『 ホワイトデーのお料理教室 』



「甘いお菓子よりも、パペットは甘いマスターが食べたいです」
 と言って、征一郎の肩をなでようとするパペットだったが、
「いや、今日はそういうノリはいいから」
 珍しく、征一郎は彼女の手をはねのけた。冷静な調子で、パペットはこう返す。
「そうですね、今日はエッチはなしです。シリアスにいきましょう」
 そして彼女は、薄いブルーのエプロンを装着し、頭には三角巾をつけた。
 今日は三月十四日――世間でいうところのホワイトデーである。

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 本来ならば、パペットと征一郎にとって、バレンタインデーやホワイトデーといった、うかれたイベントは無縁な物であるはずだった。そもそも、パペットは物を食べる必要がない。人間の輪のなかに入っても違和感がないように、食べ物を摂取しても問題がない構造にはなっているが、物を食べたからといって利点はない。それゆえ、パペットにとって食べ物の話題は縁遠いものである。

 征一郎もまた、バレンタインデーにチョコレートをもらいたい、などという儚い願望のようなものは持っていなかった。彼の場合は、それよりも、十二月に発生したとある事件について、考えるのに必死だったのである。
 その事件についてはまた別の機会に語るとして――この二人にとって、バレンタインデーはただの平日だった。何の意識もせずに通り過ぎてしまう日常の一部分でしかなかった。
 三月になって、とあるアンドロイドが二人の元へやってくるまでは。

 ようやく冬が終わり、暖かくなってきた三月の上旬のこと。そのとき、征一郎とパペットは、ベッドの上で休んでいる最中だった。幸い、行為はすでに済んだあとであった。もう少しタイミングが早ければ、きまりの悪い鉢合わせが実現したことだろう。

「パペットさーんっ! 巴殿ーっ! 開けてくださいませんかーっ! 拙者でありますーっ」

 精を放出し終えて、眠ろうとしていた征一郎の意識に入り込んできたのは、口調だけで誰だかわかるような叫び声だった。まどろみのなかに急に声が侵入してきたせいで、すこしだけ頭痛がする。
「あの妙に一生懸命なのに間の抜けたニンジャっぽい声、すげえ聞き覚えあるような気がする……」
「勾玉さんですね」
征一郎と違い、特に疲れているわけではないパペットは、さっと起き上がった。
「応対したほうがよろしいですか、マスター?」
濁った意識をうまく整理しつつ、征一郎は返答する。
「あー……僕は服を着るからさ、しばらく時間を稼いどいてくれる?」
「イエス、マイマスター」

 勾玉が帰ってしまわないように、パペットは玄関へと急いで駆けていった。
 征一郎は、急いで服装を整えつつ、ベッドの周囲を片付けた。もともとそんなに散らかってはいないのだが、情事の直後に他人に部屋を見られるというのは、非常に後ろめたい。部屋にやってくるのが、あの純朴な勾玉だというのだから、なおさらである。おそらく、あの彼のなかに情事などという概念はインプットされていないだろう。人間ならば、人生のどこかでそのような概念に必ず遭遇するはずだが――主人との閉鎖された空間で暮らしつづけるアンドロイドにとって、性の目覚めなどというイベントはそうそうない。パペットのような性処理用アンドロイドならば、話は別だが。

 近頃、征一郎が遭遇するマスターとアンドロイドは、二人きりの閉鎖的な関係を築いていることが圧倒的に多い。
 十二月に出会ったあの女性も、そうだった。
 そして、あの彼女は、そんな関係性ゆえに常軌を逸してしまったのだ。

