鬼首独郎の家――家というより、ほぼ廃屋だ――に訪れるたびに、生活感のなさに唖然とする。仕事一筋で生きてきた人間の家とは、こんなにも無機質なものだろうか。黒魔術めいたオブジェが立ち並ぶばかりで、彼の生活を示すものは、さっぱり見つからないのだ。彼を慕うものからすると、あまりに物足りない。その彼らしさに、安堵してもいるのだけれど。
「ドクターは、どうして、わたしを家にあげてくれるのですか?」
と、ふと尋ねてみた。講師が生徒を家にあげるなんて、普通はないことだろうと思う。
「どうしてって、弟子だからだが?」
 何の不思議もない、と言いたげな答えが返ってきた。
「いくら弟子だといっても、こう何度も家にあげているのが他のDDSメンバーに知れたら、まずいのではないんですか」
「そう思うのなら、来ないようにすればいい。ワタシはどのみち、気にしないさ」
 君の心のケアも、ワタシが引き受けているようなものだしね、と彼は付け足す。のんびりした調子である。あまり深刻なことだとは思っていなさそうだ。
「君は自分の恋心に対して、ある種の罪悪感を持っているかもしれないがね。そんなものは捨ててもよろしい」
 書類を整理しながら、彼はぼそぼそと言う。
「思春期の少女が、おとなである教師に恋をする。こんなの、ありふれたことだからねえ。ま、ワタシはあまり遭遇したことはないが……七海ちゃんあたりは経験あるんじゃないのかな」
 順番を整え終わったらしい書類を、彼は戸棚へとしまった。その事務的な動作のあいだだけ、沈黙が流れた。
 わたしは何も言わなかった。彼がまだなにか言いたげだったからだ。
「……君の恋心を打ち破るのなんて、簡単なことさ。おとなはずるい生き物だから、こどもの恋を打ち消すために、いくつも醜い理屈を考えているものなんだよ。いくつか挙げてみようか? 君は自分の命を救ってくれたDDCに感謝の念を抱いているが、その感謝を恋と錯覚しているのではないか。父を失った反動で、新しい父を求めているのではないか。ドクター・ドクロはちょうど父親くらいの年齢だし、なんて――たぶん、団先生なら言うだろうよ」
 彼は、そんなふうにつらつらと語った。わたしは脳内でそっと計算をしている。四十二から、十五を引いていたのだ。
 黙って計算に熱中しているわたしを、彼はじっと見つめた。
「でもね、ワタシは、そういう理屈には否定的な気持ちを持ってしまう。なぜだかわかるかな」
「……常識を信じていないからですか?」
「それもあるかもしれないな。ワタシはね、三度の飯よりも科学が好きだと言ったとき、おとなたちに猛反発された。ドクロ標本が好きだなんて言った日には、母親は卒倒しかけてた」
 情景を想像して、わたしは微笑んでしまった。鬼首少年は、きっと今とまったく変わらないような、まっすぐでヘンテコなこどもだったのだろう。
 彼はそんなわたしを見ながら、こうつづけた。
「おとなは、こどもがなにかを好きになることを、常に邪魔しようとしているもんだ。ワタシは、そういうおとなにはなりたくない。だから、君の恋心を封殺しようなんて思っちゃいないんだ。そのうち消え去ってしまう感情だと踏んではいるがね」
「ドクターは、今も変わらず、科学や標本が好きなのでしょう? ならば……」
「ならば自分も、と言うのかね。君なら言うだろうな。そういう君だから、見守りたくなってしまうんだ」
 見守りたい、という言葉は保護者めいた響きではあったが、やはり嬉しい。
 彼は、わたしの恋を知ってなお、その行方を見守ってくれるという。
 それだけで――胸がすっとして、満たされる気持ちになる。
 もしかすると、恋の成就なんてなくても、今が充分に幸せなのかもしれない。そんなうつくしい錯覚が、わたしを包んでいる。彼はわたしを拒絶していない。わたしも彼を拒絶しない。それだけで泣きそうになる。
「しかし君は愚かだよ。恋の選択肢なんて山ほどある。この世には、もっと君にふさわしい色男がいっぱいいるだろう。なのに、こんな暗い部屋で、ワタシとドクロなんか眺めているんだから」
「わたしは、ドクターと一緒にドクロを眺めるのが、一番楽しいです」
 彼はそれを聞いて、嬉しげに苦笑いした。
「強情なところも、ワタシそっくりだ。優秀な弟子だな。みょうじちゃんは」
 やや強い風が窓枠を揺らす。『ニューアンティーク様式』と彼が呼ぶ家は、やはり廃屋には違いないらしく、すこしの風でギシギシときしむ。まるで、わたしの心をそのままあらわしているようだった。
 窓枠のきしむ音を聞きながら、彼は、持っていたドクロをそっと机に置いた。ことん、と優しい音がして、エリザベスは彼の手を離れる。なによりも愛しいであろう『彼女』と、彼がこうして意識的に離れるのは珍しい。
 彼は、両手を使って、わたしの右手をとった。白い手袋の下から、ぬくもりが伝わってくる。ぎゅっと力を入れて、彼はわたしの手を握っていた。そうすることで、なにか、感情が伝播していくと信じているように。
「君も、いずれおとなになる。おとなはね、きれいなだけではいられない。きれいなものを、ひとつずつ捨てていかなければ、おとなにはなれない。もし、君がそのうつくしいものを、最後まで捨てずにいられたなら、そのときは――」
 彼はその言葉を、最後まで言わなかった。自分でも、何を言いたいのかわからなくなってしまったのかもしれない。相手を縛りかねない約束に、恐怖を感じた可能性もある。この人は案外、臆病なのだとわたしは知っている。だから、その先を言わなかったのはとても彼らしいと思った。
 わたしが、彼への恋情を最後まで捨てずにいられたなら。
 そういうおとなに、なれたならば――
「そのときは、どうするのですか? ドクター」
 わたしのいじわるな問いかけに、彼はやれやれという表情で答える。
「内緒だ。そんなこと、今言ってしまったら、つまらんだろう?」
 立てた人差し指を口元に持っていく彼の仕草が妙に愛しく思えて、わたしはにっこり笑った。

おとなはきれいな恋をしない

20161026