ほんとうに怖いのは、劇的な変化ではない。
ゆっくりと、傍目にはわからないくらいに遅い速度で進行していくなにかの方だ。

「キングさん、こんにちは」
「あ、ああ。いらっしゃい。そこに座布団あるから」
「では、お言葉に甘えて」

きょうも、彼女は俺の部屋へ来て、テレビゲームをしている。
無職ひきこもり二十九歳の冴えないオタクの部屋に、女性が通いつめている。
二次元でもそうそう起こりえない事態だ。
いつからこんなことになったのだったか。

臆病というやまい


俺の住居は、ここらに住む人間なら知らない者はないくらいに有名なマンションだ。通称『キングマンション』と呼ばれているとか、いないとか。
だが、知名度のわりに、戸口まで押しかけてくる人間は少ない。
地上最強の男・キングは、すぐにキングエンジンを鳴らしてしまうせいか、キレやすいというキャラ設定になっている。
用もないのに押しかけると、殺される。そんなイメージが付いているんだろう。
ある意味ではありがたいが……このキャラ設定がいつまでも独り歩きしていくのかと思うと、めまいがする。

しかし、世の中には、キングの設定に恐れをなさない熱狂的なファンが存在する。俺自身、オタクだから彼らの気持はよく分かる。のめりこんだら止まらない。対象のすべてを知りたいと思う。オタクなら当然だろう。
だが、まさか熱狂的なファンと対峙して、こんなことになるとは思っていなかった。

その日も俺はいつもどおり、ゲームをしながらだらだらと部屋でくつろいでいた。
となりで、ゲームで負けすぎてふてくされたサイタマ氏がお茶を飲んでいた気がする。
そんなとき、チャイムが鳴った。

「あ、俺出るわ」

自分の家のようなくつろぎ方をしていたサイタマ氏が、スーッと玄関へ向かっていった。たぶん、ほんとうに自分の家だと思っているんだろう。止めようと思ったときにはすでに彼の姿はなかった。

そして、戻ってきたサイタマ氏のとなりには、彼女がいた。

「よ、キング。おまえのファンだってよ」
「え……? え、いや、なんでファンを家に上げるの?」
「は? なんで上げちゃダメなんだ。せっかく来てくれたんだぞ」

ヒーローとしてのキングが嘘のかたまりだと知っていて、こういうことをするのだから、サイタマ氏はおそろしい。時折、感情がないのではないかと思う時がある。
サイタマ氏のとなりでにこにこしていたのは、愛想のいい小奇麗な女性だ。
この部屋に女性をあげるなんて、たぶん初めてだ。
ドッドッドッ……と例の音が聞こえる。

「わぁ、キングエンジン!! 本物だ!!」

と喜ぶ彼女に、なんと声をかけるべきか悩んだ。このエンジン音をファンサービスかなにかだと思っているらしいが、違うぞ。
とりあえず、出ていってほしい。
化けの皮が剥がれる前に。

「あ、どきどきシスターズ!」

間髪入れず、彼女が部屋にあるゲーム類に目をつけ始めた。
しかも、しょっぱなからどきどきシスターズ。
『化けの皮』、そのものじゃないか。
キングのイメージ、終わったな……と覚悟を決めたそのとき、彼女はきらきらした目でこちらを見た。

「キングさんも、どきシス好きなんですか!? 意外です。趣味は山ごもりって聞きましたけど」
「え、どきシス、知ってるの?」
「知ってるに決まってますよ。水着撮影モード、激アツでしたね?」

最近追加された水着撮影モードまで網羅しているとは……この女性、ほんもののどきシスファンだ。
思えば、ヒーローオタクもオタクの一種である。ゲームオタクを兼ねていても自然だ。いまどきは、男性向け恋愛ゲームを女性がプレイしていることはめずらしくはないという。真性のゲームオタクのなかには、乙女ゲームに興じる男性もいるらしい。

「俺もあのモードの追加は神がかってると思ってて……特にあのアングル変更時の演出が……」

ついつい、どきシスについてひとしきり語ってしまう。
同志を見つけたらまずは語らずにはいられない、これもまた、オタクの習性である。
もはや、目の前にいるのが知らない女の子であるということも忘れ、長々と、攻略対象やOPムービーにはじまり、最近整備されたシステム周りの快適さなどまで語り尽くしてしまった。

「いやー、地味にセーブ&ロードが快適になったんだよね。水着撮影モード追加だけでもすごいんだけどさ、細やかな気遣いが、さすがスタッフわかってるなという感じで」
「正直、水着撮影でテンション上がりすぎて気づかなかったんですけど、言われてみれば、だいぶ快適にプレイできるようになってました。さすがキングさんですね」

