【 出会いはレティクル 】

 春のうららかな陽気にそぐわない、暗い目をした長身の彼は、今日もそこに立ちつくしていた。もう春なのに、その人はとても寒そうだ。彼はいつの季節でもそうだということを、わたしは知っている。彼はいつも凍えていて、その身を抱きすくめるように震えている。もちろん、本当に震えているわけではない。震えているように見える、というだけ。凍えているような気がする、というだけ。わたしの感傷だと思ってくれて構わない。
 いつもなら、そんなその人を遠くから見つめているだけで、見つめながら通り過ぎるだけで、終わるはずだった。わたしは彼の見ている風景の一部分で、彼はわたしの見ている風景の一部分。それ以上の関係にはならないはずだった。

 だが、風が吹いた。思わず髪を押さえずに入られないくらいの強風だ。
「あっ……」
ベランダに立った男性の手から、一枚の白い紙が舞った。思わずわたしは声を出してしまった。
 しかし、何もなかったかのように彼は部屋の中へと戻っていく。
 どこか遠くへとばされようとしているその紙を拾って、わたしはまるで法律でそう決められているかのように、そこに書いてある言葉を読み上げる。
「『……さようなら。ぼくが出会った、すべての人たちへ。』」
たぶん、それがすべての始まりだった。



「すいません!すいません!」
わたしは慌てて、その家の扉を叩いていた。
「……はい、松浦です」
扉を開けたのは、メガネをかけたまじめそうな少年だった。高校生くらいだろうか。
「あの、何か御用ですか」
冷静な口調でそう尋ねられ、先ほど拾った紙のことを思い出す。そうだ、あの紙はどう見ても遺書だ。
「自殺しようとしてるんです! この家の人が!」
「……は?」
目の前の彼は、目を真ん丸くして驚いている。
「あの、たぶん二階か三階の……男の人です。背がとても高い、メガネをかけた、」
わたしの説明の途中で、彼は驚いた顔のまま、
「それはぼくの兄です」
と言った。そして、そのまま踵を返して、家の中へ走っていこうとする。家に入ってもいいとは言われなかったが、非常事態かもしれないので勝手にあがらせてもらうことにして、わたしは彼の後を追った。

 その扉が開いた瞬間のことを、わたしは絶対に忘れないだろう。スローモーションのように、重い扉が徐々に開いていき、その中に先ほどの長身の人物が立っていた。何をすることもなく、そこにたたずむ彼の姿は、とても寂しげで、しかし非常に抒情的だった。いつもベランダで呆然と立っているその人は、部屋の中でもやはり、呆然と戸惑っているように見える。
「兄さん」
と、先ほどの少年が言った。「何のつもりなんですか?」
「何が」
それが、わたしが最初に彼の声を聞いた瞬間だった。わたしの予想とは全然違う声だった。
ああ、空想の中の彼と現実の彼とは少々違うようだ、と当たり前のことを考える。
「何が、じゃないです。自殺しようとしているって……」
長身の彼は視線を困ったように宙に浮かせる。
「自殺……誰が?」
「兄さんが」
「かなめじゃなくて? ぼく?」
長身の彼は驚いているようだった。問いを投げかけられた少年は強い語調で言った。
「かなめ兄さんが死ぬわけがないでしょう」
「ぼくだって死なないけれど」
わたしは無理矢理、その会話の中に割り込んだ。先ほどベランダから落ちてきた紙を見せつつ。
「あの、この紙を拾ったんです」
長身の彼は一瞬ひるむように動きを止めてから、わたしの見せた紙を見た。
「ああ、これはぼくの原稿だ。これを届けに来てくれたの?」
ぎこちなく笑いながら、彼はこう続ける。「ありがとう」
 それは、ありがとう、という単語の意味を解していないような、とても戸惑いに満ちた「ありがとう」だった。
 そのふしぎな響きに、わたしは魅せられたのかもしれない。少しぼうっとしてしまった。
 とてもふしぎな人だった。この世の人ではないようで、まるで宇宙人みたいだ。
「つまり、あの、これは遺書ではないのですか?」
少し状況が読めないので、わたしはそう言った。
「……遺書? ああ、うん、そうか。そういうことか」
と彼は首をかしげたあと、納得するようにうなずいた。
「彼女がこれを遺書だと勘違いして、さざめがここに乗り込んできた、ってこと?」
「そのようですね。ぼくはわりと迷惑しています、兄さん」
さざめ、と呼ばれた少年は眉をひそめる。「今、練習中だったのですけれど」
「あの、ごめんなさい」
わたしは謝った。練習中、というのが何の練習なのかは分からないけれど、彼に迷惑をかけたのは自分だと思ったからだ。
「ああ、あなたに謝ってほしいわけじゃないですから。気にしないで」
さざめさんは慌てて言った。
「そんな紛らわしいものをベランダから落とす、兄が悪いのです」
「そうだね、ぼくが悪い。本当にごめんね」
二人から逆に謝られてしまい、わたしは困ってしまった。こういうとき、どういえばいいのだろう。
「本当にごめんなさい、わたしのせいで」
なんだか悪いような気がして、また謝り返してしまった。
 しばらく沈黙が流れた後――くすり、と誰かが笑った。さざめさんではなく、もう片方の長身の彼だった。宇宙人みたいな、異星人みたいな、どこか浮いた感じをまとった彼は、手を口に添えて笑っていた。人間の笑い方だった。
「君は、なんだか、おもしろいね」
笑っているその人はとても新鮮な表情で……今までのその人とは全然違った。違う角度からのその人を、そのとき、初めて見た。今までわたしが眺めていた彼とは、違う彼だ。視界が開けていくような感覚だった。

