見だねえ。でも、外でうろうろしてるよりは、ここに住んだほうが百倍マシってもんだぜ。これから、どうにかして『結界』をつくれるかもしれんしな」
 彼の言葉は理路整然としていて、わたしでは突き崩せそうにない。
 もはや最後の選択肢をつきつけるしかない、と思った。
 この人はすごく気味の悪い目をしているし、喋り方もなんだか異常なので、こういうことを言いたくはなかったのだが……。
「では、こうしませんか。この屋敷はとても広い。部屋だっていくつもあります。一緒に暮らしませんか?」
「……ほう」
 どうやら意外な申し出だったらしく、吉良はあごのところへ、ナイフを持った片手を持っていって、考えこむような表情になる。その仕草を見て、片腕がないというのは、やはり不便なのだろうと思った。両腕があったなら、彼はナイフを持った手ではなく、あいた手を考えごとに使っただろう。
「そうだな。それはありかもしれない。こういう境遇になって、本を読むことも、音楽を聞くことも、以前に比べるとできなくなった。生前のわたしがどんな人間だったのかはほとんどわからないが、死んだわたしは、静かで落ち着いた暮らしを渇望するようになったよ。しかし」
と、彼はそこで言葉を切って、すこしだけ考え込んだ。
「他人と話すというのも、幽霊になってからはほとんどやっていなかった……きょうはひさしぶりにだれかと話せて、ちょっとハイになってるんだ」
 もしかして、ハイになっているから、気味の悪い喋り方なのだろうか? もうすこし、感情を出して、人間らしく話してほしいものだが……。苦々しい顔をしているわたしには気づかぬまま、彼はうれしそうに、こう提案した。
「では、きみとこの場所を共有してみようじゃないか。もちろん、きみがやかましくして、わたしの生活の邪魔をしたら……」
「しませんから、殺さないでください」
 いや、幽霊だから、もう死んでるんだけれど。
 彼と同じく、わたしもハイになっているかもしれない。他人と会話するなんて、何年ぶりだろう?
 こんな気味の悪い、殺人鬼みたいな雰囲気の人でも、いないよりはいるほうがずっといい。彼を部屋に招き入れたのは、寂しかったからだと思う。幽霊というものは、みな、寂しいのだ。途方もなく長い時間を、魂のみの状態で生きていくという決意をした時点で、孤独と鬼ごっこをしているようなものだ。その寂しさを埋めるためには、仲間が必要。

 彼は本棚の本に興味を示していたようだけど、わたしは、そこにある本はすべて読んでしまった。……いや、読み飽きてしまった、と言ったほうがいいだろう。幽霊をやるというのは、とても暇なことなのだ。仕事も、家族も、趣味も、すべて奪われるようなものだ。家があるからって、幸せになれるわけじゃない。

 うきうきした表情で、二階の空き部屋を見繕おうと駆けていく彼を見て、弟ができたような気分になった。生前の年齢で言えば、わたしのほうが圧倒的に年下だ。精神年齢も彼のほうが上だと思う。でも、幽霊としてはこちらのほうがずっと先輩なんだろう。彼はまだ、幽霊の退屈さを知らない。本や音楽が心を癒やしてくれるのは、ただただ一瞬のあいだだけなのだという残酷な現実を把握していない。
 わたしたちが抱いているのは、永劫の孤独である。そして、永遠にここにいなければならないのに、体だけがすり減って削れていくことへの圧倒的な恐怖である。その孤独と恐怖から逃げるためならば、わたしはどんなことでもするとここに誓おう。

「……ところで」
 二階の部屋を見たあと、彼はわたしのところへ戻ってきて、こう言った。
「きみは、どうして成仏しないんだ?」
「わたし、生前のことなんて、なにも覚えてないんです。でも、なんとなく、天国には行けないような気がする。それで、ここにいるんですよ」
 たぶん、だれかを殺したり、盗んだり、奪ったり、それよりももっとひどいことをしたり……そういうことをしていたのだと思う。核兵器のスイッチを押していたとしても驚かない。自分は生まれながらに悪なのだ――そういう実感が常にある。
「ふうん……」
 と彼は唸ってから、いやな感じに笑った。
「そうそう。わたし、片腕がなくって、とても不便なんだよ。天国に行けないような悪いことをした女の腕なら、もらってもいいかな」
「ダメに決まってるじゃないですか! やめてくださいよ!」
 そんな会話をしつつ、この彼とは意外と気が合うのかもしれないと思った。
 殺人鬼みたいに気味が悪い、だなんて言ったけれど……たぶん、わたしも似たような存在だから。

 殺人鬼のようなわたしと殺人鬼のような彼は、こうして出逢い、生活をともにすることとなった。
 前途は非常に多難のように思えるが、それでも、ひとりきりで生活しつづけていたわたしにとって、彼という存在は救済だったのだと思う。わたしは、『削られる』恐怖よりも、退屈や孤独のほうがいやだったのかもしれない。
 たぶん、この屋敷が生者に消されるその日まで――わたしと吉良吉影は一緒に暮らす。
 そのことについて、彼はこう言った。

「わたしは安定したものが好きだ。不安定なものには反吐が出る……なまえとこの館は、一時的にではあるが、わたしを安心させてくれる。とても好きだよ。さて――きょうも仕事に出かけなければならないから、しばらく留守にする。留守番、よろしく」
 そこで彼は一度言葉を切って、にやりと笑う。
「あと……なまえの腕、やっぱりもらってもいい?」
 わたしはそれに対し、「腕はあげませんけど、いってらっしゃい」と短く答えた。
20170331
デッドマンズ吉良、4部吉良よりもヤンチャな感じが独特で、すごく好きなのです……という話。
どうにかして幽霊でも住める家の設定を考えてあげたかったんですが、思いつきませんでした。お金を稼ぐのは可能なようなので、振込口座や名義人、家の持ち主を生きている人間として捏造することができれば可能なのかな? あとは尼さんのような幽霊が見える人に協力してもらうとか。