【 ふたりのひねくれもの 】

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 放課後の廊下に、薄日が差し込んでいる。
 クラスメイトのみんなは先に帰ってしまったようだ。
 とぼとぼと一人で廊下を歩いていると、速見先生に出会った。
 両手にプリントをたくさん抱えている。残業の最中らしい。

「よお、みょうじ。さっさと帰れよ。いつまでもいられると、俺の仕事が増えちまう」
 だるそうな口調で彼は言う。おそらく、誰にでもこう言っているのだろう。
 そんなことを考えつつ、彼に向かってこう問いかける。
「先生は帰らないのですか?」
 チッ、と彼は舌打ちで返事した。
「大人がガキと同時刻に帰れると思うなよ。ガキは早く帰れるうちに早く帰れ。就職してから後悔するぞ」
 その言葉には、彼なりの優しさが潜んでいるような気がした。気のせいかもしれないが。
 ふっと笑んだわたしは、次の瞬間、凍りついていた。
「どうして女が怖いなんて言うんだ?」
 先生が、淡々とした口調でそう言ったからだ。
「……それ、答えなければならない質問なのですか?」
 わたしは、震える声で問い返す。
「いや、別に無理して答えなくていいんだけどよ。むしろ、答えないほうが俺としては楽っつーか」
 先生は、そこですこしだけ黙り、
「まあ、でも、話したほうが楽なら話せよ。聞いてやらなくもない。そうしてるあいだは、残業をサボれるしな」
と続けた。
 ふふ、とわたしは笑った。
「先生、本当は優しいですよね」
「褒めても何も出ないぞ」
「知ってますよ。褒めれば褒めるほど、先生は逃げていってしまうって」
……そうだ、彼は褒められることに慣れていない。そして、普段は誰も彼を褒めたりしない。非リア充の代表、模範的な喪男のレッテル。そんな不名誉な評価が、彼を安心させる。そういう扱いこそが、身の丈に合ったものなのだと彼自身も思っている。
「ね、先生。女の子って、すぐに相手を褒めるんですよ。かわいいとか、きれいとか、髪飾りが素敵だとか。そういう世界なんです」
「吐き気がするような、ゆるふわリア充の世界だな。俺ならそんなのはごめんだ」
「わたしも、そんなのはごめんだって思ったんです。それで、大変なことになっちゃった。だから、女の子が苦手なんですよ」

 夕暮れの廊下で二人きり。
 とてもロマンチックなシチュエーションなのに、話題のせいだろうか、妙に息苦しかった。
 まあ、どんな話題だったとしても、この人にロマンチックなんてものは似合いはしないのだけれど。

「じゃあ、牧島たちはどうだ? やっぱり苦手か?」

 『大変なこと』の詳細を問い詰めずに、この質問をしてくるあたり、やはり彼はちゃんとした先生なのではないかと思う。
 生徒のプライバシーに土足で踏み込まない。
 相手が話したくないことを尋ねない。
 相手が嫌がることをしない。
 どれも、模範的な先生の行動だと思う。
 ……わたしのような、何を考えているかわからない生徒が相手だから、そういう態度を取らざるをえないのかもしれないけれど。
 その言葉を聞いて、息苦しさが消えて、楽になった。
 われながら単純だと思う。