 パペットと自分の、二人きりの孤立した関係は決して悪いものではない、と征一郎は思っていた。アンドロイドに理解を示す人間は少ないし、セクサロイドならなおさらのことだからだ。しかし、あの事件以来、その考えは改めようと考えている。おそらくは、松手、勾玉、パペットの三名も同じように悩んでいるだろう。十二月の痛ましい事件のあと、パペットと勾玉は、自らの内部に装備されたインターネット通信機能によって、お互いに連絡を取ることが多くなったようである。冷たく性欲旺盛なパペットと、純朴で温厚な勾玉。あからさまに正反対な二人は相性が悪いのではないか、と征一郎はいまだに危惧しているが、喧嘩などはしていないらしい。『STAR』のビスを体内に宿すもの同士、通じ合う何かがあるのかもしれない。

 部屋のなかに情事を悟らせる要素がないことを何度も確認してから、征一郎は玄関へと向かった。いつもどおりの装束を身にまとった勾玉が、パペットに向かい、ペコペコとお辞儀をしているところだった。松手と二人でやって来たと思っていたのだが、どうやら勾玉しかいないようだ。
「やあ。あけましておめでとう……ってところか?」
征一郎は、右手を軽く挙げつつ、そう言った。
三月にこの挨拶をするのもどことなく変なのだが、勾玉とは十二月の事件以来、顔をあわせていない。パペットと勾玉は通信回線上でさまざまな会話をしているようだが、顔をあわせるのは征一郎と同じく、三ヶ月ぶりだろう。
「あけましておめでとうございます。本年もどうか、よろしくお願いいたします」
勾玉は、それ以上深く折り曲げられないのではないか、というくらい深々とお辞儀をした。いつも思うのだが、甲冑のような重そうな装備で、そのように体を折り曲げられるのはなぜなのだろうか。
「よろしくお願いします、勾玉さん」
相手の言った内容をオウム返しにするだけのパペットの態度は、そっけない。だが、彼女なりに愛想よくしているつもりではあるらしい。
「で、何の用だ? 松手と一緒じゃないなんて、珍しいじゃないか」
征一郎が知る限り、勾玉が松手から離れて行動することは稀である。初めて会ったときは、征一郎を驚かせるために、松手の指示のもと、単独でこの整備室にやってきたようだったが……今回も、松手の指示でこのようなことをしているのだろうか。
 勾玉は、どこかきまり悪そうにもじもじしながら、
「今日は、巴殿とパペットさんに、お願いがあって参った次第でありまして……」
「お願い? 何だ?」
「あの、拙者に……拙者に、料理を教えてほしいのであります」
不可解な提案だった。
 どうやらパペットも理解できないらしく、二人で揃って首を傾ける。
「お二人がそのような顔をするのは、無理のないことだと思います」
勾玉は、すっかり困窮したという顔で、そう言った。
「先日、拙者はマスターにチョコレートをいただきました。無論、拙者は人間の食物を食べても意味のない身でありますゆえ、アンドロイド用に調整された特殊なチョコレートです。拙者は感極まって涙をこぼしそうになったのです。どうしても、お返しがしたいと、思いました。三月十四日はお返しをする日だと、パペットさんに聞いたので……」
急にパペットの名前が出てきたので、征一郎は驚いた。
「おまえ、そんなことをこいつと話していたのか? 珍しいこともあるもんだな」
征一郎にとって、パペットは性欲の権化であり、それ以外の話をするところなどそうそう見られない。バレンタインデーだのホワイトデーだの、そんな世間一般の純情な女子が語るような夢物語を、このパペットが口にするところなど想像もできない。
「マスター。今、とても失礼なことを考えていますね?」
パペットは侮蔑の表情でそう尋ねた。図星だったので、征一郎は何も言わなかった。口笛を吹いて適当にごまかす。
勾玉は、二人の不穏な空気には触れないままで、下を向いてしまった。
「拙者は、いつもマスターに物を頂いてばかりなんです。常日頃から、与えられるばかり。それを言うと、マスターは困ったように笑うんです。『わたしはいつも、勾玉の気遣いをもらっているから』って。でも、拙者は納得できません。もっと、形のあるものをマスターにお返ししたい」
「それで、ホワイトデーに感謝の気持を送りたい、ってことか」
「はい」

