不実な唇

 愛すれば愛するほどに遠ざかっていく人だった。彼のすべては妙にふわふわしていて、いつでもどこか嘘っぽい。そんな彼が、『崩壊した法廷』で罪を暴かれたという話を聞いたとき、「ああ、やっぱり」としか思わなかった。彼はわたしを毎日抱いてくれたが、抱かれれば抱かれるほどに、夢幻のようにさらさらと、ほんものの彼が消えていくような気がしていた。そんなまぼろしのような彼は、わたしの心をぎゅっとしめつけてせつなくする。でも、しめつけられるほど、彼のことが気になる。いとおしくなる。そんな不毛な恋だった。

 今はもう、彼はいない。死んだわけではないが、会うことはできない場所にいる。いつ帰ってくるのか、あるいは帰ってくることなどないのか。まったくわからない。
 会えなくなってから、彼のことを考える時間が増えた。
「今回の仕事もうまくいきそうだ。正義はいつだって勝つのだから」
 彼は、あの日の前日もそう言って笑っていた。あんなことになるなんて、予想していなかったに違いない。自分の仕事と演技に絶対の自信を持っていたはずだ。
「お仕事、がんばってね。あなたの正義、応援しているから」
 どこか空虚な励ましの言葉を口にしてしまう毎日だった。空虚の理由は、彼が消えてからわかった。彼は正義などではなかったのだ。正義という皮をかぶった、にせものの彼だった。だから、わたしの言葉も、実体をなくして空中を漂っていたのだ。
「この正義にかけて、愛を誓おう。なまえ
 そう言って彼は口づけをした。優しくて甘いフレンチ・キス。下心なんてひとかけらも感じられない、ロマンティックなキスだった。けれど、あのあたたかなキスも嘘だったのだろうか。ほんものの彼ではなかったのだろうか。
 今となっては、たしかめようがない。ともに過ごしたあの人が、いったいだれだったのか。
 彼は、恋人を演じていただけなのだろうか。嘘を貫き通すために、わたしを利用しただけなのだろうか。
 彼の感情は、他人よりも微弱だという。なにかを感じることなんて、ほとんどないという。
 わたしにくれた愛情も、やっぱりハリボテだったのだろうか。
 それとも、わたしに囁いてくれた愛だけは、ほんものだったのか。
「あなたの正義って、いったいなに? あなたの愛って、どこにあったの?」
 わたしと彼の過ごしたささやかな日常は、幸せに満ち溢れていたはず。
 キスも、セックスも、会話も――ぜんぶ、とても幸せだった。なのに。
 そのすべてが夢幻だったかもしれないことに気づいて、わたしはからっぽになろうとしている。

 からっぽなわたしの部屋には、からっぽの彼が立っている。服装は以前のまま。顔の部分はぼやけてしまっていて、以前の彼ではなかった。たぶん、これはわたしの妄想だろう。しかし妄想でも、彼がいないよりはマシだった。
「きみが好きだ。世界中のすべてが信じられなくても、きみのことだけは信じている」
 すでに実体のない、夢幻の彼が言う。
「亡霊には実体がない。自分がだれなのかもわからない。だが、きみがだれなのかは知っている。なまえだ。きみを愛している。それだけが救いなのだ」
 これは、ほんとうの彼の言葉ではない。
 あの日以来、わたしの部屋に巣食っている彼のまぼろしが言ったのだ。
 でも――彼はもともとまぼろしだった。形のない亡霊。
 ならば、まぼろしの言うことを信じてみてもいいのではないだろうか。
「わたし、待ってる。ほんとうのあなたがこの部屋に戻ってくるのを、信じて待っているから……」
 今、病院にいるのは『番轟三』ではない。ほんとうの彼だと思う。どんな人なのかは不明。顔すらわからないし、性格もわからない。要するに、知らない人だ。
 その彼は、かつてわたしの恋人だった。だから、いつかはこの部屋に戻ってくるかもしれない。そのとき、聞いてみようではないか。わたしを、ほんとうに愛していたかどうか。
 そうすることで、わたしは自分の恋がほんものなのかどうかを知ることができる。
 かぎりなく絶望に近い希望を胸にいだいて、わたしは歩みだす。
 今まで彼とふたりで歩いてきた道を、たったひとりで。

 まぼろしの恋のなかから、ほんとうの気持ちを見つけだす。
 それは、嘘の証言のなかから真実を見つけだす行程にも似た、甘くて苦い夢だった。

20170207