着慣れないドレスの裾を持ち上げながら、彼女は憂鬱さを隠さず、彼との待ち合わせ場所に向かった。
 ヒールの高い靴にもまだ慣れていない。そんなものを履いたりするような生活とは、長いあいだ無縁だったから。
 その日の食事は、いつものトラットリアではなく、普段は行かないようなリストランテに招待されていた。
 なんらかの特別な意味合いがこめられている、と彼女は直感していた。

 リストランテのなかに入って、目を見開いた。
 なかには、彼と従業員以外、誰もいなかった。
 テーブルもひとつしかない。テーブルのうえには、ふたりのための食器がすでに用意されていた。
 高級リストランテを貸し切るだなんて……いくら彼の仕事が特殊なものとはいえ、常識からはずれすぎてはいないか。

「今度の任務は特別難しくってね。もうすこしでスクアーロもわたしも死ぬところだったんです」

 数分後、おだやかに語りはじめる彼の手には、暗い紫色の液体がゆれるワイングラスがあった。
 彼女はあえてティッツァーノの目は見ず、そのワイングラスのなかの水面ばかりを見つめていた。
 メインの肉料理がふたりの前に並ぶころまで、彼女はずっと、まるで自分自身がワインであると言い聞かせるかのように、視界を紫色で埋める努力をしていた。

「だから、生き残った記念に、なまえと豪勢な食事をしようと思ったんです。どうです、おいしいでしょう?」
「……まずいわ。なんだか、生焼けみたい」

 肉を切り分けて口に運びながら、そう応じた。
 ティッツァーノはその返答を聞き、満足そうにほほえむ。
 彼女が、ゆらゆらとゆれる、ワインの水面から目を離すことはない。
 彼はワインに口をつけてはいるようだったが、まずは香りを楽しむ趣向のようで、ほとんど減りはしていない。
 ゆったりとした所作。どうやら、この後に仕事は控えていないらしい。
 このディナータイムはまだまだ終わらないのだろう。

「それはいけない。別のものをお出ししましょうか」

 彼は優雅な動作でカメリエーレを呼ぶ。カメリエーレは彼女の前にあった肉料理の皿を片付け、代わりに魚料理を運んできた。
 香草焼きのように見受けられるが、こういった料理に詳しくない彼女には、その料理の名前まではわからない。
 さきほどの肉料理と同じように、機械的に切り分けて口に運んでみた。
 今度は、彼はなにも問わなかった。

「すてきな夜ですね、シニョリーナ」
「ええ。星もとてもきれいだし、店は貸し切りで、居心地がいいしね」
「気に入っていただけたようでよかった。店選びには苦労したんです。スクアーロはあまりこういうことには詳しくないし」

 すらすらと、まるで台本のセリフでも話しているみたいに、ティッツァーノは語った。酒の勢いなのか、普段よりも雄弁だ。

「この愚かな男が、あなたに恋をしているということ……知っていましたか?」
「知らなかったわ」
「そうですか。では、あらためて言わせていただく。あなたのことが好きだ。愛している」
「そう。わたしもよ」
「ほんとうに?」
「ええ。あなたを愛しているの、ティッツァーノ。あなたがいなければ、こんな高級なお店でごはんを食べることもなかった。こんなドレスだって、一生縁がなかった。そんなつまらないわたしを、好きになってくれてありがとう」

 彼は彼女の愛の告白を無言で聞いていた。爬虫類みたいな瞳のなかに、感情を読みとることができない。彼女はできるだけその目を見ないようにしていたが、さきほどまであったはずのワインの水面は、いつのまにか彼に飲み干されて消えてなくなっており、視線のやり場に困った。
 空になったグラスは、彼のなかにある乾いた恋情を象徴しているような気がして、それを直視することはできかねた。

「これから、どうします?」
「帰りたくない、かな」
「オレもだ」

 それまでずっと『わたし』と言っていた彼が、急に一人称を変えたそのとき。
 彼女は彼の目のなかに、熊のような大きな肉食獣がいるように錯覚した。

「では、シニョリーナ。次なる舞踏会の場へと招待しましょう」
「ええ、おねがい」

 間髪入れず、彼女はそう答えた。ふたりを見守っていたカメリエーレ、そしてリストランテの従業員たちは、おそらく仲睦まじいカップルの姿をそこに見ていただろう。プロポーズのために高級料理店を貸し切り、彼女の口に合わない料理を下げさせ、ドレスや靴も買い与えてくれる、理想の恋人だとティッツァーノを称するだろう。多少やりすぎではあるが、それを異常な愛情とは思わないはずだ。

