世間体に流されているわけではない。ただ、当然のモラルに縛られているだけ。というか、10歳に満たない少女に欲情する方がおかしい。どう考えたっておかしい。なのに、今日も少女はぼくを蔑むような憐れむような微妙な目で見ながらため息をつく。まるで、ぼくが決定的に悪いことをしたかのように。 「甲斐ってかわいそうだよね……」 キッチンの椅子に腰掛け、足をぷらぷら揺らしながらりろりが言う。足は当然のことながら地につかない。 「ぼくはかわいそうじゃない」 「だって、不能なんだもの。男としていちばんかわいそうな現象よね」 りろりという少女の言動は常に攻撃的かつ直接的で、しかもませている。非常に扱いにくい、厄介な敵だ。 「ぼくは不能じゃない」 同じフレーズを繰り返して反駁してみるが、 「じゃあわたしのほうが悪いとでもいうの?」 と返事が返ってくる。 「そんなこと言ってない。そもそもおまえがその年でぼくと対等にその……せ、性交渉しようとしてるのがおかしいんだよ。どう考えても」 一応捕捉しておくと、一方的にりろりがしつこく迫ってくるだけで、甲斐は何もしていない。だが、『今はまだ』……と付け加えなければならないこの状況が、かなりおそろしい。 「なんでよ!! 恋には性別も年齢も国籍も関係ないもん!!」 りろりは足をばたつかせてぷーっと頬をふくらます。 「恋には関係ないかもしれないけどセックスには関係あるだろうが」 ぽん、と間抜けな音がしてトースターから食パンが二枚出てくる。それを指先でつまんで、一枚をりろりに渡し、もう一枚は自分で持つ。イチゴジャムを塗ってかじると、甘い味が口の中に広がった。最近はこういう形のトースターはもう売っていないらしい。 「りろりはもう大人だもん」 「…………」 甲斐は黙ってパンをかじる。 「りろりはもう大人の魅力ばっちりだもん」 「…………」 甲斐は、『生理』という単語をできるだけソフトに、かつさわやかに言い換えることだけを考えていた。月経、月のモノ、メンス?……いや、どれにしたって男には口に出しにくい。絶対に踏み越えてはならないラインが見える。しかしその話題を避けて通ることも難しそうで、甲斐は心の中で頭を抱える。 「生理も来てないガキがそんなこと主張したって仕方ないだろう。物理的に、できないもんはできない」 結局、直接的な表現にならざるをえなかった。生理、という言葉を口に出す瞬間にかすかな罪悪感が生まれて、少し後悔する。 「別に入れなくてもセックスはできるもん! りろり、これでも口でするのには自信があるの。実戦経験はないけど、予行練習はばっちり……」 りろりの主張を聞いていると本当に頭痛がしてくる。口でするだの、セックスだの、小学生が口にするセリフとしてはかなり不適格で、誰かに聞かれたら保護者としての甲斐の責任が問われそうだ。……甲斐がそれらのセリフを彼女に教えたわけではないのだが。甲斐はこめかみを押さえる。 「どんだけうまくたって、ガキはガキだ。おまえじゃ勃たないよ」 「やってみないとわからないでしょ」 「いや、わかるだろ」 「一回やってみたら、きっと良すぎて毎日やってほしいって甲斐の方から言い出すに決まってるんだから! だから、ほら、やらせて!」 言いながら、椅子から飛び降りてこちらに走ってくる。迷わず甲斐のジーンズのチャックに手をかける少女を無理やり振り払い、甲斐は少し距離を取って叫ぶ。 「朝っぱらから何をする気なんだよ!?」 「ナニをするに決まってるでしょう?」 微妙に会話がかみ合っていない。だがそんなことはどうでもいい。大切なのは、今は早朝で、甲斐はこれから会社に出勤しなければならないということだ。小学生といけない遊びに高じている暇なんてないのだ。いや、暇があったとしてもそんなことはしたくない。絶対にしたくない。 「ぼくはこれから会社なんだ。おまえに構ってる暇はないし、そんな不道徳な行為に付き合うつもりもない」 「…………ねえ、甲斐」 少女は少し真剣な口調になり、 「わたしたち、きっと狼と赤ずきんなんだと思うの」 と言った。 「狼はね、おばあちゃんのずきんをかぶって、おばあちゃんのふりをしてる。赤ずきんはまだ、それに気づいてない。いや、気づいてるかもしれないけど、気づいてないふりをしてるのかも。おばあちゃんは狼のおなかの中で、ただ小さく体を縮めてる」 「……何が言いたいんだ?」 何かの比喩なのだろうが、甲斐には意味がわからなかった。 「狼は赤ずきんに正体がばれないように、必死でおばあちゃんのふりをする。最初は赤ずきんも丸飲みにしちゃおうって思ってるんだけど、だんだん赤ずきんと過ごす日常が愛しくなってしまうの。おばあちゃんのふりをするのが、楽しくて、赤ずきんと交わす言葉が、いとおしくて」 「狼と一緒にいる赤ずきんは、何を考えてるんだ?」 甲斐が問いかけると、りろりはうれしそうに笑んだ。 