……などという会話をしつづけているうちに、ついていけなくなったサイタマ氏はいつのまにか部屋から姿を消していた。また窓から出ていったのかもしれない。

「……もうこんな時間ですね。長々とごめんなさい。あの、最後にひとつだけ、いいですか?」
「ああ、うん。なにかな」
「サインください!」

冷や汗をかきつつ、俺は彼女のさしだしたポータブルゲーム機にサインをした。
完全に忘れていた。
彼女は、『キング』のファンなのだった。ゲーム友だちでもなんでもない。
この街でもっともよくできた虚構、『S級ヒーローのキング』に会いに来た。
そんなものはどこにも存在しないなどとは、思いもせず。

「あ、あの、こちらからもひとついいかな」
「ええ、キングさんのお願いだったら、何個でも聞けますよ」

そういうことは不用意に言わないほうがいいと思う。
なにせ、こちらは無職・ひきこもり・童貞の三重苦なのだ。
なにをお願いされるかわかったものではないぞ。
まあ、臆病すぎて、なにもお願いできそうにないけど……。

「ここで話した内容は内密にしてほしいんだ。ほら、キングがどきシスのファンのゲームオタクだなんて、かっこつかないからさ」
「そういうものなんですか? でも、キングさんがそうおっしゃるのであれば、この秘密は墓まで持っていきます」

ほっと一息ついたあと、俺はついでのように言った。

「あと、リアルでどきシスの話ができる人に会ったの、きみが初めてなんだ。もしよかったら、また遊びに来てくれない?」

自分でもなぜこんな大胆な提案をできたのか理解できない。普段なら絶対に言わない言葉だ。サイタマ氏のときだって、向こうから押しかけてきたからいまのような仲になれたのであって、こちらからなにか頼んだわけではない。

「ええ、わたしもどきシスの話、もっとしたいですから」

彼女は無邪気な笑顔でそう答えた。
まるでどきシスの攻略対象みたいじゃないか。
……そうだ。
この会話は、恋の導入に似ている。
彼女が帰ったあと、そう気づいたとき、またキングエンジンが高鳴りだした。
先ほどまでは、ただのどきシスのファン、同志としか認識していなかったのに。

「わたし、なまえといいます。また来ますね!」

別れ際の『また来ますね』が脳内でリフレインする。
漫画とかでよくある『恋に落ちる音』とは、こんな緊迫感のある、ふかしすぎた車のエンジンみたいな音だったのだろうか?
とてもそうは思えないのだけれど。

+++

「キングさんって、戦闘態勢じゃなくても、わりとエンジン鳴らしてるんですね。なんだか、イメージとちょっと違ったかも」

彼女が軽やかにシューティングゲームをしながら言ったその言葉が、胸に突き刺さった。
『どきシス』を詳しく知っている彼女は、どうやら無類のゲーム好きであるようで、そこまで上手ではないものの、どんなゲームもほどほどにこなしているようだ。
そのことについて尋ねると、「ええ、ゲームが昔から好きなので……」と、すこしうつむき加減に言われた。
それはさておき、俺はいつでもどこでもキングエンジンを鳴らしているわけでは、もちろんない。
……彼女がそこにいるから、勝手に鳴ってしまうのである。
すべては、臆病ゆえに。

「……そのゲーム、楽しい?」
「ええ、楽しいです。その、むかし、よくやってたんですよ。新作出てたなんて知らなかった」
「むかしは今よりもシューティングがメジャーだったからね。近頃は新作が出てもあまり話題にならなくって」

つい、内容のない会話を繰り返してしまう。
ほんとうはなにが言いたいのだろう、俺は。
自分でもよくわからない。
大事な決断を先延ばしにすることに関しては、だれにも負けない自信がある。

なまえさんは、どうしてキングのファンになったの?」

ピチューン。
俺の発した質問と同時に、彼女の操っていた機体が死ぬ音がした。
『GAME OVER』の文字が大きくポップアップし、ハイスコアランキングの画面へと移る。ランキングはかつて俺の出したスコアで埋め尽くされて、彼女の名前はそこには入らない。
彼女はゲームを再スタートさせることなく、こちらを振り向いた。

「わたしが、キングさんのファンになったのは……」

すっと笑みが消える。
常に愛想よく笑っていた彼女が、笑わなくなった瞬間。
時が止まったような錯覚に陥った。

「……『最強』になりそこねたから、かな」
「きみが? 『最強』に?」
「わたし、もともとヒーローだったんですよ」
「もともと、ってことは、今は?」
「C級のノルマが達成できなくて……今は一般人です」