「苦手じゃないですよ」
 わたしは即答した。
「牧島さんや美咲さんたちは、意味もなく相手を褒めたりしません。上っ面だけの会話をしたりもしません。いや、牧島さんに限っては、先生のことをガチで褒めまくりですけど……」
「おい、その話はやめろ。頼むから」
 妙な汗をかきつつそう言う彼を見て、思わずくすくすと笑いが漏れてしまった。
 彼は呆れてため息をつく。そして窓から夕空を眺める。釣られて、そちらを見た。
 オレンジ色の空のまんなかに、白い雲が優しく流れていく。平和な空だった。
 ただ、白い雲の形がなんだかヘンテコで、美咲さんに似ている気がした。
 彼も同じことを考えたのだろうか、美咲さんたちの話をしはじめる。
「あいつらの会話も、上っ面だけといえばそうなんだがな。ただ、おまえが思う『上っ面』とはまったく違うもんだろうな。あいつらは世の中の女子からはかけ離れた生命体なんだ。はっきり言って、普通の女子よりも意味がわからなくて危険だ」
「でも、そういうところが居心地がいいと思ってしまいます」
 わたしは、思わず本心を吐露してしまった。自分でも、彼の前でそこまで言うつもりではなかったから、驚いた。
 先生も面食らったような顔をしていた。
 彼の手は、わたしの髪をそっとなでようとして――なでずに下に降りる。女性に自分から触れるなんてことはしないし、できない。いつもの速見先生だった。
「そんなこと言ってられるのは今だけだ。美咲の料理を食ったり、あいつらの妙な騒動に巻き込まれたり、リア充に罵られたりするうちに、おまえは呑気なことを言ってられなくなるに違いねえ」
 リア充は特に関係ないのではないかと思いつつ、わたしはこう返した。
「そのときは、先生に相談しに行きますよ」
「言ってろ。俺なんて何の役にも立たないって証明してやるよ。特に、リア充の前ではな!」

――先生は、何の役にも立たない人なんかじゃないですよ。

 その一言は、胸に閉まっておいた。
 先生と別れて、廊下をとことこと歩き出す。
 夕暮れの空は、紫色の闇に落ちようとしていた。
 早く帰って、今日あったことを日記帳に書き留めておこうと思う。

 今日の日記のタイトルは、「本当はとても優しいひと」。
 そして、しっかりと鍵をかけて、机にしまっておくのだ。
 この学校での、わたしの新しい日常。
 まだ始まったばかりの日々だけれど、とてもキテレツで楽しい生活だということを、ちゃんと書き残しておきたい。今はそう思っている。


+++



「あれ、速見先生。残業ですか?」
 少女の後ろ姿を見送った速見は、背後から声をかけられ、振り向いた。
 廊下を通りがかった奈月がそこにいた。
「ああ、そうだ。おまえが俺より先に帰って女とイチャついていたとしても、ファンシーショップに寄って買い物をしやがるとしても、俺はそのあいだ、ずっとここで寂しく、白いアスパラガスのようにジメジメしたところに埋まって仕事をしているというわけだ。イケメンは死ね」
「なんでいつもそうなるんですか。というか、アスパラガスに失礼ですし、残業中のぼくにも失礼ですよ」
 呆れたようにツッコミを入れつつ、奈月はふと思い出したように問いかけた。
「速見先生のクラスに、転入生が来ましたよね」
みょうじのことか。妙なやつだ」
「あの子と話しているときの速見先生、なんだかいつもと違いますよね」
「は?」
 速見は威圧するように奈月を見やる。
「……そんな怖い顔で見ないでくださいよ。変な意味ではなくて、帰宅部の子たちと話してるときとくらべて、優しいなと思っただけで」
「あのな、帰宅部とかいう規格外の連中を基準にするな。あいつらに接するほうが百五十倍くらい難しいだろ。優しくなんかしたら大変なことになる」
 たしかにそうですね、と奈月は苦笑した。
「そういう意味では、あの子は普通すぎるくらいに普通なのかもしれません。それに、速見先生に似ていますよ」
「どこがだ」
 憮然としつつ、みょうじの顔を思い出してみる。三十四歳の喪男に似ているような要素はひとつもない。
「顔じゃないですよ。どことなく、人間を信じていないというか、充実している人を遠くから見ているようなところがあるでしょう、彼女。まあ、速見先生にくらべれば、まったく気にならない程度の軽症なんですけど」

