ゆっくりと、手折る
めり。
擬音にするとしたらそんな感じだっただろうか。
猫神正貴は今日、生まれて初めて右腕の骨を折られた。
ボキィ、でもバキィ、でもない。骨が折れるというより、肉に骨が食い込むような感覚が顕著だった。
「やっぱり切らないと、すっとしないわ。これはこれでイイけど」
正貴の実妹である猫神琴路は、動かなくなった右腕をつつきながら笑った。「気分はどう?」
「特に変わりはな……いッ……!?」
折られた瞬間には何も感じなかったのだが、しばらくして急激なめまいが襲ってきて、正貴は顔を押さえる。
「あらあら。やっぱり慣れない損傷には弱いものね。『神』は痛みを学習して強くなる――っていうのがあなたのお兄様の教えだったっけ」
お兄様、と言われて、正貴は猫神礼貴の顔を久々に思い出す。彼が死んでから、もうどれくらい経っただろう。他人の死には慣れているものの、礼貴の死は正貴にとって特別だった。彼が死んで、誰も正貴に痛みを教えてくれなくなった。事実だけを見れば、理不尽な拷問を体に加える人間がいなくなったということで、喜ぶべきことに見えるかもしれない。しかしそうではない。礼貴は理不尽などではなく、むしろ正気だった。彼のその精神を、狂気じみた正気、と正貴は呼んでいた。彼が、愛に満ちた『痛み』を教えてくれなかったら、拷問を教えてくれなかったら――今、この場所に正貴はいないだろう。
『教団一の拷問愛好家』『神への背徳者』『神を蹂躙する愚か者』――そんな風に称される礼貴は、普通の人間だった。
普通の人間であるがゆえに、教団にはなじまなかった。
猫神礼貴は結局、そんな風にしか弟を愛するすべを知らなかったのだ、とも言える。
あるいは、正貴は他に、他人に愛してもらえる方法を知らないのかもしれない――目の前の少女を見て、正貴はそう思った。
「ああ、そうだ。そういう意味では、今ここで『骨折』を学習できて、よかったとも言えるね」
「むしろ、今までやったことなかったっていうのが意外よね。やっぱり骨折は生ぬるすぎるから、みんなやらないのかしら。トレンディじゃない、とか」
他人を痛めつける方法にトレンディも何もあるものか。と、しばらく前の正貴なら言っただろう。
しかし今では、琴路の言葉に同意すらできる。
人間を拷問するのならともかく、不死身のネコガミを痛めつけるには、骨折は優しすぎる。
「あー……失血してるわけでもないのに、めちゃくちゃくらくらする。吐きそうだ」
「あらあら、スカトロ趣味はないけど、別に吐いても怒らなくってよ」
「姫の前で吐くなんて嫌だ」
「その無駄なプライド、他のことには使えないの?」
「ぼくのプライドは姫のために存在してるんでね」
それを聞いた琴路は、黙ってナイフを手に取った。折れた右腕を縦に切開し、腱と動脈を切る。骨折のせいか、あまり痛みはなく、ただ血が多めに噴きだしただけだ。その行為の無意味さに、正貴は首をかしげる。
「姫……?」
「今なんとなくわかったんだけど、たぶん、骨折はあなたを疲弊させるには最適なの。治りが遅いし、意識は消えないし、体力だけが消費される。だからこうして、早めに失血して気を失うようにしてあげてるの。以上、琴路様の文字通り出血大サービスな親切の説明、終わり」
「気を失ったら、姫とまた会えなくなるじゃないか。別に、ちょっとくらい疲れたっていいのに」
正貴は子供のように反駁したが、琴路は呆れたような顔になる。
「あのねー、うっかりしてて殺されちゃったら終わりなのよ? そこらへん、あなたはちゃんと責任感を持った方がいい。猫神琴路が死んでも代わりはいる――いや、正貴が死んだって、たぶんどこかに代わりの神様はいるのだろうけど、今ここにいる、教団を統べる神様はあなただけなのだから」
「ぼくにとっては、姫だって一人きりだけど」
「それはどうも。そう言ってくれるあなたがいるだけで、わたしは生きていける。でも忘れないで」
琴路は、ふと真顔になって言葉を継ぐ。
「わたしが生きる理由は、あなただけなの。あなたが死んだら全部終わってしまう――それこそ、ただの、何の価値もない殺人鬼になる。わたしが人間でいるのは、『猫神正貴』が存在するからなの」
「ああ、そうだね。ぼくは、生きるよ」
軽く返答したが、その言葉は徐々に重くなって正貴を苛む。
生きる、という約束をしたのは初めてだ。
実兄である礼貴とは、そういう話は一度もしなかった。
礼貴が口を酸っぱくして主張し続けたのは、痛めつけられることに対して免疫をつけろ、ということばかりだった。生きるとか死ぬとか、そういう次元の話ではなかった。まず、生きるための前提条件として、『痛み』を植えつけられた。痛みに耐えられないと、発狂してしまうからだ。今、正貴がどんな拷問に遭っても自分を保っていられるのは、間違いなく礼貴のおかげだ。しかし、礼貴が早くに殺されたのも、彼が神体に様々な拷問を施していたことが教団内に知れたからであろう。彼が死んだのは正貴のせいでもあるのだ。
礼貴は最後まで、少なくとも正貴の前では、正貴の将来しか考えていなかった。
礼貴自身が生きたかったのか、何をしたかったのか、いつも何を考えていたのか――正貴は知らないままだ。
もしかしたら、猫神琴路は正貴にとって、礼貴の代わりなのかもしれない――唯一無二の恋愛相手で、たった一人まともに言葉を交わせる理解者で、ネコガミの運命を背負った実の妹で――でも、それ以前に、兄の代わり。兄にあげられなかったものを、自分は妹に与えている。
おそらく、琴路はすでにそのことに気づいている。
礼貴は一応、琴路の兄でもあるのだから――気付かないはずがない。
気付いたうえで、彼女は兄と同じ選択をする。
行為の意味は違うけれど、兄と同じことをする。
それが彼女の答えであるのなら――自分はそれに応えるべきだ。
正貴はそう思いつつ、左腕で琴路を抱き寄せた。
「ああ、めまいが、とても心地よい」
「それはよかった。癖にならないといいわね」
琴路の言葉が、頭蓋の中で何重にも反射して美しい響きに変貌していく。
正貴はその響きを永遠に抱いていたいと思いながら、ゆっくりと目を閉じる。意識が薄れる。
まぶたの裏側に、礼貴の、静かに微笑む表情が見えるような気がした。
101122
いい夫婦の日なので夫婦な二人を!
と思って書いてたんですが、途中から兄貴の話に。
骨折プレイは思いついた瞬間に「これしかない!激萌え!」とか思ってたんですが、別にそうでもなかった\(^o^)/
この二人の場合、指を一本ずつ折る方が向いていた気がする。
今度書くときはそうしよう。