その不可思議な物体は『ぷよ』という名前なのだと、あとから教えてもらった。
 それらは通学路を歩いていたわたしのうえに、突然、大量に降ってきたのだ。
 なにこれ? 隕石? 超常現象?
 街いっぱいに大量にカエルが降ってくる超常現象、たしか昔、実際にあったんだっけ……などと、一瞬だけ呑気に考えてしまった。
 そんなこと考えている場合じゃない。このままだと、押しつぶされて死ぬ――!
 あわてて逃げようとして、尻餅をついてしまった。
 死を覚悟した瞬間、ぽん!と魔法のような音をたてて、それらは一瞬で消え去った。

「だいじょうぶかね?」

 とても低くてダンディな声が聞こえ、見上げてみると、茶色くてふわふわしたものがわたしを見ている。
 『これ』がわたしを助けてくれたのだろうか?
 でも、そもそも『これ』、なんだろう。ぬいぐるみ?
 りすみたいな、くまみたいな、きぐるみみたいな、ゆるキャラみたいな……。

「あなたは、だれ?」

 問われた彼は、わたしの手をそっとにぎって、立ち上がらせた。
 ふわふわした手の感触は、わたしを非日常に魅入らせるのには十分だった。

「わたくしは、『りすくま』ともうすもの。危ないところでしたね。もう、だいじょうぶ。あちらでお茶でも飲みましょう」

 彼はわたしを喫茶店へとエスコートしてくれた。
 小さめのテーブルのうえに、香り立つ紅茶が載せられていた。わたしはロイヤルミルクティー。彼はオレンジ・ペコ。
 ……ずっと、カップからのぼる湯気ばかり見ていた。今までに見たことのないような、レトロ調のオブジェがひしめくように置かれていたはずなのだけれど、ほとんど覚えていない。同級生たちは絶対にこんな店を知らないだろう。わたしと彼しか、この世界を知らない。静かで、紅茶の香りだけが漂う世界。その音のない世界へと、ゆっくりと落ちてくる彼の声。
 そのすべてに、すごく緊張した。

 驚いたことに、彼は同じ学校の先輩なのだという。こんなに老成しているのに、わたしと一学年しか違わないだなんて……。留年でもしているのだろうか。そもそも、ほんとうに生徒なのだろうか? いったいどんな試験を受ければ、ぬいぐるみにしか見えないものが生徒になれるのだろう。

「お気軽に『りすせんぱい』とでもお呼びください、みょうじ さん」
「はい、ではそう呼ばせてもらいます。りすせんぱい!」

 ダンディな声で優しく言われ、わたしは元気よく答えた。

+++

 ……ということで、ぬいぐるみのような紳士とお友だちになってしまった。

「りすせんぱい!」

 ドタドタと足音を立てつつ、わたしは彼のいる部室へ滑り込む。
 実験道具が雑然と置かれた部屋の中心で、きょうもフラスコ片手に彼が微笑んでいた。

「おや、みょうじ さん。きょうはどうされましたか?」
「聞いてください、きょうはですね……」

 ここ最近、毎週ここへ来ては、よもやま話を繰り返すのが一つの楽しみになっている。

「……あなたはいつも楽しそうだ」

 彼はすっと目を細める。
 表情の変化にいまいち乏しい彼だけれど、最近はなんとなく彼の気持ちがわかる。

「楽しいですよ! りすせんぱい、すごく聞き上手ですから」
「ふふ。あなたにそう言ってもらえると、りす冥利にもくま冥利にも尽きるというもの」
「でも、いつもわたしが話してばかりですね? せんぱいは、話したいことはありませんか?」

 そう問われて、彼は「はて」と首を傾げる。

「……話したいこと、ですか。あまり考えたことがありませんでした」
「せんぱい、聞き上手っぽいですもんね」
「聞き上手などではありませんよ」
「またまた、謙遜しちゃって」

 彼はやれやれと言った調子で試験管を振った。

「謙遜などではありません。あなたが話し上手なのです。いつまでも聞いていたいと思ってしまうほどに」
「そんなにべた褒めされると、逆に困ってしまいます……」
「魅力的な女性が困っているさまを見るのも、よいものです」

 ……ダンディな声で魅力的だとか言われてしまうと、ほんとうに困ってしまう。
 普段、こんなことを言われる機会がないからだろうか。
 どこまでが本気で、どこまでがお世辞なのだか……悩む。

「せんぱい。そんなこと言われたら、わたし、勘違いしてしまいますよ?」
「勘違いしてくださってけっこう。それもまた『愛』なのですから……」

 彼はそんなふうに応じたけれど、やっぱりそれは大人の余裕というやつなのだろうか。はぐらかされたような気もする。
 彼の言う愛って、いったいなんだろう?
 ドキドキとモヤモヤを同時に抱えて、わたしは家に帰った。
 帰路を歩みながら、なにを考えているのかわからない彼の表情を思い返していた。
 思い返せば、彼の考えがすこしでもわかるかもしれないと思いながら……。

 空を見上げると、まあるい雲が少し横長になって流れていった。
 彼と出会った日の『ぷよ』みたいだった。
 彼は、あの日、お茶でも飲みましょう、とも言った。
 あの日から、変わらずずっと優しいその姿。それを眺めていると、涙が出そうになる。

「ほんとうに、勘違いしても、いいんですか?」

 問いかけてみたものの、その場にいない彼はまったく答えはしない。
 空に浮かぶ『ぷよ』も、静かにゆるゆると流れてゆくだけだ。でも、それが無言の肯定のように思えて、ちょっとだけ泣いてしまった。お世辞でもいい、わたしはいつまでもここで勘違いしていたい。

 ああ、わたしはあの人のことが好きなんだ。
 人なんだか、りすなんだか、くまなんだか、よくわからない彼のことが好きなんだと――まあるい雲を眺めて、単純にそう思った。
 

それは、つかみどころのない恋だった

 あなたはとても優しいけれど、その優しさの本質がよく見えなくて。
 変わらない優しさは、これ以上は詰められない距離を象徴しているようにも思えて、すこし凹む。
 そんなときのわたしは、あの日、落ちてきた『ぷよ』と、異世界めいた喫茶店のことだけを、ひたすらに思い出す。
 その風景は、わたしと彼とを運命的に結ぶ糸のように思えたから。
20171201