 ……几帳面なアンドロイドである。征一郎は怠惰で不真面目な賭博者であり、パペットは不純で冷徹なセクサロイドだ。だから、勾玉の生真面目な性格には共感できない。おそらくは、作り手である鳥渡松手も同じく、生真面目なのだろう。アンドロイドはなぜか、主人の理想を体現しているはずなのに、主人に似てしまうことがある。
 本来ならば、こんな頼みは断るところだ。そもそも、征一郎もパペットも、料理はできないのだから、彼に教えることはないだろう。十二月より以前の征一郎ならば、男の頼みなど足蹴にしていたかもしれない。
 ただ、現在の征一郎は違う。
 勾玉の頼みを聞かなければ、十二月の彼女と同じ地獄に墜ちるかもしれない。
 そんな漠然とした見えない不安に囚われている。
 ゆえに、答えは一つしかない。

「役に立つかは知らんが、まあ、教えてやってもいいぞ」

 勾玉は花が咲くように笑顔になる。野良犬に餌付けしているような気持ちになった。存外、悪くない気分だ。
 松手が勾玉にやたらと物をあげるのは、この笑顔を見たいからなのではないだろうか。
 
「ありがとうございます。拙者、精一杯頑張りますゆえ、どうぞ、ご教授の程を」

+++

 十四日までのあいだに、パペットと勾玉は料理の練習を地道に積み重ねていた。征一郎は特に役に立つわけではないため、監視することもなかった。彼は、二人がどのような特訓を重ねていたのかは知らない。パペットも勾玉も、子どもではないのだから、多少放任してもいいだろう。無理やり料理を作らされて、征一郎自身の料理オンチが判明しても癪であるから、征一郎は徹底して放っておいた。調べ物ならばあの二人のほうが優れているだろうし、そもそも最初から、征一郎に活躍の場はなかったともいえる。

 征一郎があえて二人の特訓の場に居合わせなかったのは、もしかすると、パペットに新たな人間関係を与えたかったからかもしれない。十二月の事件が、四人の心に暗い影を落としている。二人きりの危険な閉鎖環境に追い込まれることのないように、パペットと勾玉には一対一で対話をしてもらいたかった。後から考えると、征一郎は、自らがそんな願いを持っていたがゆえに、彼らの特訓の場から離れたようにも思えるのだった。

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 アンドロイドは、学習を積み重ねる機械である。適切な行動パターンを体に埋め込むためには、何度もトライ・アンド・エラーを繰り返す必要がある。パペットとて、最初から完璧なセクサロイドだったわけではない。
 機械は、最初から何もかもができると思われがちだ。しかし、パペットや勾玉のような多機能な共生型アンドロイドはむしろ、最初は何もできない。彼らに行動パターンを仕込むのは、マスターの仕事である。現在のパペットが完璧な性処理を行うことができるのは、征一郎がそういうものを教えこんだからである。アンドロイドが行動する際に参照するのは、自らの過去の行動記録だ。過去に失敗した記録があれば、次は別の行動をする。過去にうまくいった記録があれば、それを踏襲しようとする。もちろん、同じことを単調に繰り返したからといって、次に成功するとは限らない。同じことをして失敗したならば、次回はまた別種の判断をしようとする。行動記録は多ければ多いほど精度が増す。経験を積めば積むほど、アンドロイドは洗練された動きをするようになる。経験があればあるほどよいのは、人間と同じである。
 だから、今回、パペットと勾玉は必死に練習を重ねたのだろう。
 パペットは、勾玉のために。
 勾玉は、松手のために。
 努力が嫌いな征一郎は、そのような必死の献身は理解できない。積極的に協力しようとも思わない。
 しかし、美しいものだとは思う。
 少なくとも、誰かのために何かをしようと思うことは、パペットと勾玉にとって、よい気晴らしになるだろう。
 ――十二月の事件は、自分のことしか考えない、エゴイスティックな科学者の手で引き起こされたのだから。
 
