死体はすでに処理してしまったので見せられない、と目の前の知らない男は言った。そんなことは言われずともわかっていたのに、勝手に涙が出てきた。たぶん、この男は彼と同じヒットマンチームのメンバーの誰かなのだろうが、名を知ることはないだろう。わたしには必要のない名前だからだ。
 そう、最初から全部わかっていたはずだ。プロシュートがマフィアであるかぎり、ヒットマンチームにいるかぎり、やがて必ずこういう結末になると。

 プロシュートはわたしに対して、何度も語って聞かせてくれていた。パッショーネのヒットマンチームが組織においてどのような存在なのか。自分がたどる道がどこへつづいているか。彼は直接的なことはなにも言わなかったが、「言わずともわかるだろうがな」と言いたげな目でわたしを見つめていた。
 終わりがすぐ近くにあることを、彼は知っていたと思う。
 男はプロシュートの死を告げ、そのまますぐに消えてしまった。気づいたらいなくなっていたので、『帰った』というよりは『消えた』というほうが近い。この去り方こそが、この男が暗殺者であるという証左であるような気がした。

なまえ。オレは、おまえを定義しない。この意味、わかってくれるな?」

 と、彼はいつだったか耳元で囁いた。定義しない。わたしは彼を恋人だと定義していたけれど、彼はわたしを恋人とは断定しない、ということだ。いじわるで言っているわけではもちろんない……プロシュートの『恋人』になるということは、彼とともに死ぬということ。
彼の得た富や権力を得ると同時に、彼の買った恨みや殺意も引き受けるということだ。
 プロシュートはどうやら、わたしにそういう役割を引き受けてほしくなかったらしい。わたしにはあくまで、マフィアではない、ただの女として生きてほしかったようだ。
 大事な部分をなにも言わないのが彼の最大の特徴だったから、本心はいまだ知らないままなのだが。

 きょうを境に、わたしとマフィアとのつながりは断たれる。
 ペッシではなく別のメンバーがわざわざ伝えに来たということは、たぶんペッシも死んだのだろう。
 こういうときのために、プロシュートはわたしにパッショーネの機密事項をまったく漏らさなかった。わたしは彼が日々、なにを殺し、なにと戦っていたのか知らない。
 本来ならば、プロシュートが死んだと同時に、口封じのためにわたしが殺されてもおかしくはないのだが……プロシュートが信頼できる口の固い男だったからこそ、わたしは暗殺者たちに消されることなく、ここにいる。
 プロシュートはわたしを『マフィアの女』にしなかった。

「ううん、してくれなかった、がきっと正しい」

 プロシュートは優しいのかもしれない。でも、肝心なところでわたしの本心をわかってくれていなかった気がする。
 わたしはいま、悔いているのだ。
 彼とともに死ねなかったことを。
 『マフィアの女』になれなかったことを。

 無意識に、グラスに赤ワインを注いで揺らしていた。
 彼とリストランテへ向かうとき、よく赤ワインを買ってもらった。
 その記憶が自然と溢れ出す。

+++

「あの、わたしは水でいいよ?」
「あぁ? おいおいそいつはねえだろう、なまえ。てめえはそれでいいかもしれねえが、オレが恥かくんだよ、連れの女に酒も買ってやれねえ穀潰しだと思われちまう」

 彼が頼む赤ワインはいつだってメニューのなかで一番高級なもので、酒の味がよくわからないわたしでも、すごく美味しいと思った。彼が買ってくれたものだから美味しいのか、彼の舌が肥えているから美味しいのか、よくわからなかったけれど……。

「ペッシは元気?」
「相変わらずのマンモーニだがな」
「……ふたりとも元気そうでよかった。もう会えないかと思ってたから」

 前回会ったとき、プロシュートはたった一言こう吐き捨てた。
 「危ねえかもしれねえ」と。
 むろん、詳しいことはなにも言わなかった。ただ、組織でなにか大きな事件が起きたのだろうということは察せられた。
 だから、無事に彼が姿を現した時はほんとうにほっとした。
 幽霊でも見たような気すらした。

「謝りはしねえぜ、オレは絶対に謝らねえ。そのかわり、なまえがいつここからいなくなっても、文句は言わねえ。そういう約束だ」
「うん、わかってる。わかってるから。来週もここで待ってる。いなくなんかならないよ、プロシュート」

 彼の仕事がない週末にかぎって、こうしてディナーをともにする。それが、恋人として、彼と交わした唯一の約束だった。それ以外のことはなにも要求されなかった。彼は恋人になにかを望むということがなかった。「ただそこにいてくれさえすればいい」と、とても小さな声でいつか言っていた。

 わたしは彼にとって、添い遂げるべき相手などでは全然なく、単なる『場所』だったのだろう、といまは思う。わたしがカタギの世界で待っていることで、彼は帰る場所を得た。
暗殺と策略の世界から、なにもない平和なリストランテへ。
 一週間に一度だけの、安息を。

「また、来週。ここにいてくれ」

 囁きつつ、そっとわたしの頬にキスをした彼の唇は、思っていたよりもとても冷えていた。
 生きながらにして死んでいるような感触。
 その冷たさが彼の不器用さと重なる一方、胃のなかの赤ワインが気持ちに呼応するように急に熱くなった気がした。

 それが最後のキスだった。

+++

 グラスのなかの赤ワインを飲み終えると、彼との思い出もどんどん遠ざかっていくような気がした。酔いが体にまわっていく。蝕まれるように、意識が遠のく。
 ソファに横になり、彼の記憶を探してみたけれど、リストランテで他愛のない会話をした記憶がぐるぐるとリピートされるだけで、目新しいものは見つけられなかった。
 酔いと涙で目の前が霞んだ。

 そして、わたしは霞む意識の向こうで、血にまみれた彼が倒れているのを見つけた。意識が朧になればなるほどに、彼の像ははっきりと見えてくる。都合のいい幻覚だ、とソファの感触を確かめながら思った。彼がなぜ死んだのかも知らないのに、死体を幻視するなんて。彼の死体は見るも無惨なほどに変形し、欠損し、まるで列車にでも轢かれたみたいだった。
彼の口が動いて、なにか言ったような気がした。

「もう、帰らねえから、あとは勝手にしろ」

 かすかだが、わたしにはそう聞こえた。まったくもって自分に都合のいい夢想。あとで、酔いが覚めたら恥ずかしくなるだろう。彼が死に際に、女のことなんて考えるはずがない。彼は向こうの世界で死んだのだから。週に一度の安息日とは無縁の、あちら側に行ったまま、もう戻ってこないのだから。
 彼に安息日はもうない。あるのは死だけ。

 神は天地創造の際に一日だけなにもしない日をもうけた。神につくられた人間たちはそれを安息日と呼び、労働を行うことを禁じた。彼もまた、それをなぞるように、週に一日だけ仕事をやめ、わたしのもとへやってきた。
 幻想のなかで、わたしは思う。
 では、死は、彼にとって安息になりうるだろうか?

 いま、偉大なる死が眼前に横たわっている。血にまみれていて、見るに堪えない。なのに、一瞬たりとも目が離せない。
 ヒットマンチームのプロシュートではない。
 わたしの恋人のプロシュートでもない。
 ただの死。それだけだ。
 その死こそがほんとうの彼だった。ふたつの虚像を行き来する彼ではなくて、ただの実像としての彼を初めて見た。わたしは彼の死体を抱き寄せて、赤ワインの香りとともに口づけをした。
 どうか、安らかに眠り給え。

紅い安息

20190129