正気、なんてものはすでに持っていない。
 むしろ自分は最初から狂っていたのかもしれない。正気や狂気なんてものは人間の物差しで測られた基準にすぎず、神たる猫神正貴にはそもそも関係のないものなのだ。だから、きっとそんなことは考えなくてもいい。自分は自分であればいい。神である自己だけ、ぶれずにそこにあれば生きていてもいいはずだ。どんなに狂った精神を抱えていたとしても。
 正貴はゆっくりと記憶をたどる。まだ、正貴を神としてではなく人として愛してくれる「その人」が生きていた頃へと――思いを、馳せる。


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「嫌だ」
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ、とひたすらに繰り返し、彼は自らの、指のなくなったこぶしを眺めた。ぐちゃぐちゃの断面から粘液のように流れ落ちる血液は、ひどく現実から遠いものに思える。
「これくらいでそんなに真っ青になっていては、この先正気を保っていることはできないよ」
目の前に立つ男は言った。言いながら、今度は正貴の右足に鉈を振りおろす。一度では切断しきれなかったらしく、数回鈍い音が響いた。つぶされた蛙のように呻く正貴を見下ろす男は、にこにこと聖人のように笑っていた。彼は楽しいのだ。心から、この茶番を愛している。
「蹂躙されてなお、美しく気高くあれ。それが神たる君の役目だからだ」
男は呪文のようにそう唱え、また軽く笑った。
「痛い、痛いよ……にい、さ」
正貴は男に手を伸ばそうとした。しかし自分の手に指がないという事実に絶望して、すぐに手をおろした。もしも指が残っていたとしても、目の前にいる男……自分の兄である猫神礼貴は救いの手を差し伸べたりはしないだろう。「貴」き「礼」を尽くすという名をつけられた彼は、今まさに神に対する礼を尽くしている最中なのだ。
 兄は神にはなれなかった。弟である正貴は生まれたときから神として顕現した。正貴という次世代を担う神が生まれたとき、兄には教団から新たな役割が与えられた。
 神が神として生きていくために、必要なことをすべて教え込むための教育係。
 今行われているこの行為すらも、兄にとっては正しき神の存在のための教育でしかない。彼は悪いなんてこれっぽっちも思っていない。彼だけではなく、ここにいる信者も、正貴自身すらも――これが悪いことだとは思わない。ただ、正貴にとっては痛くてつらくて狂いそうだ、というだけ。
「弱音は禁止だ。そんな人間らしいことは神にふさわしくないよ」
金属の触れあう音がする。兄が凶器を持ちかえている音だ。
「ひっ……」
「そんな声で泣くのも禁止。常に凛として美しく」
「無理だ、よ……にい、さ、ぼく、は」
ざしゅ、と音が聞こえた。すでに痛覚を痛覚と認識する回路が狂っているのか、痛みは遅れてやってきた。今度は腹を包丁で裂かれたらしい。中心から脇腹にかけて、ざっくりと。
「『ぼく』じゃない。『わたし』だろう?」
「ひいいいい、あ、ああああああっ」
体の中から何かを引きずり出されるような感覚。痛みよりも、痛烈な違和感が体を襲った。首をそちらへ向けると、兄の手が自分の臓物を掴んで引っ張り出しているのが見える。
 急に怖くなる。彼はどこまでこの暴力を振るいつづけるのだろう。この虐待はどこまで続いて、そしてその後自分の体は――どうなってしまうのだろう。
「死んじゃうよ……壊れちゃうよお、兄さんっ……」
「大丈夫」
と、兄はあくまで柔らかに笑った。おそらく彼にとって、これは暴力でも虐待でもない。ましてや殺人でもない。ただの――教育。神を神として敬うための、神を神として育て上げるための。
 猫神礼貴。神たる猫神の家に生まれた彼は……あくまでも、最上級の優しさと忠義を持って、凶器を手にしているのだ。完全な「正気」をもって。
「正貴……勘違いはいけないな。君は死んだりしない。壊れたりもしない。『ネコガミ』はこの程度のことでどうにかなる存在ではない。なにせ、君は」
くすくすという上品な笑いが、だんだんタガがはずれそうな大笑いになっていく。苦しげに息継ぎをしながら、彼は言った。
「――ぼくらの神様なんだからな。首を切り落としたって、そう簡単に死にはしないさ」
目の前が真っ暗になりそうだった。首を切り落としても、死なない……この兄が言うのだから、おそらく本当だろう。そして、その事実を認識した瞬間、恐怖が沸き起こる。この暴力は、首を切り落としても終わらない。終わることはない。もしかしたら永遠に――?