+++

 そして迎えた三月十四日。
 気合を入れてエプロン姿になったパペットと勾玉は、慌ただしく菓子作りに勤しんでいた。

「勾玉さん、ワタシはチョコレートの湯煎を担当します」
「では、拙者はクッキーの生地を」
「ええ。落ち着いて、手順通りにお願いします」

 ホワイトデー本番の二人の様子を、征一郎は背後でじっと眺めていた。
 これまでさんざん放置してきたが、さすがに本番くらいは見届けてやったほうがいいだろう。そんな、怠惰な征一郎なりの気遣いである。
 チョコレートを湯煎で溶かしたり、型に流し込んだり、クッキーを焼いたりと、パペットと勾玉はまったく別の作業を黙々とこなしているようだった。どうやら、特訓によって導き出された最適な共同作業の形らしい。

 彼らは、完璧に計画され、何度も演習した作業は機械的にこなせる。これがもしも松手と征一郎であったなら、狭い台所のなかで衝突したり、相手の作業の邪魔になったりするだろう。あらかじめ予期されている範囲の作業ならば、アンドロイドは失敗することはない。行動記録のなかから、最適なプランを導き出すことができるというのが、彼らの最大の長所である。

 これまで、パペットがそのような共同作業の能力を発揮する機会はなかったと言っていい。パペットは、ある意味では孤独だった。征一郎は奉仕の対象者であり、共に作業をする仲間ではない。共同作業というのは、アンドロイドならば簡単に実装できるものではあるが、実現の機会を手に入れるには、他のアンドロイドとの適切な交流が必要だ。
 つまり、パペットと勾玉にとって、今回の料理実習は非常に貴重な経験になったということだ。
 たかが料理、と馬鹿にしていた征一郎だったが、彼らの得た成果を見て、料理もいいものだな、などと思っていた。

+++

 征一郎とパペットと勾玉が、特訓の成果に感動していた頃。
 鳥渡松手は研究室のソファで寝転びながら、妙に外出ばかりしている勾玉のことを憂いていた。
「あの子、なにか悩みでもあるのかしら」
 アンドロイドに悩みという概念があるのかどうか、松手にはよくわからない。
 特に、十二月以来、まったくわからなくなった。
 十二月に起きた事件のおかげで、アンドロイドには自発的な感情が発生するということが観測できた。征一郎はそれを痛ましいことだと感じているようだったが……こうして数ヶ月経過して、冷静に考えてみると、研究に役立つデータであると松手は思う。
 十二月の事件を痛ましいと捉えるということは、アンドロイドの感情を認めるということである。感情回路によって再現された偽りの感情ではない。人間と同じように、自らの利益のために何かをしようとする欲望。その欲望によって発生し、後に残されるものこそが、本物の『感情』だ。
 そういった生々しいエゴイスティックな欲求が、どのアンドロイドにもあるのだとしたら。
 主人に追従するだけではなく、自らの希望を叶えようとするようなことが、パペットや勾玉にも起こるのだとしたら。
 いったい、勾玉は何を叶えるのだろう。
 なぜだろう、そのことを考えると、松手は泣いて詫びたくなる。
 自分が勾玉にとても悪いことをしたような気がして、泣いて、泣いて、消え去ってしまいたいと思う。
 ソファの上でまどろみながら、松手は必死に涙をこらえて、勾玉が帰ってくるのを待っていた。

 そんな松手が、勾玉の持ってきた菓子を見て、本当に涙を流してしまうまで、あと数時間ほどかかりそうだった。
 ただし、彼女が流す涙は、懺悔の証などではなく、彼の献身への感謝の結晶であった。
 季節は春。
 冷えきった十二月が終わり、さらに数ヶ月が経過し、すべてが良い方向に向かっているような三月。
 つかの間の平穏を象徴するような、ホワイトデーのあたたかな出来事だった。


20150415