チャプチャプと赤い水たまりを弄びながら、少女が横たわっている。退屈そうにため息を漏らしつつ、
「あーあー、マサキ、まだ起きてるぅ?」
「……起きてますよ、姫」
水たまりの中央でうつ伏せに倒れた彼はそう答えた。答えると同時にヒュー、ヒュー、と風の通る音がたつのは、彼ののどに穴があいているからだ。のどだけではなく、今の正貴の体には無数の傷や穴があいていた。数分前まではなかったもの――すべて、少女がやった。少女と会うのは初めてだったはずなのに、どうしてこんなことになっているのだろう。ぼんやりとした意識の中で、そう考える。
「わたしに何も言わなくていいの?」
「……何と、言ってほしい?」
「痛い、とか。やめてくれ、とか……うーん、それからそれから……わかんないけど、とりあえずそんなかんじ」
「じゃあ……こう言おうかな。『痛いけど、やめないでくれ』」
少女は不思議そうに首を傾げて、
「なんで。マサキは、痛いのが気持ちいい人?」
「たぶん違うけど、なんでだろう……君になら心臓をくりぬかれても、許せる気がするんだ」
少女は特に興味がなさそうだった。
「そう。じゃあ、死なない程度にもうちょっとだけ、切り裂いてもいいかなぁ」
うきうきとした口調。手には、ナイフが光っている。
「どうぞ、ご自由に」
「そんな風に受け入れられたの初めてだから、」
サク、と軽く腹筋を刻んで、
「ちょっと戸惑うっていうかぁ、」
そのままナイフを上に押し上げて肉を裂く。
「……っ!」
痛みに顔をしかめる正貴に、少女は独り言のように語りかける。
「ぶっちゃけ、変な感じ。普通の人は、やめてくださいお願いします、命だけはぁ、とかやたらめったらうるさくて、黙らせるためにまず舌を切ったりしなきゃいけなかったけど、マサキにはそんなことしなくていいからとっても楽。舌って、切り取ってもしばらくピチピチ動いてキモいのよ、ほんと」
ぞっとするようなことを、あっさりと言う。
「抵抗しないように足とかの腱切るのもわりとめんどくさいなー。だから、縛らなくても腱切らなくても抵抗しないマサキは、かなり希少種?」
ていうかやっぱりマゾなんじゃないのぉ?――彼女の言葉を否定も肯定もせず、彼は少し首を動かした。首の傷口の広がる感覚。
 少女と出会った数分前を思い出す。彼女は明らかに正常でない目つきをしていた。それ自体はこの家では珍しくない。だが、巫女である彼女が神である正貴に最初に言った言葉は……意外だった。論外だった、と言い換えても構わない。
『……はじめまして、マサキお兄様。神様の肉を裂いたら――どんな気持ちになるかしら』
ナイフを取り出して少女はくふふ、と笑った。
 その瞬間、この子だ、と思った。
 自分と番われるべき女はこの猫神琴路だ、と。
 だから『やってみればいい。存分に』と尊大な答えを返した。神らしく。できるだけ、彼女にいいところを見せてやりたくて。
 肉を裂かれて内臓を引っ張り出されて、失血して失血して失血して、指先すら冷たく固まって動かない。そんな状態になってもなお。自分は彼女に「かっこいい神様」として見てもらいたかった。
 だから全部我慢した。痛くても、目眩がしても吐き気がしても。
「マサキー。そろそろ限界かなっ? 意識飛んじゃいそうな顔してる」
意識を飛ばそうとしているのは君の方じゃないか。人の血で作った血だまりで水遊びをする女の目は、無邪気で狂っていた。
 そんな少女に何か返答しようとしたが、もう言葉すら話せない。唇が凍えて、動かない。
「……ぁ、」
それでも、どうしても今。彼女に伝えたかった、たった一言――
「こと、み――きみ、を」
巫女としてではなく。妹としてでもなく。
 ただ、一人の女として。

「     」

彼はその言葉を言うことができたのだろうか。
 後日、琴路に尋ねてみたけれどもはぐらかされた。だからわからない。言えていたらいいな、とも思うし、人事不省状態でそんなことを言う自分は男として情けない、とも思う。

 少女はけたけたと愉快そうに高笑いをしたあと、死んだように眠る男の顔をそっと撫でた。ナイフではなく、自らの指で。彼女がその指で生きた他人に触れるのは、もしかしたら初めてだったかもしれない。内臓でも肉片でもなく、温かく呼吸をする他人。
「ねえ、マサキ。あなたが、こんなになってもわたしを憎まないでいてくれる、それだけで嬉しくて、超絶に昇天しそうなの。今ならきっと空だって飛べるわ。だからわたしもあなたのことが――」
少女の言葉は、虚空に放たれた。
 誰にも受け止められずに、空を漂うためだけに。その言葉は紡がれ、消える。

「狂いそうなくらいに、大好きなの」