「なんで、どうしてこんなことするの……ねえ、兄さん、やめよう、よ」
「やめない。これは必要なことだから」
「ひつよ、う?」
兄は内臓をいじる手をとめた。
「正貴。神は天上におわすからこそ安全でいられる。逆にいえば、そうでなければ危険なんだ。神を信じる者たちは、神に焦がれるあまり、目の前に神が存在しているとめちゃくちゃにしてしまいたくなってしまうことがあるのさ。この世界のすべてを統べる存在を、自分の思い通りに暴虐する、そんな歪んだ快感を求める欲望。それを、すべての信者たちは生まれながらに持っている」
兄はそこで息を継ぎ、正貴の足の傷口をさっと撫でた。
「それは正貴以前の『ネコガミ』たちも同じことだ。みんなみんな、例外なく、神は暴虐され続けてきた。ある神は走る電車の上から地面に押し付けられ、体を容赦なく削られた。ある神は縛りあげられ、硫酸の液の中に体をつけられた。またある神は喘ぎ声すら出なくなるまで輪姦された。君もこれから、そういう運命に身をゆだねなければならない」
落ち着いた口調。兄はあくまでも穏やかで優しい兄のままで――だからこそ、語られた内容の異常さに正貴は震えた。何も言えなくなった。
「だから、こうして痛みを徐々に与えて、耐性をつけなくては。いきなりショッキングな虐待を受けたら、君は狂ってしまうかもしれないからね。つまり、これは必要なことなんだ。幼児がおはじきで算数を覚えるように、たどたどしい声で言葉を習うように、君は痛みを覚えなければならない。あらゆる痛みを体に受け、それでも狂ってしまわないように。人のうつわの中に神を宿すためには、それくらいの代償は必要不可欠ってものだろう?」
「うそだ、そんなの」
正貴は絶望したまま、そうつぶやいた。兄の言葉が真実であることくらいわかっていた。この教団で、信者たちが正貴を見る視線の中に、盲目的崇拝以外の感情がたくさん混じっていて、その中には異常な欲望も含まれているということを――正貴はずっと昔から感じていた。ただ、信じたくなかっただけだ。
 呆然としている正貴に、兄の手が触れた。その手は、今度は凶器を持つことはなく、傷口をなぞることも内臓を引きずり出すこともなく、ただ正貴の頭をなでた。温かかった。血に濡れた手だったけれど、その温かさは本物だった。
「だが、安心していい。おまえが理不尽な暴力にさらされることのないように、この猫神礼貴は側近として最大限の努力をする。もちろん、ぼくは万能ではないし、ただの人間だから……守りきれないこともあるかもしれない。けれど、正貴をかばって死ぬ覚悟くらいはできているから」
「兄さん……」
兄は口に手を添え、悪戯っぽく笑った。
「ぼくも教団の一員だけど、それ以前にぼくは正貴の兄だから。兄としての責任くらいは、果たさせてもらうさ」
涙が出そうになった。兄の言葉に対しての涙なのか、痛みに耐えきれずに流した涙なのか、今の正貴にはわからなかった。兄は一度正貴から離れ、部屋の隅にある小さな箪笥から何かを取り出し、また正貴のところへ戻ってきた。その間、床に広がった血液の上を兄が歩くぴちゃぴちゃという音だけが部屋に響いていた。兄は正貴の視界の隅で笑みを作る。
「今日はここまでにしよう。お疲れ様、ぼくが誇る最高の弟にして、最上のネコガミである猫神正貴」
兄の手にしたものが正貴の視界に入った。それは小さな注射器だった。少し色のついた液体が入っている。
 礼貴は迷うことなくその針を正貴の腕に突きさした。液体が正貴の血管を通して、体に染みていく。痛みが薄くなる。そして同時に、意識も薄れていく。おそらくこれは麻酔だ。しかも、かなり強力な全身麻酔。
「後始末は、全部ぼくがやっておくから。君は何も気負わなくていい。ただ、しばらくおとなしく寝ていれば、すべては元通りになる」

 兄の言葉を聞きながら、正貴の意識はゆっくりと闇の中へ沈んだ。痛みも不安もない闇の中は心地よい。いつまでも闇の中に沈んでいられたら、きっと幸せに違いない。もちろん、神たる自分自身にそんな甘えは許されず、いずれは元の世界へ戻らなくてはならない。それでも今は、何も考えずにここで眠っていたいと願う。誰にも晒すことのできない心を内側に隠し、ただ願いつづける。願うための対象である神が自分以外に存在しないことにすら思い至らない、未熟な自己を成熟した心のどこかに認識しながら。



090617

唐突に新キャラ作りたくなったので、正貴の兄登場。
地の文には書かなかったけど、正貴が中学生くらいの年の頃の話です。