【 願いはフラクタル 】
大宮赤也は、作家ではないのに小説を書く、という行為に対して否定的である。利益にならない創作活動に意味はない、と彼は考えている。インターネットで小説を発表する、自費出版で本を出す、といった自主的創作活動について、「そんなことをして何の意味がある」と言い放つ彼は、そういったことに価値を見いださない人種だ。
その赤也の娘であるわたしも、無意味な創作に費やす時間を疑問に思うことがある。今は部活動として楽しんでいるからいいけれど、きっと、そのうちやめなくてはいけない。そんな気がする。
けれどななめさんは、「そうでもないと思う」と、作家という自己の職業とは若干矛盾した言葉を投げかけた。
「ぼくは金もうけのために小説を書いているわけではないんだけれど、そういう目的のための創作って、何も考えていない創作よりも、難しいと思う」
「どうしてですか?」
わたしはそう問いかけた。
「自分のために何かを書くなら、ターゲットは自分だけだ。自分の好みに合ったものを、好きに書くことができる。でも、読者はたくさんいるだろう。たくさんの人の好みに合わせるのは、難しい。協調性が必要になる」
「なるほど、だから、作家さんは大変なんですね」
「でも、ぼくがやっているのは自分のための創作だから……大宮君と似たような、自己満足的な創作だよ。たぶん、ぼくは特殊なんだと思う、作家として」
「創作における自己満足というものに価値があるかどうかということについて、ななめさんは、どう思いますか?」
「価値は明確に見える場所にあるものじゃない。蛍みたいに、光ったり消えたりする。光っている間は見えているけれど、消えてしまったらもう、そこに存在しているのかどうか、わからない」
「蛍――」
言われてみれば、そうなのかもしれない。わたしの蛍は、今輝き続けているけれど、その光はいずれ消えてしまう可能性をはらんでいる。自己満足は、いつまでも普遍で不変な満足ではありえない。
「ぼくの蛍は、気まぐれでね。そこらへんを飛んでいることもあれば、いつまでも戻ってこないときもある」
ななめさんは窓の外を見ながら言った。この部屋の窓からは、空が見える。ただ、空だけが。そこに蛍はいない。
「ななめさんは、どうして小説を書くんですか?」
わたしは、ななめさんの視線を追って、空を見る。空は青い。ななめさんと見る空は、いつも青い。青くないときは灰色だ。ふたつにひとつしかない空の色。たまには、他の色の空を見てみたい。空以外のものも――一緒に見てみたい。それは無理だとわかっているけれど。
「わからない。でも、こうしないと生きられないんだ、たぶん」
彼はそんなことを言った。生きられない、という言葉は絶望的な響きを含んでいるが、彼の口調はむしろ淡白だ。
「生きられない、ですか?」
「そう、生きられない」
「それは、ものを食べないと生きていけない、みたいなかんじですか?」
「そうだね。必ずしも食べなければならないとは、ぼくは思わないけれど――」
ななめさんはふっと表情を消す。わたしは、少し緊張する。そのまま、彼に表情が戻らなかったらどうしよう、と。しかし、ななめさんはすぐに笑いなおす。
「君は、どうして小説を書くの?」
「わたしは――」
わたしは初めて、自分が蛍を追いかけている理由を考える。自己満足という名の蛍は、とてもきれいだ。追いかけていたいと思う。しかし、おそらく、小説を書き始めたころのわたしが一番最初に抱いたのは、この蛍を捕まえて誰かに見せたいと言う願望だった。
「自分が書いたものを、誰かに読んでほしかったんです」
「それは前向きで、とてもいい、願いだね」
ななめさんはそう言った。お世辞でも社交辞令でもなく、ほんとうの言葉だ。彼の表情で、わたしは言葉が嘘か本当かくらいは見分けがついてしまう。
「でも、過去形だ」
と、彼は指摘した。「今は、違うのかな?」
「そうですね……」
返事をしながら、なぜ自分は「人に小説を読んでほしい」という願いを過去形で表現したのだろう、と考える。
今は、違う?
どう違うのだろうか。願いがすり替えられたのは、いつだろう。
少し考えて、ななめさんの顔が浮かんだ。出会ったばかりの頃のななめさんは、この世界全部に戸惑っているような顔で、わたしに笑いかけていた。そんなその人のことを、もっと知りたいと思った。わたしの願いを変えたのは、他でもない松浦ななめさん、その人だった。
「わたしが、今、小説を書く理由は――」
ななめさんと同じ景色を見てみたいから。
ななめさんのことをもっと知りたいから。
ななめさんの書く小説が、とても理想的だから。
できるだけ同じ形に、自分もなりたい。
「……秘密です」
わたしは、あえて本音を隠して、意地悪く笑ってみせた。ななめさんはその答えが意外だったのか、数回まばたきをした。
「きっといつか、教えますね」
笑いかけたわたしに、無言で笑い返すななめさんの背後に――見たことのない色で輝いている、とても美しい蛍が飛んでいるような気がした。わたしはその蛍を追いかけて捕まえようかと思ったけれど、わたしが動く前に蛍はかき消すように飛んでいってしまった。
いつか捕まえてやるから、それまで待ってて。
わたしはその蛍に、心の中でそう囁きかけた。
090927