 一方、彼女は、慣れないヒールでうまく歩けずふらつきながら、自らの背中に冷たい汗が伝っていくのを感じていた。
 自分の舌を、見えないなにかが拘束している。うまく話せない。自分の本心とは違う言葉ばかりが、口をついて出てきてしまう……。
 なにがなんだかわからない。眼前にいる彼と、この異常な現象とのあいだに、関わりがあるのかどうかも。
 舌の違和感を拭い去ろうと、平静な精神を取り戻そうと、躍起だった。ワインの水面をずっと眺めていたのも、彼の顔をできるだけ見ないようにしていたのも、すべては自分が今、『異常』な精神状態であると信じていたからだ。

 彼が最初に出してくれた肉料理は美味だった。いままでに食べたことのある、どんな料理よりもおいしかったのだ。焼き加減も彼女の好きなウェルダンだった。なのに、口をついて出てきたのは「まずい」「生焼けだ」という言葉だった。
 なぜか貸し切りにされた店と、なにを考えているかわからない彼。食べかけのまま、下げられていく肉料理。居心地はとても悪くて、早く帰りたかった……なのに、「居心地がいい」「帰りたくない」と言ってしまった。
 しまいには、彼のことを愛しているなんて、これっぽっちも思ってないはずなのに……「愛している」と告白してしまった。

 その言葉は、自分のなかに眠る『本音』なのだろうか?
 それとも、なんらかの精神状態の異常からくる、認識の『齟齬』だろうか?
 どちらにしても、このままホテルまでついていくわけにはいかない。
 この現象の意味が理解できるまでは……。

「おや、どうした?」

 急に彼が振り向いたので、びくりと体全体で反応してしまった。

「まさか、ここまできて帰るなどとは言わないだろう。ギャングは一度言ったことは必ず実行するものだ」
「一度、言ったこと……?」
「『次なる舞踏会の場に招待する』。オレはそう言ったのだから、あなたは黙ってエスコートされていればいい。そうだろう?」
「ええ、そのとおりだと思う。はやく『そこ』へ行きたいって思う」

 ああ、まただ。
 また本心とは裏返しの言葉が出てしまった。それとも、自分が認識しそこねているだけで、これが『本音』なのか?
 彼の口調が急にフランクになった気がするのは、愛の告白をしたあとだからだろうか。
 これまでは、ずっと敬語で話していたはずなのに……。

「ほら、早く」

 彼に手を握られて、はっとする。異様に冷たい手だった。まるで、人でないみたいに。
 彼がギャングなのだということは知っていた。
 いくらギャングであったとしても、彼は優しいし、危険なんかないと、きのうまでは思っていた。
 でも、ほんとうにそうなんだろうか。
 このまま、この手に導かれても、いいのだろうか。

 顔を上げて目を合わせると、彼の目のなかには真っ赤な熊がいて、こちらの様子をじっとうかがっているような気がした。
 もし、今ここで彼の手を振り払って逃げ出したら……飛びかかってきそうなくらいに真に迫ったまなざし。
 それを見て、ようやく気づいた。
 ここで、彼についていく以外の選択肢なんて、存在していなかったのだと。
 この現象の意味が理解できるまで待つ……そんなのは、甘い選択だった。間違っていた。

 夜の街にはいろんなものがあふれている。生も死も、違法なものも、邪悪なものも。
 いつだって、この街には法に縛られないものや邪悪なものがたくさん道端にあふれていて、窒息しそうなくらいに息苦しくて。でも、彼だけはそういう汚れたものとは無縁の存在だと信じていた。
 そんな彼と一緒に夜を過ごそうとしているというのに、彼女の心はまったく晴れなかった。
 いつのまにか舌の圧迫感が消えていたので、試しに小さな声で、自分の『本音』を口にしてみる。

「怖い、帰りたい、これから起きることが、おそろしくてたまらない……」
「ん? いま、なにか言ったかな」
「なんでもない。なにも言ってない。早く行きましょ」

 このとき、『言わされている』のではなく、自分の意志で彼女は急いでそう答えた。
 もはや全身が、蜘蛛の糸のようなねばついた網に捕らえられてしまっていて、逃げだすことはかなわない。
 こんなに高いヒールでは、走って逃げることもできない。それに、彼の手はとても強い力で彼女の手を握っていて、生半なことでは離してくれそうもない。
 もはやチェックメイトだ。
 彼女は痛むかかとを地面から少しあげて、彼と口づけを交わした。冷えたワインに似た、死のような唇だった。

なまえ、あなたを愛しています。なにをしてでも捕らえたいと思ってしまうほど、あなたに心酔している」

 彼の告白は、意味のある言葉として耳に届くことはなかった。
 ただ、かかとの痛みだけが、脳のなかで何回も跳ね返って、熱を帯びていた。単なる痛みの信号のはずなのに、なぜかそれは狂いそうな恋の熱に似ていた。

ドレス、ハイヒール、そして暗く揺れるワイン

20180509