淡々と受け応えする彼女には、どこか寂しそうなオーラがあった。
手の届かないものに焦がれるその顔は、サイタマ氏やS級ヒーローを見るときの俺に似ていた。
『ヒーロー』になりたかったのか、彼女は。
自分の代わりに正義を達成する人間として、キングに焦がれていた。
ここには、そんな正義はない。
そう叫びたかったが、ぎりぎりでこらえた。
ただ、ぽつりと本音のかけらが口からこぼれる。

「きみは、俺と同じだ」

どうしてそんなことを言ってしまったのか、よくわからなかった。
案の定、彼女は首を傾げてこう返す。

「同じなんかじゃないです。キングさんはS級なんですから」
「S級だろうと、関係ないんだ。俺は無力だ。人を救うことはこんなにも難しいのかと、日々悩んでいる」

この言葉は嘘ではないな、と確認しながら、俺は注意深く言った。

「キングさん……」

彼女はしばらく呆然としていたが、そのうち、

「……キングさんともなると、言うことが違いますね。わたしがヒーローになれなかった理由、わかったような気がします」

と納得したように頷いた。
どうやら俺には他人を納得させる才能があるような気がする。
こうやって勝手に納得していく人間は、今までに何度も見てきた。
そのたびに、すこしだけ嬉しく、そして寂しくなる。
心のなかだけで、本音をつぶやいた。
きみは、騙されているだけだよ。

+++

どんなに仲の良いゲーム友だちになったとしても、俺はこの娘と恋仲になることはできない。彼女と俺のあいだには分厚い壁があり、この壁を破壊しないことには、彼女はほんとうの俺を見ることすらない。
その壁の名は、『S級7位のキング』。そう呼ばれる虚像だ。
やっかいなのは、彼女はこの壁に惹かれて俺のところへやってきたということだ。これを破壊することは、彼女との唯一の接点を断つということ。
……彼女は『キング』のファンなのだ。俺のファンじゃない。
そのことを忘れてはならない。
とどのつまり、この状態は『詰み』である。彼女には、これ以上近づくことはできない。嘘は俺を縛り、どうしようもないほどに重い鎖と化していた。
「『S級のキング』にしがみついてきた罰、か」
これまで他人を騙して生きてきた俺への罰がこれなのだとすれば、神様ってやつは天才だ。
「皮肉が効きすぎなんだよ……」

さて、きょうも彼女はここに来るだろう。俺には、無邪気にゲームを楽しむ彼女に真実を打ち明けることもできる。すべてが終わりになるかもしれない恐怖に足がすくんで、結局は打ち明けずにへらへら笑うだけ。
俺は保身と恋を天秤にかけて、きょうもまた保身を選ぶ。永久に届かない恋に焦がれながら、その恋を選び取ろうとは思わない。きっと。

『キング、このまま嘘を通すのか? ヒーロー辞めるのか?』
『強くなればいんじゃね?』

かつてサイタマ氏に言われた言葉が、頭のなかをずっと回っている。
回っているだけで、前に進むことはない。
俺はこの状態に慣れすぎた。変われるタイミングをスルーしすぎて、変わることができなくなってしまった。
あの日……強くなることを決意しておけば、恋をつかみとれたかもしれないのに。

+++

その日はとても暑い日で、セミすらも鳴くのをやめてしまっているのか、ひどく静かだった。キングマンションは冷房完備だから、室内にいる俺には特に影響はなかった。
彼女はいつもどおりにやってきて、ゲームをしていた。

「ここに来るの、きょう限りにしようと思うんです」

コントローラーを置きながら、彼女が申し訳なさそうにそう打ち明けたとき、俺は心のどこかでほっとしていた。
もう上っ面を取り繕わなくて済む、と直感的に思ったせいだろうか。

「ゲームに飽きた?」

それとも、俺に飽きた?
とはもちろん言わなかった。

「……いいえ。ここらへん、もう出入りが自由にできない状態だから。わたし、一般居住区に住んでいるので……このまま通うと、キングさんに迷惑がかかってしまうから」

ああ……そういえば、もはやキングマンションは『柵のなか』なんだった。
完全に忘れていた。

「そうか……寂しくなるなあ」
「ええ」

このままだと、会えなくなる。
さんざん保身に走っていたくせに、ここへきて、俺は後悔しはじめた。
会えなくなったら、罪を償うこともできない。
騙してしまって、ごめんと言えない。

そう、俺はこの人を騙している。何の罪もなく、善良で、俺をただ慕ってくれているこの子を、ずっと騙しているのだ。騙しているくせに、恋している。離れてほしくないと思っている。実に笑える。
そんなだから、二十九歳にもなって、いまだ童貞。
だが、今は。
……離れていってほしくない。
ただ、その一心しか心になかった。
俺という人間は基本的に、臆病で卑怯だ。
保身のことだけ考えて行きている、消極的詐欺師。
でも……彼女の前ではほんとうのヒーローになれるような気がした。