 そう言われて、速見は思い出した。転入生の彼女が、帰宅部の騒動を、一歩離れた場所から静かに見ている。そんな風景を。
 もちろん、帰宅部のメンバーは人懐っこいので、新しくクラスにやってきた少女に対しても、輪のなかに加えてくれてはいる。
 しかし、やはり『女性恐怖症』とやらが邪魔をするのだろう。完全に打ち解けているわけではない。
 それにくらべると、速見とはちゃんと打ち解けている。恋愛がどうこうなどという意味ではなく、波長が合う。なんとなく、同族の匂いがする。奈月の言う『人間を信じていない』という言葉が、その親近感の正体なのだろうか。
 ここでシリアスな話をしてもしかたがないので、速見はバカにしたように鼻で笑って、こう言った。

「三十四年間の孤独を背負った喪男にくらべれば、あいつの孤独はかわいいもんだろうよ、そりゃーな。年季が違うんだぜ。だいたい、俺にしてみれば、十代や二十代には喪を名乗ってほしくないくらいだ。そういうやつに限って、大学とかバイト先とかで恋人できたりするんだぜ。ファッション喪も脱喪も許せん。さらにイケメンだったりしたら、デコからちんこ生えてもらうしかない」
「あの、喪男の話とか、イケメンへの呪詛とか、そういうのは今はどうでもいいので控えてもらってもいいですかね」
 ハッ、と速見はもう一度笑った。
 そして能力と書いてチカラと読むものを発揮するときのポーズをとった。実際には特に何も発揮されないが。
「控えねえよ、イケメン太郎。これが俺だ」
「漫画っぽくかっこつけたポーズしても、その内容じゃ何もかっこよくないですよ……」
 奈月は、体のなかの息をすべて吐き出すような、深いため息をついた。
「まあ、でも、よかったです。速見先生があの子と楽しそうに過ごしてくれていて」
「どういう意味だ?」
「あの子、前の学校では大変だったみたいですからね。この学校にちゃんとなじめるのか心配だと言って、よく親御さんが来られるでしょう」

 みょうじの母親には、速見も何度か面会している。
 病弱そうな白い肌が特徴的な、若い女性である。不幸そうな立ち姿が少女に似ていた。
 あの子、ちゃんと勉強していますか。先生やクラスメイトに迷惑をかけていませんか。云々。
 娘のことが心配でやって来るのだろうが、ああいった母親の過剰な干渉も、おそらくはみょうじの重荷になっているに違いなかった。

「速見先生、あの子とちゃんと向き合っていてくださいね」

 悪気はないのだろうが、奈月の言葉はどこか重く響いた。
 ――俺にそんな繊細な作業が向いてるわけねえだろ。
 そう返事したかったが、実際、速見は少女と話すことを特に億劫だとは思っていない。
 むしろ楽しいと感じてすらいるのは、やはり、少女も速見と似たようなメンタルだからだろう。
 たぶん、前の学校での揉め事などというものがなかったとしても、彼女とは気が合ったと思う。
 あの少女は、生粋のひねくれ者だ。

 しばらくそのことを考えていて、気づいたら、奈月の姿はなかった。
 窓の外には紫色の闇が広がっている。そろそろ七時くらいだろう。少女は、無事に家に戻れただろうか。
 三十四歳の喪男で、厨二病のダメ人間で、いつだって卑屈な速見敦志は、なぜか一瞬だけ自分らしくないことを考えてしまった。
 その考えをさっさと打ち消して、彼は職員室へと戻ることにした。

『先生、本当は優しいですよね』

 廊下を歩きつつ、少女のセリフを思い出した彼は、心のなかでこう返す。

「優しくねえよ。俺なんかが優しく見える時点で、みょうじはやっぱりヘンテコなやつなんだよ。帰宅部のやつらと同じくらいにな」

 次に会ったら、彼女にそう言おうかどうか、迷った。
 しかし、やはり言う必要はない。
 言ったって、少女は困ったように笑うだけだろうから。


20150903


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