神と巫女が番われるのは一つの運命だ。なぜだか知らないが、どれだけ避けようと、猫神に生まれたものは、最終的に巫女を恋愛対象に選んでしまう。誰が強要したわけでもないのに、狭い世界の中で自己完結しようとする。神とはかくも悲しいものなのだろうか――なんて芝居めいたセリフで誤魔化すつもりもないが、とにかく彼も、恋の相手に巫女を選んでしまった哀れな猫神の次期当主の一人なのだ。
 彼の名前は猫神正貴、正しく貴いと書いて正貴。いずれ猫神の若き当主になる彼が選んだのは、猫神の巫女――猫神琴路。彼女はその美貌と性格から、猫神総本家の「姫」と呼ばれている。総本家に使えるべき第一巫女は七ツ谷家の令嬢なので、猫神琴路は序列第二位の巫女である。
 ところで、七ツ谷と猫神では名前のもつ力に差が生じる。七ツ谷家は猫神の分家にあたり、総本家の直系に比べると巫女の異能の力も家の力も弱い。本来ならば総本家の血を引く琴路が第一巫女であるべきなのだが――いざというとき、すべての責任をかぶらなければならない「第一巫女」に総本家の人間を使うと面倒になるであろう、という事情から琴路は「二番目」に甘んじている。巫女としての能力はもちろん、本家の血をひいた琴路の方が上だ。第一巫女、七ツ谷日苗乃は……いわばスケープゴートのようなもの。お飾りの巫女だ。
 猫神の家で何か騒動が起き、それが世に知れてしまう――というような事態が起これば、彼女を差し出せばいいだけの話。七ツ谷の名前にすべてを押し付けて、猫神の家は守られる。
 胸糞の悪い話だが……そんなものなのだ、世界なんて。
 正貴にとっては七ツ谷のことなんて、どうでもいいことだ。正貴が愛するのはただ一人、猫神琴路という金髪の少女だけだ。信者も、家も、名声も――自分が「猫神」の家に生まれたから、というだけの理由でついてきた付属物にすぎない。
 琴路と正貴は異母兄妹だ。家の中での恋愛は猫神の家ではよくあることで、二人に反対する者は今のところいない。
――ただ、ひとつだけ大きな弊害がある。
 猫神琴路は――巫女であるがゆえに、ある不便さを負ってしまっている。万物を見通すという大きすぎる超能力をその小さな体に課したがゆえに、彼女は精神にダメージを負った。
 端的に言ってしまえば――猫神琴路は、二人いる。
 物理的な意味ではなく。
 一つの体の中に、精神が二つある、という意味だ。

「うふふ、あははぁ」と、正貴の前で瞳孔を開いたまま微笑する女は、二人目だ。「姫」と呼称されているのもこちらの琴路である。
 二人目、と称してはみたが、どちらが一人目でどちらが二人目なのかは、正貴にもわからない。どちらが主人格なのか、不明なのだ。記憶や感情を共有しているのかも不明。本物の琴路はどこにいるのか、誰にも見えない。別人であることは明らかなのだが。
 ひとつだけ言えることは――正貴の愛している琴路は、この「姫」だということだ。もう片方の「コトミ」は違う。どうしようもなく違う。不要だ、と言い換えても構わない。正貴が欲しいのはあくまでこちら側の琴路であって、もう片方の人格なんて消えてなくなればいいとすら思っている。
 まっすぐに切りそろえられた前髪を揺らして、猫神琴路はサディスティックに口を裂いて笑う。その笑顔に、正貴は胸を高鳴らせた。
「今日も麗しい、姫」
口づけようとその白い手を取ってはみるものの、乱暴に振り払われた。
「久しぶりに会ったからって、ちょっと図に乗りすぎなんじゃなくって?」
上品な口調。舐めるように、その紫の目が正貴を一瞥した。
「……これは失礼を。まずは挨拶から入るべきだったかな」
「挨拶とかそういう問題じゃない。わたしはこちら側になかなか出てこられなくって機嫌が超絶悪いの。もう最ッ悪なの。できそこないの自我が予想以上に強くって、わたしが消されちゃいそうな勢いだしィ?」
できそこない、というのはもう一人の「コトミ」のことだ。
 無口で無感動な――本物の第二巫女。
 巫女としての能力は、すべて「コトミ」が持っている。すべてを見通す千里眼と、その能力に制限をかけるための、あるペナルティ。「姫」と呼ばれるこの女は、その両方をまったく持たない。猫神総本家にしてみれば「姫」の方ができそこないなのだが――正貴が彼女を寵愛し始めてから、そのことは猫神の家では触れてはならないタブーとなった。
