手首にぐるり。


 もう二度と、あの泥棒に会うことはないのだろう、と直感した。
 背を向けたまま走っていく彼の姿が、みるみる小さくなって消えていく瞬間に。
 彼は、わたしたちに背を向けることを選んだ。
 季節は移り変わっていく。彼がいても、いなくても、否応なく流れる。
 夏は、もうすぐ終わってしまう。あとかたもなくなってしまう。わたしだけを残して。

――返すくらいなら盗まない。盗んだからにはおれのもんだ!

 彼はそう言ったけれど、ほんとうに返してくれなかったのだ。
 わたしの大切なものを。

 彼が走り去ったあと、彼を呪うような気持ちで、こう思った。
 いっそ、ほんとうにお坊さんになってしまえばいい。だって、法衣がとても似合うから。
 いっそ、ほんとうに先生になってしまえばいい。だって、わたしたちが待っているから。
 なんだかんだで悪人になりきれていない彼のことだ、数年後には寺で修行しているかもしれない。その様子を想像して、すこし笑った。
 お坊さんでも、先生でも、コンビニ店員でも、なんでもいい。泥棒でない彼になら、いつでも会いに行ける。
 そうだったら、よかったのに。

++

 ……あの別れの日から、一ヶ月経過していた。
 春の合宿のあのときだけ一緒にいた彼のことを思い返して、寺町を歩いている。
 きょうは、学校をサボっている。どうにも、あの非日常を忘れられなくて、すこしでも彼を思い出せる、寺のそばに行ってみようと思った。普段はサボることなんてめったにないから、親は心配しているかもしれない。でも、きょうだけは、こうしたかった。
 夏が過ぎ去っていく。徐々に涼しくなって、秋が深まっていく。冷たくなっていく空気が、とても怖く感じられた。
 あのかけがえのない春の日が終わっていく――秋になれば、もはや春に出会ったものなんて、かき消えてしまうかもしれない。
 それがとても耐えがたいことに思えた。
 法衣を着た僧が何人も歩いていくのを、ぼんやりと見つめる。僧たちは、立ち姿だけは彼にそっくりだった。彼があのなかに混じっていても、おかしくはないような気がしてしまう。
(……こんなところにいるはず、ないよね)
 彼は大泥棒。きっと、もっと遠くの地で暴れているに違いない。いつまでも、彼の顔を知った人間がいる土地にいたら、危険だ。
 と、思ったそのとき――

「ドロボーだ!」
という声が寺町に響いた。
 どきりとした。
 つづいて、軽やかな音を立てて法衣の人物が走ってきた。背中には大きな風呂敷包み。包みの端から、錫杖がはみでていた。
 信じがたいことに、それはわたしがずっと会いたいと思っていた人だった。
「あ、浅野さん……!?」
ひた走る彼がこちらに気づいて、「あ」という小さな声をあげた。
 しかし、わたしと会話しているヒマなどない。どんどん走り去り、小さくなっていく。あの日と、同じだ。
 このままじゃダメ。頭のなかで、赤いランプが光る。
 このままじゃ、会えなくなる――!
 思わず、彼の背を追いかけてしまった。大声で叫びながら。
「待ってください、浅野さんっ!」
「あのなー! 泥棒の名前なんか呼ぶんじゃねえっ!」
「どうせ浅野さんが泥棒であることなんて、みんな知ってますよ!」
「知らないやつもいるかもしれんだろうが! ていうか、追ってくんな!」
「いやです! わたし、浅野さんに言いたいことがあるんですから」
「なんだよそれぇ!」
ぜえぜえと息を吐きつつ、わたしは彼を追いかけた。
 彼を追っていた人たちは、年配だったからだろうか、ひとり、またひとりと脱落。いつのまにやら、彼を追うのはわたしだけになっていた。
 町外れのあぜ道で、わたしと彼は向き合った。周囲には誰もおらず、もはや逃げる必要もなくなったようだった。もしかして、彼が寺をターゲットに盗みを働いているのは、年長者が多く、逃げやすいというのが理由なのだろうか。そんなことを考えてしまった。
 彼を見つめてみる。一ヶ月ぶりに見る彼の顔は、なにも変わっていなかった。ひょろりと痩せていて、髪がちょっと長めで、僧でもないのに法衣が似合っている。まちがいない。正真正銘、ほんものの彼だ。
「……あの」
「なんだ? チビスケ。おれを逮捕でもするか?」
「べつに。わたし、浅野さんが逮捕されるかどうかは、どうでもいいんです」
先生が聞いたら卒倒しそうな内容の会話だったが、ほんとうにどうでもよかった。
「言いたいことってなんだ? おれが、先生だってウソついてたことに対する恨み節か?」
と彼は問う。
「それは――」

