彼が欲していたのは暴力だった
いらっしゃい。
君、見ない顔だね。この店は、この町は――初めて?
おしゃれで雰囲気があって、いいカフェだろ。僕もお気に入りなんだ。
へえ、そうなんだ。暇なら、僕の話を聞いていってよ。
聞いて損はしないさ。ありがたい神さまのお話。
神さまといっても、お賽銭は徴収しないから、安心して聞いて。
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僕と彼は不思議な関係だった。
僕らが住んでいるのはスーパーもコンビニもない田舎町で、そこには、「古本カフェ」というのがあった。本を読みながらコーヒーを楽しめるという、あれだ。今で言うところの漫画喫茶のようなものだろうか。
もっとも、置いてある本はマイナーな美術書や医学書などが大半で、普通の人間の読む本はほぼないといっていい。必然的に、お客もほとんど来ない。
というか、僕しか来ていなかった。
彼は、そのカフェの主人だという。本当にそうなのかはよくわからないし、商売が成り立っているのかどうかも不明だ。
「主人」と表現するには若すぎる風貌で、それがとても印象的だった。
本当の年齢は不明だが、十七歳ほどに見える。彼の名前は「グレイ」というらしい。日本人にはそぐわない名だが、ハーフかなにかだろうか。美しい金色の長髪はたしかに日本人離れしているものだったが、どうしてだろう、僕は彼のことを「異国の人」とは思っていなかった。
そして――恋の過程などという陳腐なものは嫌いだから省略するが、僕は彼に魅せられていた。その美しさを、自分のものにしたいと、ずっと思いながら、カフェに何年も通いつめていた。
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もうそんな関係が五年も続いた、ある日のこと。
店内はその日も静かで、僕と彼しかいなかった。
相手をするべき客が僕しかいないので、彼も読書をしていた。少し覗いてみたが、何語かすらわからない言語の羅列だった。僕も医学書を手に取り眺めていたが、たまに挟まれているグロテスクな症例の写真を眺めているだけで、内容は読んでいなかった。文字ばかりのページを眺めていて眠くなったので、僕はコーヒーに手を伸ばそうかと思った――そのとき。
「つ、っ……」
艶のある声を聞いて顔を上げると、彼が顔をしかめていた。
読書をしていた彼の手から、赤い血液が少量、滴る。
僕の中で何かが蠢いた。
「手、切っちゃった」
と彼は無垢に笑ったが、そんな常識的な会話ができる理性は残っていなかった。紙で切ったにしてはずいぶん血が多く出ていると思った。昔、だれかが、紙の切れ味の鋭さを侮ってはいけないと言っていたのを思い出す。
ぽたぽたと、まだ血が滴っていた。かなり深そうだ、と思うと背筋がぞくぞくと粟立つ。
彼の細く白い手に、いつも触れたいと思っていた。
それが性欲だったのかどうか、思い出せない。
手に触れて、その後で何をしようというのか。
キスをする?
指の骨を折る?
……それとも、何もしない?
ノーマルな選択肢とアブノーマルな選択肢が同時に点灯して、僕を惑わせる。
「ちょっと、消毒する道具を取ってくるから――」
彼が困ったようにそう言い、立ち上がった瞬間。それが何かの合図だったのかのように、僕は自分が鬼か狂人になったかのように錯覚した。少なくとも、脳裏にひらめいたのは、人間の考えではなかった。異常だ。
そんなことはやめろ、と声に出して自分に言ってみたが、簡単にやめられるようなら、最初から欲望なんて持たないだろう。
そうして、しばらくして、軽いガラスの割れるような音を立て。
欲望は決壊する。溢れだした欲望は、もはや僕には止められなかった。自分自身が、コントロールすらできないオートマタと化した。彼に詰め寄った僕は、彼の手に触れた。冷たい。軽々しい音と共に、彼の指を折る。彼は苦痛に顔を歪めながらも、何も言わず僕を見つめる、そのときの彼の目の中に、なぜか情熱的な愛のようなものを見た。僕は愛されている、彼は僕の嗜好を受け入れている! そのことが、僕のこころにガソリンをまいて火をつけた。本来ならそこでやめるつもりだったが、やめることができなくなった。
あまりにも細いその指を、僕はもう一度逆向きに折った。力を込めすぎたせいか、白い骨が露出する。あまりに彼の肌の白さと符合しているので、感極まって泣き出しそうになった。抱き寄せて口にキスをする。舌を絡め、息ができなくなるくらい激しく追い詰めた。粘膜と粘膜が触れ合っている、その間にも残りの指を折る。すべての指の関節を逆向きに曲げられても、彼は声を上げない。彼の心臓の鼓動だけが異様に高く駆け上がっていくのを感じ、それがまた僕を興奮させる。あらためて、儀式のように、舌を包み込むようにして吸い上げた。