 あるいは、この人格が生まれたのは、異能の力から解放されたいと願う、どちらでもない「猫神琴路」の心の底からの願いに起因するのかもしれない。
「それは、厄介だね」
正貴は彼女のいら立ちに共鳴するかのように、同意した。あんなやつ、いなくなってしまえばいいのに。言外にそんな本音を匂わせて。
「厄介中の厄介ね。そのうち、わたしは消えてなくなってしまうのかも」
琴路はすたすたと歩み寄って、椅子に座る正貴の鼻先にその顔を近づけた。
「……消えてなくなる前に、あなたといいことがしたいわ」
ふわりと、香水が香った。少女は噛むように乱暴に、口づける。そのまま舌をからませ、ぎゅっと正貴を引き寄せて、長いキスをした。琴路のキスは、彼の意識を霞ませてしまいそうに官能的だ。
「……姫君となら、いくらでも」
唇が離れてから、正貴はそう告げた。
「うふふ、それでこそあなたね。今日も痛く痛くしてあげる――」
彼女が取り出したのは、小さなナイフだ。果物の皮をむくためでも、人を刺し殺すためでもなく――ただ、正貴と彼女が"遊ぶ"ためだけに存在する、刃物。
 そう、彼女の「いいこと」は、普通の性的交渉ではない。さっきのキスはただのカップルの真似ごとで、儀式みたいなものだ。
 本当の「いいこと」は――まだ始まっていない。
「今日は、どこを切ってほしい?」
肩を抱きよせ、指を這わせる代わりに、ナイフで首筋をなぞる――焦らすようなその動きだけで、幸せすぎて狂ってしまいそうな気がする。直接に触れられるよりも直接的で、どんなキスよりも官能的。目を合わせるだけで、意識の中枢が破壊される。酔ってしまいそうだ。そんな自分が異常だということは、とっくの昔に知っていた。
 異常でも構わない――自分は神だ。神の家に生まれ、血を引き継いだ正統の神なのだから、人間としての「普通さ」なんて不要だ。
 正貴は動かずに、ただ待つ。少女の遊びが始まるのを。
「ああ、あなたのその表情……とっても最高ね。めちゃくちゃに、」
言葉の途中でナイフが彼の首筋を浅く切り。
「――してあげたくなるわ。」
何事もなかったかのように、琴路は言葉を継いだ。
 痺れるような痛覚が襲ってくる。けれど、正貴の神経はそれを痛覚として受け取っていない。否、痛覚は痛覚なのだが――彼女の与える痛みは、特別なのだ。
「…………は、ぁっ」
声が漏れる。息が上がっていることにようやく気付く。みっともないな、と自分でも思った。
「もうそんな声出しちゃって。まだちょっとしかしてないよ? 風穴もあいてないのに――そんなんじゃ、最後まで持たないんじゃない?」
くすくすと少女が笑う。じゃれるようにナイフを滑らせて、彼の鎖骨と鎖骨の間に十字傷をつけながら。
「だっ、て――姫と会うのが、とても久々、で」
とぎれとぎれに発音する言葉は、言い終わる前に情けなくなるくらいに弱弱しく、響いた。
「久々だと、そんなに弱気で受け身でヘタレちゃうんだ。次期当主のくせに、ナイフ突きつけられて興奮しちゃって。いつものことだけど、超絶笑えるぅ。盗撮してネットに流してやりたいくらい」
「それは、勘弁してほしい……かも」
「そんな顔でお願いしなくても、カメラは回ってないから安心していいのよ? だって、」
ザクリ、と景気のいい音とともに腹を裂きながら、彼女はよく通る声で宣告した。
「……妹に刺されてよがっちゃう変態のアニウエは、わたしだけのもの、だから」
誰にも見せてなんかあげない――そう、あのできそこないにも。
 返り血を顔に浴びて笑う琴路は、魔女のように美しい。その血が自分の腹から流れ出たものだと思うと、胸が躍る。少女のくれるこの痛みこそ、彼にとって至上の快楽だ。他のものなんて何も要らない、と思えるくらいに。ぞくぞくする。
 背筋が凍るように嬉しく。吐きそうなくらいに、気持ちがいい。
 小さな手が、裂いた腹から内臓をひっぱりだす。実兄の腸を指にからめる少女も、正貴と同じく純粋に嬉しそうだった。
「……あは。いい感じに顔色が青くなってきたぁ」
「…………っと」
彼が何と言ったのか、彼女に聞こえていないはずはなかった。だが魔女は聞こえなかったふりをして問い返す。
「マサキ、何か言った?」
身を震わせて、恍惚に揺れる自らの視線をぎゅっと絞り。彼は消え入りそうな声で言った。
「……もっと、欲しいんだ。姫」
琴路は一瞬、驚いたように真顔になった。
「今日のマサキはちょっと気持ち悪いかも。ストレートなおねだりなんて、高貴でかっこよくて時代遅れな当主様のすることかしら? ――意地汚いし、かっこ悪くない? でっもー」