ほんとうの自分になってもいい気がしたんだ。

「あのさぁ、ここだけの話なんだけど」
「なんですか? キングさん」
「俺、詐欺師なんだよ。みんなを騙している。なまえさんのことも」
「え?」

彼女はぽかんとしてこちらを見た。

「それは……どういう意味ですか?」
「俺は弱いんだ。ほんとうはS級のキングなんかじゃない。きっときみよりも弱くて……なんの力も持っていない。一般人なんだよ」
「キングさん、なにを言っているんですか?」

心が折れそうになりながら、俺は最後の言葉を吐いた。

「でも、きみにだけはほんとうのことを打ち明けたいと思った。嘘をつきたくないと思った。きみは、誠実な人だから」

俺のあとにつづくように、彼女は心が折れそうな顔でこうつぶやいた。

「……わたしも、あなたを騙していました」
「は?」

俺はまた、自分だけが吐き出してすっきりするつもりでいたんだと思う。
これさえ打ち明けてしまえば、彼女と別れ別れになっても、そこまでの後悔は残らないと踏んでいた気がする。
が、彼女が俺の告白に乗っかってきたせいで、虚をつかれてなにも言えなくなった。

「わたし、ゲーム好きな一般人なんかじゃないんです。ヒーローになることを諦めたと言ったのは、ほんとうですけどね」
「じゃ、じゃあ、何者なんだ!? きみは……」
「わたしは、もともとはゲームのファンではなくって、『あなたの』ファンです。ゲームを始めたのも、あなたをゲーム屋さんで見かけたからで……」
「俺がどきシスを買うの、見てたのか?」
「だから、ほんとうはキングさんみたいなガチのゲーマーじゃないし、昔からやってたっていうのも、嘘なんです。ごめんなさい」
彼女は懺悔のようにそう吐き出した。
「ああ、でも」

と彼女はあわてて言葉を継いだ。

「どきシスが好きなのは、ほんとうです。最初はキングさんがやっていたから始めたけど、今は、すっかりどきシスファンになっちゃって」

そう言って苦笑する彼女はほんとうにかわいらしくて……キングエンジンが思い切り高鳴ってしまう。
それを聞いて顔をこわばらせた彼女に、俺は勇気を出してこう告げた。

「このっ……このエンジンは、戦闘態勢の音なんかじゃないんだ。きみだけにはほんとうのことを言うよ」

目を閉じて、意を決した。

「これ……緊張しているだけなんだ。心臓の音が、すごく、大きくって」

おそるおそる目を開けると、彼女が口に手を当てておかしそうに笑っていた。

「あはは、素のキングさんって……そんな……かわいい感じなんだ」
「か、かわいい?」
「キングさんが一般人っていうのは、さすがに謙遜としか思えませんけど……心臓の音の話は、信じます。打ち明けてくださって、ありがとうございました」

ひとしきり笑ってから、彼女はぺこりと礼をした。
俺たちはひとつずつ秘密を打ち明け、懺悔したことになる。
正直、俺の嘘に比べれば、彼女の嘘は些細な罪に過ぎないような気がしたが、どこか心が晴れた。

「わたし、キングさんともっとお話がしたいです。もし、よかったら……」
「きみがここに来れないなら、俺が会いに行くよ」

彼女が言い終わる前に、そう提案した。言わなければ、と思ったからだ。
自分が言いたかったことを先に言われた彼女は、先読みされたのが嬉しいとばかりに、満面の笑みになった。

「ええ。わたしのアパートの住所、お渡ししておきますね」

彼女は自分の手帖を取り出し、1ページちぎってさらさらとなにか書き、わたしてくれた。
メモの中には、電話番号と住所がかわいらしい文字で書かれていた。

「では、今度こそ御暇しますね。キングさん」
「うん、じゃあ、また連絡する」

いつのまにか、彼女を騙していたことに対する罪悪感は氷解していた。
『S級7位』の壁が壊れたとは言いがたいが、きっとこれからどうにかなるだろうという確信が胸に生まれる。
俺のなかに足りなかったのは、ヒーローとしての強さかと思っていた。
しかし……どうやら、それ以外にもいろいろ足りないものがあったようだ。
彼女との会話のなかで、足りなかったものが一つ埋まったような気がする。
自信とか、自己肯定感とか、そういうたぐいのものが。

このまま、彼女と会いつづければ、もしかしたら……なれるかもしれない。
ずっと焦がれている、ほんもののヒーローに。
そう思いつつ、彼女からもらった大切なメモを、決してなくさないように、戸棚のファイルへとしまった。



20190813