ねえ神さま、僕は今とても満たされてる。僕の激情は彼の中に流れ込んで昇華される。体など繋げなくても、充分に気持ちがいい。すべて終わって、彼の、不自然に折れた美しい指に僕はくちづけた。続いて、彼の秘部に触れようと思ったが、それはやめた。そんな下世話な行為は、この彼には似合わない。僕は満足して、彼の顔を見やる。軽蔑に染まっているかと思ったが、そうでもなかった。驚いているふうでも、こわがっているふうでも、ない。
「君は、もしかして……」
無表情のグレイはそう言って、さっと僕のもとから手を引いた。その動作は、何かに怯えているようだったが、怯えの対象は僕ではないようだ。何か、もっと大きなものを、僕の背後に見ているような――彼は続けて、こう言った。
「教団の――」
教団?なんだそれは。
そう思った瞬間、僕は異様な現実と向かい合った。さんざんな陵辱を受けたはずのグレイは悠然としており、何も乱れていなかった。先ほど、読書をしていたときと何一つ変わらない。風のないときの海面のように、彼の瞳が黒に近い青色を放っていた。もう、そこから愛は読み取れなくなっていた。
「いや、その反応を見る限り、違うみたいだね。教団の人以外に、いきなりこんなことされたのは初めてだ。びっくりしたけど、指を折られるの、けっこう気持ちよかったよ。君も楽しんでいたみたいで、何よりだ。ねえ君」
グレイは、早口にそんなことを言いだした。いつも物静かなグレイがそんなふうにしゃべるなんて、珍しいことだった。しかし、そんなことは驚くことでもなんでもない。今、僕が驚いているのは、彼が右手を僕の前にさし出し、握手を求めているという事実だ。さっき、僕が全部折ってめちゃめちゃにしたはずのその手は、いつのまにか、正常な形へと戻っていた。当たり前の、どこにでもある、手だった。
背筋がぞわりとした。こいつは人間じゃない。化け物かもしれない。そんなやつに、僕は、ずっと秘めていた欲望を知られてしまった……あまつさえ、その身体に暴虐を加えてしまった……もうダメかもしれない。
グレイは青ざめている僕を置いて、勝手に話しだした。
「こいつは人間じゃない、と思ったかな。それなら君は、僕が人間だと思って、あんなことをしたのかな。それは、この日本では非常に危険な性癖だね。気をつけたほうがいいよ、他の人にやったら犯罪だからね。ああ、そんなことは言わなくてもわかるか」
「手……なんで、治って」
僕が口にできたのは、そんな情けない問いかけだけだった。
グレイはやっぱりおおらかに笑って、子供みたいに、誇るように何の欠損もない両手を広げた。骨折による損傷だけでなく、最初にできたはずの切り傷もなくなっていた。
「僕はね、神さまなんだよ。まあ、今はもう、何もできないけれどね。自分の負った傷を回復させられるくらいかな。少なくとも、人間じゃない」
僕は、「神さまだって?」とか、「そんなバカバカしいことがあるわけない」とか、否定する言葉を発することができなかった。だって、今ここで、彼の完成されたガラス細工のような手が、僕と握手をするために差し出されている。こんなの、拒むことなんて、できるはずない。これほど運命的な出会いは他にない。僕のこの外道な性癖を、彼は受け容れてくれる。これまで、医学書を読むことでしか満たされなかった僕の反社会的欲望は、眼前にいるグレイさえ許してくれれば――犯罪ではなくなるのだ。
僕はいつのまにか、その場に片膝をついていた。
グレイは何も言わず、僕の頭をなでた。
まるでペットみたいな扱いだったが、それでも、なんだか嬉しい。
これが僕と彼の、本当の生活の始まりだったんだ。
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その日以来、カフェに関する妙な噂が流れ始めているのはきっと、君も知っていることだろう。カフェに行ったものは死んでしまうとか、陰謀組織の人柱にされるとかね。バカみたいな噂だろう、本当なわけないよねえ。そんな怯えた顔、しなくてもいいよ。僕は同性愛者だから、君のような小さな娘さんには興味がないんだ、あいにくだがね。
そうだ、君も、神さまのために撒き餌になるといい。僕は、彼のペットにしてもらったんだよ。そうすれば、僕のきたないものは、全部彼が吸い取ってくれるんだ。とっても嬉しいよねえ。こんなにも満たされることは他にない。
あれ、もう怖いから帰る、って?
……しかたがないな、次に来たときは、医学書とおいしいコーヒーが君を待っていると思うよ。
どちらもすごく刺激的だから、楽しみにしていてね。じゃあね、さよなら。
20130925