「   人生はミスの連続であり、ミステリの連続である。   」

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ミス

「ねえ、忠志くん」
わたしがそう話しかけると、読んでいるミステリの本から視線を外しつつ、彼が首をかしげた。
「なに?」
「さっき忠志くんからもらったメールなんだけど……」
わたしは携帯の画面を彼に見せる。
ディスプレイには、『岩魚食ったっていいだろ』と表示されている。
「いわざかなって何?」
彼はしばらくあんぐりと口を開けて放心していたが、やがて「変換ミスだ」と言った。頬がかすかに赤い。
「変換ミス?」
わたしが問いかけると、彼は恥ずかしそうに髪をかき回す。
「『言わなくったっていいだろ』って打ったつもりだったんだよ、くそっ」
「あ、これ『いわな』って読むんだ。知らなかった」
「それくらい知っといてほしいな。ていうか、なんかぼくが寒いボケをかましたみたいな空気になってないか」
「え、わざと変換ミスしたの?」
「そんなわけあるか」
彼は立ち上がって自分の携帯電話を探しはじめた。
「ぼくとしたことが。こんな無様なミスを」
どうやら、携帯電話を探し出して、送信フォルダからメールを消去したいようだ。
そこまでしなくてもいいのになあ、とわたしは苦笑する。
「携帯の変換ミスっておもしろいよねえ」
わたしが感嘆しながらそう言うと、彼が嫌そうな顔をした。
「おもしろくない。全然、おもしろくなんかない」
「岩魚くらいで、そんなに怒らなくてもいいのに」
「違う。昔、飯島にからかわれたことがあってさ」
飯島というのは、彼の元友達の名前らしい。
よく彼の話に出てくるが、どういう人物なのかはイマイチつかめない。
「ぼくが風邪ひいて長い間寝込んだとき、飯島にメールを送ったんだよ。『もう寝込みたくない』って」
「で、どうなったの?」
チッ、と彼が舌打ちをした。舌打ちするほど嫌な思い出なら、話さなくてもいいのに……と思ったけれど、続きが気になったので何も言わずにおいた。彼は眉間にしわを寄せたまま、言う。
「『もう猫見たくない』って変換ミスしちゃってたみたいで、なぜかその日、見舞いに来た飯島が猫の写真集をたくさん持ってきてたんだよ。どこから持ってきたんだかわからないけど、思い出すだけでイライラする」
「……飯島さんって、おもしろい人だよね」
「おもしろいもんか。ただのお調子者だ、あんなの」
そう言いつつ、彼はそんなに不機嫌そうな顔でもないのだった。飯島という人と安藤という人のことを話すときは、いつもこうだ。口調では嫌そうなふりを装っているけれど、本当は誰かに話したくてたまらないように、わたしには見える。
「大事な友達なんだよね」
「そんなんじゃない。ただの腐れ縁」
「そっか」
それ以上、わたしが何を言っても、あんまり意味はなさそうだった。
もう、彼は普通の人間ではない。追われる身だ。
安藤という人にも、飯島という人にも――もう、会えないのだろう。
どれだけ会いたくなっても、こうして思い出を語るくらいしかできない。
それがどんなに寂しいことかは、わたしだけが知っている。
毎日恐怖に震えながら、思い出に依存することで自分を保つ忠志くんのことは、わたししか知らないのだ。

わたしはふと、メールにある文を打ち込んで、彼の携帯に送った。
「……ん?」
忠志くんは携帯を開いて、少し首をひねる。
「これも、変換ミスか?」
彼が差し出した携帯電話の画面には、『いつでも、愛に生きます』と書いてある。
「そうだよ」
と、わたしは軽やかに嘘をつき、心の中でこう言った。

いつでも、愛に生きる。
悲しくて寂しくて狂っていて、どうしようもなく気の毒なあなたとの、愛に。
そして、あなたが寂しいのなら、いつだってわたしが会いに行く。
自分の心の中で座り込んで震えているあなたのところに。
それだけが、わたしという存在の理由だから。

「ぼくの変換ミスも恥ずかしいけれど、君のよりはましだって思ったよ」
彼はそう言って、わたしの頭を撫でた。
「ありがとう」――と柔らかな声がわたしの上に振ってきて、まるで春の雪のようだった。





100417



殺人鬼モードじゃないときは「記憶の果て」のときみたいな、昔のテンションになっていてくれればいい、と思っています。

逃亡犯が携帯電話持てるかどうかとかは突っ込んじゃいけないんだぜ?(w
まあ携帯電話くらいならどうにかなるだろう。
そんな感じで、わりと突っ込みどころが多い話です。
実際は変換ミスする金田くんが愛しすぎただけです(w
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