「 白い紙の上で生きていく 」

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4分33秒

「真っ白な小説をさ、書いてみたかった」
人生が終わる瞬間に吐きだされる無用な溜息のように、彼がそう言った。
彼女はきょとんとした表情で、問いかける。
「真っ白なら、それは書いたとは言えないんじゃない?」
「そういう風に返されたのは初めてだな」
「でも、あたしは読んでみたいな。真っ白な小説」
「そう言われたのも初めてだ」
彼は何か思い出すみたいに上を見上げた。
「みんなには今まで、何て言われたの?」
「そんなの売れるわけない、って言われるね。たいてい」
「どうして売れるとか売れないっていう話になるの? 忠志くんは、書きたかっただけなのでしょう?」
彼女が心底不思議そうに言った言葉に、彼が嘆息する。
「売れなきゃ、食っていけない。作家というのはそういうものだ」
「小説は、ごはんを食べるための道具?」
「そうじゃないけど、結果的にはそうなる。誰かが読んでくれなきゃ、意味がないから」
「それで、忠志くんは満足?」
「本当は、違う。大好きなものを道具になんてしちゃいけない。でも、そういう矛盾を抱えて生きていかないと、ただの自己満足になってしまう。それじゃだめだ」
彼ははっとしたように顔をあげた。「そう、それではだめだ――」
彼女は、そんな彼にまた質問をする。
「忠志くんの夢は、小説家になること?」
「なりたかった。過去形だよ」
彼は彼女の方を見て、続ける。
「でもさ、ぼくは心のどこかでずっと、無理だってわかってた気がする。小説家になるなんて、だいそれた夢だと、思ってた。そして今、結局ぼくはこうして、ダメになった」
「忠志くんはダメなんかじゃないよ」
「君がそう言っても、ぼくは自分のダメさを知ってる。どうしようもなく壊れた精神を、理解してる。ぼくは人殺しなんだ。日本の法律では、人を殺すのはいけないことだよ。もう作家にはなれない」
彼女は数秒間黙った後、彼を安心させるように微笑する。
「罪を憎んで人を憎まない――そんな言葉では、あなたの心の隙間は埋まらない?」
「埋まらないけど、君がぼくを憎まないでいてくれるなら、それは大切な価値だね」
「わたしは、忠志くんを憎まないよ」
「うん、ありがとう」彼は両手を上げて降参の意を示す。そしてそのまま、笑顔になる。
「ぼくはそれに、救われてるんだ」


100616
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