眼球はやめてくれ、と言った。
 少し休養すればふさがる傷だが、視界が真っ暗になることは怖かった。臆病かもしれない。彼女に言ったら馬鹿にされてしまう、と思った。
「えー、わたしは眼球潰すのわりと好きなんだけどなあ」
と、やはり琴路は残念そうだった。
「他の部分ならどこだって切ってくれていい。しかし、姫の顔が見れなくなるのは嫌だ」
だから勘弁してくれ、と。彼はばつが悪そうに言った。
「じゃあ、片方ならいい?」
気軽に、実に気軽に。これくらいの妥協ならかまわないだろう、と言いたげに。琴路は言った。
「……いいよ、って言ってもらいたいかい、姫」
「うん」
「……仕方ない。片方だけ。それでかまわないよ」
正貴は嫌々了承した。少女は嬉しげに笑う。
「マサキは優しいね。心が海みたいに広いの」
「……馬鹿にしてるのか?」
「してない。ただ、幸せだと思うだけよ。大好きな人の眼球を、何度でも潰せることが」
ふふ、と少女は堪えられない風に笑みを漏らす。
「わたしはあなたが好き。どれくらい好きか、あなたにはわからないでしょうね。眼球を潰すのを我慢できないくらいに……好きなのよ」
「ぼくだって君が好きだ。意識がなくなるまで切り刻まれても、許せるくらいに好きなんだ」
なんだか滑稽な風景だった。二人とも必死なのに、喜劇みたいだ。耐えられずに先に吹き出したのは、正貴だ。
「ふふ……こういうことを言い合っていると、恋人ごっこをしているみたいだ」
ぼくらには似合わない、と正貴は言った。
「……前座はおしまいにしよう」
正貴の手が、誘うように少女を指す。
「さあ、始めてくれ」
彼の言葉によって始まり、そして彼の意識が果てるまで続くーー二人の短すぎる逢瀬。
 その時間は永遠には続かない。しかしだからこそ意味があるのだ。もしかしたら、彼は痛みで愛を見失ってしまうかもしれないから。絶対にそうならないという自信はなかった。逃げ出してしまうかもしれない。その重みに耐えきれないで、一人だけ逃げてしまわないと、自分に誓いたかったがそれはできなくて。だから逢瀬の時間は戦いの時間でもあった。痛みを避けようとする、彼女から逃げようとする、弱い自分との戦いだ。


 まず左目を潰した。一瞬も迷うことなく、彼女は彼の視界の半分を奪った。
「ぐっ……」
「いい顔。最ッ高」
彼女のナイフは首筋を縦に引き裂いた。間髪おかず、胸元にもナイフを走らせる。浅めの傷は、痛みよりも恍惚の感覚を彼に与える。
「ひっ……めぇ……」
「おねだりならもっと上手にやりなさい。もっと気高く。あなたらしく」
「姫、ひめ、ひ、めえ」
壊れた機械のように、繰り返し少女の名を呼んだ。眼球を潰されたというだけなのに……今日の自分はいつもよりもひどく弱くて頼りない生き物になってしまった。そんな気がする。
 左目の映し出す視界は赤黒く、右目に映る少女の姿もまた赤黒い。なんだ、眼球一つ潰されたって、世界はそんなに変わらないじゃないか。……というのはもちろん、強がりだ。
「姫が、真っ赤だ」
「そりゃそうでしょうね」
「美しい」
「ありがと」
「……姫」
「なあに?」
「姫」
「だから、なあに?」
「……手を、握っていてくれないか」
ぱちぱちと、ツチノコでも見たような顔でまばたきを数回。呆れたようにため息をつきつつ、琴路は正貴の手に触れた。
「……マサキの手、震えてる」
「情けないけど――ちょっとだけ怖いんだ」
正直な気持ちを言ってしまった。彼女は離れていくかもしれない。それだけは嫌だけれど、嘘をつくのも嫌だった。
「知ってる。マサキは本当に痛いのが怖いってこと、わたしはちゃんと知ってるよ」
形を失った左目が疼く。液体と固体がない交ぜになって、目から赤いものが滴り落ちる。
「でも、それでも痛みを求めてくれてる。わたしのために。……それも、知ってるの」
「……うん」
「眼球はやだ、って言ったのに聞き入れてあげなかったわたしに、ぜんぜん怒らないマサキは、やっぱり優しいんだと思う」
「優しいんじゃない。ただ、怖いだけだ」
 眼球を潰されるのも怖いけれど。
 姫に失望されるのはもっと怖くて。
 不要になって捨てられてしまうよりは、眼球一つなんて、安いものだ。そういう結論に達した。
「それでいい。わたしも怖いんだよ。やりすぎちゃってマサキが死んじゃったらどうしよー、とか。できそこないに自分を消されちゃったらどうしよー、とか」
そんな風に怖がっている自分は、きっと人間でいられるんだと思う。
彼女はそういってにっこり笑った。
「君は人間だよ」
「マサキだって、人間だよ」
「……ぼくは、神様だよ」
姫は、寂しそうに目を細めてから、励ますように笑ってくれた。
「でも、人間らしい、神様だよ」
ぎゅっと握られた手を握り返しながら――人間になれたらいいな、と心にもないことを考えた。
「さて、続きをどうぞ、姫」
「うん、もう少しだけ……我慢しててね。手は、離さないでおくから」
その言葉に、どれだけ救われただろう。
 与えられる痛みと、繋がれた手。
 ふと、それが彼と世界をつなぐ唯一のものであるような気がした。

――この手を離したら、自分はもう人間とはつながっていられないのかもしれない。

090217