「ぼくは、松浦ななめ。全部ひらがなで、ななめ、だ」

 そのとき、わたしはこのまま自分が家に帰って、この人と二度と会えないのは嫌だと思った。
 どうにかして、この人ともう一度会いたい。
 この絆を、消さずに留めたい。
 そんな気分になったのは初めてで、どうしてそんなことを思ったのかは分からなかった。

「あの、わたし、文芸部なんです」

唐突な話題転換に、ななめさんとさざめさんは、二人ともぽかんとした顔になった。わたしは早口で、まくしたてる。
「原稿ってことは、ななめさんは作家か何かなんですよね」
「ああ、うん、作家だよ」
ななめさんは面食らいながらもそう応じた。ここまで言ってしまったのだから、もうごり押ししてしまおう、と思った。意地でも、わたしがここにもう一度来る理由を作るのだ。
「文芸部員として、わたしはななめさんにレッスンを受けたいです」
「レッスン?」
ななめさんは目を大きく見開いて、
「それは、いったいどういうもの?」
と問いかけた。その言い方がなんだかおかしくて、わたしはくすりと笑ってしまう。
「お話を聞かせていただけるだけでいいんです。わたしがここに通って、ななめさんのお話を聞くだけです。きっと、わたしの文芸活動の参考になるはずです」
「話を、聞く、だけ?」
ななめさんはぐるぐると視線をさまよわせたが……さまよわせすぎて、視線のやり場を失ったらしい。仕方なく私の方へ視線を戻し、
「うん、いいよ。ぼくにできることなら」
と答えた。その精一杯な感じの動作に、わたしはまた笑んでしまう。
 この人は、なんだかかわいい。自分の部屋にあるぬいぐるみを眺めているような気持ちだ。
「兄さん、本当にいいんですか?」
さざめさんは拍子抜けしたような表情になっていた。
「うん、たぶん、大丈夫」
ななめさんはそんなことを言った。何がどう「大丈夫」なのかはわからないけれど、まあ、大丈夫と言っているのだから大丈夫なのだろう。わたしはそう結論付けた。
「君の名前は?」
ななめさんがそう尋ねてきた。
 わたしはできるだけかっこよく響くように、全力で自分の名前を発音した。
「大宮、からくれない、です!」
「からくれない? というと、色の名前、かな。百人一首に出てくる」
いつも、わたしは「それ本当に名前なの?」という反応ばかり返されていた。けれど、ななめさんはそうじゃなかった。ただそれだけのことなのに、そんな部分にまで運命的なものを感じる。今日のわたしはどうかしているのだ。どうかしている自分を、ちゃんと自覚しているのが、一番どうかしている。
「そうです。在原業平です」
はきはきとした調子でそう答え、
「よろしくおねがいします、ななめさん!」
できる限り輝いた笑顔で、そう告げた。

 たぶんこの瞬間が、二つめのスタート地点だった。
 宇宙船に乗ったわたしは、ある星で彼に出会った。環境も、見てきたものも、生き方も、何もかもが違う異星人。彼の名前は松浦ななめ。ななめ、という名前はとてもふしぎな響きだったけれど、わたしの名前も響きの奇妙さでは負けない。そういう点で、わたしと彼は共通点を持っている。広い宇宙の中で、わたしと彼が出会う確率はどのくらいなのか知らないけれど、きっとこの出会いは奇跡に近い。理由もなくそう確信できることこそ、奇跡の証拠だと思う。
 流星が降ってくるような、ミラクルな出会い。
 わたしにとって、この邂逅は、そんな奇跡の一種だった。
 美しい、星のような奇跡。
 神様に感謝しながら星空を見上げたら、ふたたび流星が降ってくる――
 たぶん、それくらい感動的な奇跡、一大スペクタクルだ。

 ちなみに、わたしの名前が含まれた、在原業平の句の内容は、こうだ。
「ちはやぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは」。
 これをわたしなりに訳してみた結果は、次のような感じである。
『ふしぎなできごとがたくさん起きていた、大昔の神様の時代。
 そんな時代ですら、こんな奇跡は起きなかった。
 龍田川に一面のもみじが浮いて、水をからくれない色に染め上げているという奇跡である――』
 そんな意味のこの句ですら、今のわたしには、出会いの奇跡を示唆するものではないかと思えてしまう。それをロマンチシズムととるか、愚かなナルシズムだと思うかは、あなたの自由だ。
 とにかく、大宮からくれないと松浦ななめ――わたしたち二人の物語は、そんな出会いの奇跡から始まった。



090927