琴路と会った後は、しばらく本家の集中治療室に寝かされることになっている。 神であるからといって不死身であるわけではない。放っておかれれば失血で死ぬだろう。 だが、信者たちは彼を放ってはおかない。見殺しにしようともしない。 彼を人として愛しているからではなく――信者だからだ。 信者は神を妄信する。どんなに気に入らなくても――神とは、彼らにとって最も大切な何かなのだ。 だから守る。守ることでしか自分たちの世界が保てないから、守る。 そうして今日も――吐き気がしそうな薬品の香りの中で、正貴は眠っている。 気持ちが悪い、と思う。神だから守られる、神だから守る。そんな理屈はもう、うんざりだ。 そんな気味の悪い理屈につきあうのは嫌だ。本能に忠実な琴路の方がよっぽど人間らし いではないか。 たとえ、人を切り刻むことでしか自我を保てない、どうしようもない女だとしても。 神に寄りかかることでしか生きられない人間よりは、ましだ。 「………………」 目を開けると、金髪の少女が正貴を覗き込んでいた。 「…………ひ、め?」 彼女が会いに来てくれたのかと、一瞬心が躍った。 「………………」 しかし、少女は何も言わない。その無表情な顔を見て、ようやく悟る。 「ああ、『コトミ』か……」 がっかりしなかったといえば嘘になる。だから正貴はこう言った。 「何の用だ。ぼくは君には用がない」 正貴が会いたいのは、この少女じゃない。 少女の向こう側の――美しく麗しく、狂おしい彼女。 「…………、」 コトミが何かを言いかけるのを、正貴は遮った。 「ちょっと待て。やっぱり喋るな。君の言葉は聞きたくないのでね」 嫌いだから、ではない。 気に入らないから、でもない。 消えてほしいからでも、ない。 理由は、たった一つ。 「――嘘つき巫女。神の前ですら嘘をつく君は、まったくもって不敬だ」 そう――コトミは嘘つきだから。 嘘をつくことしかできない、巫女。 猫神琴路が、その精神に負った第二のペナルティ―― すべてを見通せるかわりに、本当の気持ちを口にすることができない……それがコトミという少女のすべてだった。何を口に出しても、すべて嘘になる。だから彼女はいつも、あえて何も話さない。話しても無駄だからだ。 「ぼくは君が嫌いだ。この教団には胸糞悪いやつがたくさんいる。みんなまとめて刺し殺して、解体したくなるくらい。でも、その中でも君が一番嫌いなんだ」 コトミの瞳は揺らがない。 「さっさとどこかへ行ってしまえ。君さえいなければ……」 こいつさえいなければ。毎日のように考える呪詛の言葉。 この女さえ消えてなくなれば。自分と琴路はずっと一緒にいられるのに。 傷が痛むのを感じながら、声を吐き出す。呪詛をまき散らすように。 「君さえいなければ、姫はぼくと一緒にいられるのに」 姫を精神の檻に封じ込める少女が憎かった。 姫と自分の間に入って邪魔をする、この巫女が憎い。 どうしてこんなやつがここにいる。 どうして邪魔をする。 殺してやりたい。 しかし殺せない。 殺してしまったら――同じ肉体の中にいる姫まで死んでしまう。 「わたしは、生きていたい」 少女は言った。それは嘘だ。少女は生きていたくなんかないのだ。消えてなくなりたいのだ。しかしそれはできない。彼女は巫女で、彼女の中には神が愛する女がいるから。 「……消えろ」 不愉快だった。コトミの存在なんて、誰も望んでいない。彼女はどんなに祈っても消えてはなくならないけれど、たとえ消えてなくなったとしても、だれも悼まない。彼女自身も生きていたくなんかないという。 「いつか絶対にお前を消して、姫を救い出す」 ガラス越しにそう宣告する。正貴の声は部屋の中に反響した。少女は無表情なまま、走って部屋を出ていった。 また眠ってしまったらしい。この部屋にいる間は、ほとんどの時間を寝たまま過ごす。起きていたってやることがないし、何より眠らなければ傷は回復しないからだ。傷が回復しなくては、姫と会うことができない。 姫に切り刻まれることが――できない。 「……正貴様」 誰かの声がした。扉を開けて入って来たのは―― 「七ツ谷のババアか」 総本家に使える猫神の分家の女、七ツ谷久乃だった。今の巫女、日苗乃の母親でもある。 「何の用だ。ぼくは今、とても眠い」 「存じております。ですが、一言申しておきたくて」 「……何を、だ」 七ツ谷久乃は堂々としていた。 「……琴路様のことです」 「どっちの琴路だ」 「両方です」 久乃の表情は読めない。 「コトミ様に消えろとおっしゃいましたね」 叩きつけるように、糾弾するように――女は言う。 「それは間違っております。姫様を寵愛したいのなら、コトミ様も受け入れなければならないこと――あなたはもうわかっているのではないですか。片方だけ得ようなんて、傲慢だと思いませぬか」 「……お前に何がわかる」 わかってたまるものか、と正貴は思う。 いらない女と、愛した相手が同じ肉体を共有している、このやるせなさ。自分以外の誰にわかるというのだろう。 「わたしには……いや、わたくしたち七ツ谷には、あなたのお気持ちはわかりませんね」 久乃の口調は冷たい。 「巫女の力を継承した嘘つき娘と、継承していない殺人鬼。われら猫神にとって、本当に必要なのはどちらですか……姫君の殺した罪なき信者の数はもう数百になる。世間に隠し通すのも難しいのですよ」 「コトミの方が必要だというのか。人殺しの姫は、いらないというのか」 それこそ教団の勝手だ。しかし、欲望のままに人を殺す姫が間違っているのは事実だった。嘘をつくのは罪ではないが、人を殺すのはこの国では罪なのだ。 正貴が彼女に切り裂かれて内臓を引きずり出されるのは、彼女がそう望むから、という以前に……少女の罪を、正貴自身の痛みで償いたかったからでもある。そんな些細な贖罪の気持ちなど、こいつらにはわかるまい。 少女の大きすぎる罪を、正貴は肩代わりしてやりたかったのだ。そのためなら死んだって構わない。彼女に殺されるのなら、死んでもいい。 「ぼくは姫を愛している。もう一人のコトミなんて関係なく。他の誰でもない『姫』が、神の選んだ女であることを忘れるな。おまえたちのせいで姫が消滅するようなことになったら……」 正貴は叫んだ。心の底から。傷口が全部開いても、血が吹き出しても――これだけは言っておかなければならないと思った。 「全員、ぼくがこの手で殺してやる」 「……了承いたしました。七ツ谷の全員に伝えておきますゆえ」 音を立てずに久乃が出ていく。一人きりの部屋はひどく広い。広すぎて、死にたくなるくらいに。彼女に会いたいと、そのとき正貴は思った。少女に触れてもらいたい。正貴以外何もいらないと言ってもらいたい。自分を神としてではなく、たった一人の「正貴」として愛してくれるのは、姫だけだ。姫を愛してやれるのも、正貴だけだ。 猫神という名の檻の中で、少女を枷から解き放ってやれるのは自分だ。自分だけ、なのだ。 いつか、絶対に自由にしてみせるから。 それまで、檻の中で待っていてほしい。 七ツ谷家の者たちが、巫女である日苗乃を残して全員惨殺されたのは、それから一か月後、雪の降る冬の日のことだった。 下手人はいまだに捕まらない。教団ではよくあることだった。 そして、正貴にとってはどうでもいいことだ。 姫を手に入れる――彼が考えていたのはそれだけだった。 ずっとずっと以前から、それだけ、だった。 090124 |