好きな男が童貞だった……というのなら、よくあることだし別に気にならないだろう。だが、好きな男が非処女だったら、やっぱり女は嫌悪感を示すのだろうか。そのことを考えるたびに赤坂甲斐は憂鬱になる。彼には同性の恋人がいるわけではないし、そういう嗜好があるわけでもない。ただ、男とセックスしたことがあるというだけ。そのときは、こんなに後々悩むことになるなどとは思っていなかった。なんとなく、好奇心で、勢いで。友達に押し切られて一回だけ。なのに、どうしてこんなに重々しく感じるのだろう。
 一方、その「友達」はそのことについて罪悪感やら後悔やら、そういう感情を一切持っていないらしい。見山均は「そんなつれない態度とるなよー。セックスした仲じゃん」とか平気で言えてしまう男なのだ。彼のおかげで妙な誤解が生まれたのは一度や二度ではない。一度、本気でぶん殴っておきたい男ではある。
 よりによって、均はりろりにもこのことをバラしてしまったらしい。りろりはもちろん、嫌悪感を示すよりも好奇心できらきらした目で「ねえ、男同士ってぶっちゃけどうなの? 詳しく教えて。最初から最後まで詳しくね」などと言いはじめた。小学生女子とは思えないエロガキっぷりにはあきれるしかない。もちろん、甲斐は何も教えはしなかった。意地でも教えてたまるものか、と思った。

 ところで、りろりは甲斐に性的な関係を強いようとすることをいまだにやめていないわけだが、甲斐はそろそろ彼女の本当の心が見えそうな気がしてきている。大人にとっては、体でつながることなんてくだらなくて、簡単に笑い飛ばせてしまう。友達と、好奇心だけで、たった一晩あれば誰でもできてしまう行為。少なくとも均にとってはそうだ。でも、それをしたことがないりろりには、唯一の望みのように思えてしまうのだろう。性的な願望にすがることで、少しでも満足が得られればいいのだ。たとえりろりが成人しても、甲斐は意地でもりろりとそういうことをしたくないと思っている。きっと、セックスなんて大したものじゃないと知ったら、彼女は絶望するだろうから。そんな現実は知らなくていい。できたら、一生。
 そして、甲斐は考える。小学生なのに、セックスという少ししか見えない光にすがるしかないりろり。彼女はどんなバックグラウンドを背負っているのだろう。一度、彼女の父親らしき人物に会ったが、少し卑屈な以外は普通の男だと思った。少なくともりろりに理不尽な虐待を加えているようには見えなかった。いや、そんなのは見かけでは分からないけれど。でも、そういうものとは無縁のように思える。あの父親も、りろりも。
 どちらかといえば、あの父親も「虐待される側」に位置しているように見える。うがった見方かもしれない。りろりはただの家出少女で、誰も何もしていないかもしれない。これは甲斐の勘だ。つまらない直感だ。あの男の目はどこか諦観に満ちていて、現実を諦めているように思える。甲斐に頭を下げて、「りろりをよろしくお願いします」と彼は言った。その様子は、自分ではどうにもならない現実に、屈しているように見えた。どこの馬の骨ともわからない男に、自分の娘を預ける。どんな状況であれば、そんなことを実行しようと思えるのだろう。甲斐にはわからない。
 りろりは彼について何も語ろうとはしないし、甲斐も何も尋ねない。本当の父親かどうかもわからない。あるのは、ただ彼がりろりのために、甲斐に頭を下げて頼みごとをしたという事実だけだ。そして、甲斐がりろりのためにいろんなことをしようと思えるのは、彼に頼まれたからというだけではなく、甲斐自身がそうしたいからだ。それだけわかっていれば充分だ。いつか困ることになるかもしれないが、今できることはこれくらいしかない。

「でも、それってすげくねえ?」
と均は言う。何がすごいというのか、甲斐は訊いてみた。
「今自分にできることを、全部できてるって思う甲斐がさ。俺は、そんな風に思えたことないから」
実際、そんな風に言われたら、自信をなくしそうだった。
「いやいや、甲斐はすげーよ。きっと、りろりちゃんもそう思ってる」
均はにっと口を閉じて笑った。彼の笑顔は昔から、妙に人懐こくて安心感できる。
「甲斐は俺の親友だろ? 俺だって、甲斐になら娘を預けてもいい」
「お前に娘ができるときは、世界の終りなんじゃないかってぼくは思うよ」
甲斐の冷ややかな言葉にも、臆することなく均はけたけた笑う。
「うへえ。何、俺はそんなに世界に貢献してるの」
「逆だ、むしろお前みたいなのは生態系を狂わせてる」
「えー、なんでそんなに辛辣なの。もうちょっと優しくしてくれてもよくね? セックスした仲なんだからさー」
羽のように軽い口調で、彼はそれを口にする。甲斐はため息をつくことで返す。
「お前とセックスしたやつなんて星の数ほどいるだろ」
「そんなにはいないよー。まあ、女ならそこそこいるけど、男はお前だけだし」
聞き様によっては妙な告白にも聞こえなくはないが、そういう意味ではないと甲斐は知っている。男はお前だけ、というのはきっと、一回で男同士の性行為に飽きてしまったか、もしくは面倒すぎてやめてしまっただけだろう。男同士というのは、男女のそれよりひどく準備が面倒臭い。
 しかし今唐突に、『男はお前だけ』というその言葉が、妙に安心感のある言葉に響いた。誰とでも簡単につながる均と、がむしゃらに甲斐だけとつながりたがるりろり。二人はまったく逆を向いているようで、どこか似ているのかもしれない。似ているからこそ、二人とも甲斐の名前を呼んで、笑ってくれるのかもしれない。できたらりろりも、均のように底抜けに明るくて、単純で、きらきら光る大人になってほしいものだ。もちろん、均のように男女関係にだらしなくなってほしくは、ないのだけれど。





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