ふふん、と鼻歌交じりに少女は脇腹に差したナイフを一旦抜いた。少量、血が噴き出す。
「…………っ」
「そんな余裕のないマサキが、寒気がするくらいに好きよ」
また焦らすようにナイフが皮膚の上をゆっくりと滑り、彼の心を煽った。好き、という単語も彼の感情を揺らすには効果的で。彼女はいつだって、そんな正貴のすべてを見透かしていた。
「ひっ……」
体への大きな衝撃と共に出た声が、今日の正貴の断末魔となった。その瞬間が、彼の快楽の頂点でもあったけれど――彼がそれを自覚することはない。
 深く深く心臓に刺さったナイフ。満足げに微笑みながら、また儀式のキスをする琴路の姿がうっすら見えた。くるくるとコインのように何度も反転しながら落ちる意識の中で、最後に意識したのは自分の血の味。琴路の浴びた返り血が、彼女の口に付着していたらしい。
 ――また、会えるといいね。姫。
 その言葉を実際に口にできたのかどうか、正貴にはわからなかった。
 失血して崩れ落ちる彼の体を、金髪の少女が受け止め――
「…………」
少女はいつのまにか、笑うのをやめていた。
 笑うことだけではなく、話すことも、ナイフを操ることもない。
 まるで――別人。
「………………ぁ」
気圧されるように一歩、背後に下がる。派手な音を立てて、男の体が床に崩れた。
 それまでの堂々とした狂気的な振る舞いとは違う、極めてありふれた普通の少女の姿がそこにあった。恐怖に見開かれた双眸は、長髪の男の死骸をしっかりと見据える。ふるふると首を横に振りながら、もう一度後ずさる。死体にしか見えないものに背を向けて――少女は走り出した。

 コトミは走り出しながら必死に思考していた。
 どうして。どうしてまた、あいつと一緒に――
 いつも、そうなのだ。意識が飛んで、気づいたら長髪の男が自分にもたれて倒れている。血まみれで、ナイフを突き立てられて。傷だらけで。しかも満足げに笑いながら。部屋にはコトミしかいない。誰がやったのかは――考えるまでもなかった。
 死んでいるのだと思う。動かないし、どう見たって血が流れすぎている。本来の少女なら、そんなことは考えなくても「わかる」はずなのに、なぜかあの男のことは何もわからない。何かに邪魔をされているように。
「コトミ……?」
どこをどう走ったのだかわからない。ただ必死に走りつづけて――自分の部屋のドアを開くとようやく、自分と同じ姿をした少女が見えた。鏡ではない。彼女はコトミの双子の妹――リラ、だ。リラ、というのは古代ギリシアの弦楽器の名前で、「琴路」の「琴」と揃いでつけられたという。その名前は、普通でない「巫女」のコトミと、「普通」のリラが、一緒に生まれてきて、そして一緒に生きるという証だった。すべてを敵に回しても、彼女だけはきっと、自分のそばにいてくれる。少なくともコトミはそう信じている。
「ああ、またなの……コトミ」
血まみれのコトミを見て、金髪の少女は痛ましそうに眉を寄せた。
 それ以上は何も言わない。リラがあの男について知っているのかどうかも、コトミにはわからない。他のことなら何だってわかるのに、一番知りたいことだけがどうしても見えない。思考が曇って見えなくなる。尋ねようと口を開くことすらできない。見えない何かが邪魔をする。
「とりあえず、禊ぎに行きましょうか。血を、洗い落とさないと」
震える声でそう告げるリラの気遣いだけが、救いだと思った。彼女の手のぬくもりが、今は世界のすべてだ。男の体の重みも、返り血のぬるさも、気持ちが悪いくらいに穏やかなあの表情も――全部、忘れてしまいたかった。
 助けてほしいと、その一言を言うことすら許されない自分を呪った。
 リラの手を握り返すと、少しだけ元気が出るような気がする。彼女がいなかったら、もうとっくに心が死んでいるだろう。いや、もしかしたらすでに死んでしまったのかもしれない。屍のままで、何かに操られながら生きていて――こうして怯えている今も、自分はただの夢遊病患者なのかもしれない。
 おぞましい思念を振り払って、コトミはリラと共に禊ぎの滝へと歩いていく。
 そのとき。『マサキ』――と、せつなげな誰かの声が聞こえたような気がした。心が凍えるような、少女の呼びかけ。聞き覚えのある声だと思ったけれど、聞こえないふりをして……コトミはただ妹の名前を呼んだ。