 さて、どうだろう。わたしは彼になにを言うつもりだったんだろう?
 あなたのことが好きです、とか?
 どうして、わたしを置いていったんですか、とか?
 なんだか、どれも違うような気がした。じゃあ、なにが言いたかったのか。

「浅野さん。わたし、返してほしいものがあるんです」
「あ? おれ、おまえからなにか盗んだか?」
彼なりに凄んでいるつもりらしいが、へっぴり腰なので、いまいち怖くない。
 この人は、泥棒などという悪いことをしているわりに、ぜんぜん悪そうに見えない。
 だからこそ……こんなにも好きになってしまったんだろうか。
「浅野さんと別れてから、テストの点はさんざんだし、授業中も浅野さんのことばかり考えちゃうんです。わたしの学校生活、もうめちゃくちゃ。だから、返してほしい」
「だから、なにをだ?」
「わたしの、心の平穏を、ですよ」
自分がめちゃくちゃなことを言っているのはわかっている。でも、本心だった。わたしは彼に恋している。小学生の、浅ましくて幼い恋情かもしれないけれど、これはたしかに恋なのだ。
「んなこと言われてもなあ」
彼は情けない声をあげた。
「おれに、なにができる? しがない泥棒だよ、おれは」
「また、ここに来るって、約束してほしいです。わたし、浅野さんに会えるなら、頑張れる気がするから」
「つっても、なあ。おれ、泥棒だし」
「なんでもいいんです。ここに来るって約束してください。証を、ください」
「やれやれ。これだから子どもは嫌いだ。理不尽なくせに、一生懸命だからな」
と愚痴を言いながら、彼は袂から数珠をとりだした。そんなものを持っているなんて、やっぱりほんとうの僧みたいだ。
「ほれ。この数珠を持っておけ」
数珠をわたしの手首にぐるりと巻いた。意外と重たい。手首に重みがまとわりついて、なんだかふしぎな気持ちになる。
「これはな、おれが寺ではじめてかっぱらってきたもんだ」
……盗品だったのか。まあ、この人が盗品と商売道具以外のものを持っているとは思っていないけれど。
「けっこう気に入ってる数珠でな。盗みをするときには持っていくようにしている。これを持っていると安心するんだ」
「そんな大事なものを、わたしに?」
「やらんぞ。貸すだけだ。おれはこれを返してもらうために、ここに戻ってくる。だから、もうがちゃがちゃ言うな。な?」
うまくまるめこまれたような気もするし、数珠にまつわる話が事実かどうかは不明だ。案外、ただのガラクタかも。戻ってくるつもりなんて、ないのかも。
 しかし、わたしは満足だった。これで、彼とのあいだに約束が生まれた。もう、ただ去っていくだけの彼ではない。わたしの単純な恋心は、すこしだけ満たされた。彼が、ぽんぽんとわたしの頭を軽く叩いてくれたのもうれしかった。
「ふふ。ありがと、浅野さん」
「浅野"サマ"だろう?」
「ありがと、浅野」
「こいつ、呼び捨てにしやがったな!? おとなをもっと敬え!」
「泥棒を敬う人なんていませんよ」
などという愉快なやりとりのあと、彼はスタコラサッサと逃げていった。そんな彼が、ここに戻ってくるかはわからない。警察に捕まってしまうかもしれないし、遠くへ行ってしまうかもしれない。でも、さきほどまでとは違い、寂しくはなかった。彼はきっと戻ってくる。悪人で、泥棒で、どうしようもない彼だけど、わたしにウソをついてはいないと思う。

「浅野さん! わたし、待ってます! ずっとずっと、ここにいます!」
「ばーか! おれのことなんか、忘れちゃえばいいんだよ! なまえ!」

 ……わたしの名前、覚えていてくれたんだ。あの日にしか会わなかったはずなのに、彼はわたしのことを覚えていてくれていた。案外、律儀なのだ……それだけでうれしくて、ほほえましくなってしまった。その律儀さは、やっぱり泥棒には向いていないと思う。
 彼は「忘れちゃえばいい」なんて言ったけれど、ほんとうに忘れてほしいんじゃなくて、そのほうがわたしにとっていいことだと思ったのだろう。そう信じている。
 走り去る彼の法衣が風ではためいている。
 わたしの恋は、まだ終わっていない。手首に残る神聖な重みが、いつだってわたしに恋を教えてくれる。未熟な小学生の、いつ消えるともわからぬ思いだと、おとなたちは言うだろう。でも、わたしは彼を待っている。あの鮮烈な春の日を忘れず、心だけはいつまでもあの校舎にいる。いつまでも、いつまでも。
20170215