DevilMaster

第四幕 「過去は喚起する」


 征一郎がまだ少年であった頃。ある凶悪な殺人事件が起き、世間は騒然とした。
 加害者は征一郎と同年代の少年で、他人の身体を破壊することで性的快楽を得る体質であった。警察が少年にたどり着いたのは、現場に彼の精液が残されていたからだ。被害者の身体に、性的暴行の痕跡はなかった。加害者は、性行為ではなく、殺人によってのみ、絶頂に達することができたということなのだろう。
 あまりにもおぞましい殺人事件の被害者は、二十人にものぼった。現場に精液が残されていなければ、もっと犠牲者が増えていたかもしれない。
 十六歳だった当時の征一郎は、この事件の犯人の少年に、拘置所で面会した。
 「絶対に会わせなければならない」と、征一郎の父が権力を駆使し、強引に接触させたのである。
 もちろん、世間には極秘だ。加害少年の顔を個人的に拝むなどということは、本来ならば許されない。
 巴財閥の長だからこそ実現させることのできた、金持ちのわがままの極致といったところだ。いったいいくら積んだのだか、わかったものではない。
 征一郎の父にとって、この面会は、息子をいずれ財閥の長とするための準備作業のようなものだったらしい。
 征一郎には、そのころの記憶はほとんどない。事件の内容も含めて、多感な年代の少年が触れるには、少々重すぎたのだ。
 今では、加害少年の顔すら、まともに思い出すことはできない。あのとき、拘置所で何があったのか。それを知るのは父だけである。
 ただ、拘置所を出たあと、道ですれ違った少女のことだけは、鮮明に思い出すことができる。
 その少女は、憔悴しきった征一郎に対して、こう言った。
「彼は、どうしてあんなに非効率的なことをしたのでしょう。わたしは、そればかりが気になって、しかたがありません」
 征一郎は、何も返答しない。言葉を発する元気すらなかったし、見知らぬ少女の問いかけに戸惑ってもいた。代わりに、一緒にいた父が、その少女に対して答えた。
「愚かだからだ。愚かだから、非効率的なことができる。わたしにはとてもできぬことだ」
 当時の征一郎は、非効率的なこととはすなわち、殺人のことだと思っていた。少女が口にしたのも、どうして人を殺したりするのだろうか、という子どもらしい問いかけなのだろう。そんなふうにしか考えられなかった。
 だが、十年近くが経過した今、征一郎は思うのだ。父も、少女も、殺人を否定していたわけではない。彼らの言う非効率的なこととは、現場に精液を残したという犯人の失敗のことなのだ。すくなくとも、父が言っていたのはそのことだと思う。父は、殺人を否定するようなまっとうな人間ではまったくない。なにせ、財閥に関連して、間接的には何人でも殺しているといえるのだから。
 超越者というものは、時に常人では考えられないようなことを考えるものである。征一郎の父は、有数財閥の長であり、圧倒的な超越者であり、異常者である。そういった尋常でない人間であるからこそ、財閥グループを一手に背負い、人を死に追いやりながらも超然と立っていることができる。
 あのときの少女もまた、父と同じような人間なのかもしれない。あの少女は今頃、何になっただろうか。もしかすると、父のように地位や名誉を獲得しているかもしれない。あるいは、あのときの加害少年のように、道を踏み外しているかもしれない。
 征一郎にとって、加害少年との面会は、恐怖以外の何者でもなかった。父は、それによって征一郎が成長すると思っていたようだったが、そんなことはない。非常に深い心の傷を負っただけである。

 父は言う。覇王には、痛みを痛みとして感じない精神が必要なのだ。何かで成功をおさめたいのならば、心の傷など背負っている暇はない。他人の痛みにも、自分の痛みにも、鈍感な人間であれ。傷を背負っても、痛みを感じなければ、絶対に倒れなければ、無敵の覇王になれるのだから。

 そんな父親に対して、いつしか征一郎は、恐怖と軽蔑を感じるようになっていた。一方で、あのときの少女の姿が、父と重なって見えるように思っていた。あの少女は、覇王の卵だ。父と同じような人間だ。自分はあのようなおぞましいものとは違う。そう思うことで、自分のなかに新しい価値が生まれるような気がしていた。

 それから約十年が経過して、征一郎は飽間めがねという天才賭博者に出会った。
 彼女は――まぎれもなく、覇王であった。
 飽間を見ていると、自分の父の非情さや異常さが思い出されて、どうにも直視したくないという気持ちになる。
 自分は、ああいった王にはなれない。なりたくもない。普通の人間でいたい。痛みのわかる、凡庸な、怠惰な科学者でいたいのだ。
 冷たい廊下を歩きながら、征一郎はそんなことを考えていた。


20160620

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