「赤ずきんはね、すぐに狼の演技を見破っちゃって、でも、おもしろいからずっとそのまま、気づいてないふりをするの。おばあちゃんの真似なんてできないのに、無理して頑張ってる、そんな狼のことがおかしくて。そしてなんだか微笑ましくて」 「……それで、二人はどうなるんだ」 「どうにもならない。狼は赤ずきんを大好きで、赤ずきんは狼をやさしく見守ってる。でも、狼はいつか赤ずきんを食べてしまうわ。だって、食べないと飢えて死んでしまうもの。きっと、泣きながら丸飲みにして、おなかを撫でながら、泣くのよ。もう二度と会えない女の子の存在を思い起こしながら、泣くの」 「……そうか」 甲斐はそれしか言えなかった。おとぎ話を下敷きにして、りろりが考えたひとつの物語。だが、それはどうしようもなく救いのないストーリーだ。いつも明るいように見えるりろりの中に、何か暗いものが潜んでいることに、ようやく甲斐は気づいた。 どうしてそんな『狼と赤ずきん』の姿に、自分たちを重ね合わせようと思ったのか。甲斐はそれを問わなければならないのだろう。だが、どうしても口に出すことができなかった。 「確か、赤ずきんとおばあちゃんは、狼のおなかを裂いたら生きたまま戻ってくるだろう? それじゃだめなのか?」 彼はようやく、それだけ言った。 「狼のおなかを裂いたら、狼は死んでしまうんでしょう?」 りろりは、ひんやりとした口調で言う。 「狼と赤ずきん。絶対に、ずっと一緒にはいられないの」 「……ぼくはそうは思わない」 甲斐は強い調子で、りろりの言葉を否定した。少女は面食らったようにまばたきをする。 「狼は、赤ずきんを食べなくたって、他の物を食べて生きていけるじゃないか。いつまでも二人で、ひっそりと森の奥で暮らしたって、いいんじゃないのか」 ぼくはそう思う――と結んでから、甲斐は気づく。これは誘導尋問なんじゃないかと。「じゃあ、りろりと甲斐がずーっと一緒にいてもいいんだよね! セックスしよ!!」などと言い出すつもりなんじゃないだろうか。……と危惧した甲斐の視線に気づいたのか気づいていないのか、りろりはもぐもぐと食パンを口に含みはじめる。 「あのね、甲斐」 彼女が先ほどマーガリンを塗った食パンから、黄色い水滴がぽたりと落ちる。 「家族のふりをしてるだけの狼と赤ずきんは……絶対、幸せに生きていくことなんて、できないよ」 冷ややかな言葉だった。言われてみれば確かにそうかもしれないが、今問題なのはそこではなく――そんな『狼と赤ずきん』が、本当に甲斐とりろりの将来を暗示しているような胸騒ぎがすることだ。血が繋がっていない、本当の家族ではない、そんな二人。 この生活がずっと続くわけではないということはわかっていた。けれど、この生活がどのように終わりを迎えて、そのあとりろりや甲斐はどんな風に生きていくのか。それを具体的なビジョンとして考えたことはなかった。いつまでも、二人で暮らしていく。馬鹿な会話をしながら、日常を続けていく。心のどこかで、そう考えていた楽観的な自分に気づく。 「本当の家族には……」 なれないのか、と問いかけようとした言葉が、口の中で蒸発して消えてしまう。 どうしてこんなに憂鬱な気分になってしまったんだろう。さっきまで、馬鹿みたいな、いつもの会話を……していたはずなのに。 気づいたら、家を出なければならない時間だった。かばんを持ち、玄関へと歩いていく甲斐の後ろを、りろりがぺたぺたと足音を立ててついてくる。その足音すら、どこか悲しげに響く。いつか、そんな彼女の真実と向かい合わなければならないのだろう。本当のりろりは、どこにいるのだろう。たくさん、同じ時間を過ごして、会話を交わしてきたはずなのに、少女はとても遠い存在のように思えた。 「いってらっしゃい」 と少女は言い、甲斐はそれに何も答えることができなかった。いってきます、ということすらできず、ただ扉に手をかける。朝の光はまぶしく刺さるように降ってくる。りろりにその暴力的な光が当たらないように、甲斐は急いで扉を閉め、歩きだした。 狼と赤ずきん。彼女にとっての狼は、甲斐とりろりのどちらなのだろう。家族ごっこにつきあってあげる心優しい赤ずきんは、甲斐なのだろうか、それともりろりなのだろうか。狼は本当に、赤ずきんを食べてしまうのだろうか。腹を裂かれてしまうのだろうか。それらはいったい、何のメタファーなのか……甲斐は考えることをやめた。 彼は会社への道のりを歩きながら、ただ想像する。森の奥の小屋の中で、仲良く暮らす狼と赤ずきんの姿を。何の不安も持たず、何の秘密も持たず、ただにこにこと笑って暮らす――そんな、二人のビジョンを。 090426 かなり前からキャラクターとしては完成してた二人。 この二人がどうすれば合法的な関係になるかをひたすら一年以上悩みつづけて今に至ります(w 結局こんな導入になりましたが、果たして合法的な関係と呼べるものなのかどうかはよくわかりません。もうなんかいろんなものが麻痺しちゃったので。 |