銀幕症候群
銀幕症候群。それが、今この世界を滅亡へ導こうとしている疫病の名前だった。流行当初は「銀膜症」と呼称されていたが、現在は「膜」という文字が「幕」にすり替わって認識されている。これはわたしの勝手な憶測にすぎないのだが、おそらくこの病気があまりにも現実からかい離した症状を人々にもたらすことから、「まるで映画の中に登場するような」病気――銀幕症候群、という名前が流布したのではなかろうか。
銀膜症のウイルスは人間の体内に侵入すると、一直線に脳を目指す。まず脳の中にスペースを作り、膜を張り、ウイルスしか存在しない空間を作る。この「スペース」というものが脳のどの部分に当たるのか、もともとあった細胞を破壊してつくられたものなのか否かなど、詳しい情報は一切不明である。この「膜」がその病名の由来であるのだが、そのウイルスは膜の中で急激に繁殖し、そして一定以上の質量をもった瞬間に、脳がもともと持っていた指令系統をすべて奪う。どれだけウイルスが肥大化しようとも、脳の持つ指令系統、神経をすべて乗っ取る、なんてことが可能なはずはない。たかがウイルスが、そこまでの高機能を有しているはずがない。科学者たちは鼻で笑い、信じようとはしなかった。だが、やがて病気が感染地域を広げていくうちに、このウイルスにはそれだけの力があるのだと、彼らは認めずにはいられなくなった。なんだかわからないが、銀膜症という病気は確かに存在し、そして銀膜症にかかった患者の神経はもはや人間としては使い物にならないようなものになる。理屈ではなく事実として、科学者たちはそれを認識した。しかしその事実が広まる頃には、世界は恐慌のただなかにあった。
銀膜症にかかった患者たちは、狂った鬼のように人を惨殺する。人を殺すことしかしなくなる。他のことはいっさいしない。物を食べることも、笑うことも、泣くことも、ない。目の前にいる人間たちを一掃することしか、彼らの神経は認識できないのだ。いや、「彼らの神経」という単語は、少しだけ間違っているかもしれない。彼ら自身の神経はもう、脳の中で眠りについている。彼らを動かしているのは、脳の中で繁殖した銀膜症ウイルス。銀膜症ウイルスそのものに意思があるのかはわからないが、患者たち自身の意思は、間違いなくウイルスによって奪われている。
さて、この銀膜症、および銀幕症候群だが、ご存じのとおり、科学者や医療関係者、そして政府の対応が遅れすぎたため、現在にいたるまでに日本の人口の約三分の一が犠牲になったらしい、と言われている。そのうち、銀膜症感染者は6割ほどで、残りの4割は患者たちに無残に殺された人々である。ちなみにこの犠牲者は現在、この瞬間にも3分に一人ほどの割合で増加中、最終的に日本という国がまともに機能する状態で残るかどうかは、神のみぞ知ると言ったところだ。
――そして、今わたしは彼女と向き合っている。
ピンク色のネグリジェを着た彼女は白いベッドに腰掛け、床から少し足を浮かせていた。
「こうなってしまうと、日本という国もたいして重要なものではないような気がするわね」
わたしは彼女のベッドの前で、パイプ椅子に腰かけている。体を動かすたびにきしきしと妙な音を立てる、古い椅子だ。
「銀幕症候群かあ。なんか、あらためて考えると、とても夢のある名前に思えてきちゃう。だって、銀幕よ? ハリウッドのスターみたいで、わくわくする」
彼女はあくまで明るい調子でくすくすと笑っていて、それが今のわたしにはとてもつらいことのように思えている。
政府は銀膜症ウイルスに対する苦肉の策として、「特殊ウイルス駆除政策」を練った。「政策」なんておごそかな名前こそついているものの、その内容はきわめて単純にして明快。要するに「銀膜症の感染、および発症を確認したら、感染者を殺しても構わない。むしろ、できるだけ早く殺すことを、国民の義務とする」ということ。こんな馬鹿げた法案がすんなり可決されてしまうくらいに、この世界は銀膜症によって狂わされてしまっているのだ。この平和な日本で、まさか戦争でもないのに殺人を行っても構わない、なんて法律がつくられるなんて、誰が予想しただろうか。
しかしわたし自身は今日まで、銀膜症なんて他人事だと思っていた。
自分に降りかかってこなければ、別にどうだっていいと。
そう、今日までは。
「さて、そろそろお別れの時間かもしれない」
彼女は驚くほど静かな声でそう告げて、ベッドに横になった。手を胸の上で組み、そっと目を閉じる。薄く塗られた口紅とほお紅が死化粧のように思えて、ぞっとする。彼女の唇が、そっと言葉を紡いでいく。
「……殺して」
その言葉だけは聞きたくなかった。なぜわたしが彼女を殺さなくてはならないのか。しかし、その理由はすでに知りすぎるくらいに知っている。一つ目は、彼女は銀膜症に感染していて、発症までもう数日だと判明したから。二つ目は、他ならぬ彼女が「他の人間の手では殺されたくない、せめてあなたに殺されたい」とわたしに頼んだからだ。
狂うか死ぬか、二つの未来しか選ぶことのできない彼女の願いを、無視できるはずはなかった。
わたしは彼女を殺さなくてはならない。
「首を絞める、もしくは絞められることによって快楽を得る、という性的嗜好が存在することを、あなたはご存じ?」
「知っていても、今その話はしたくないな」
『銀膜症の感染患者を安全に殺すには、首を絞めることが一番適切と思われる』。これは先ほどの法案の条文に書かれたことだ。首を絞める以外の方法で殺害した場合、体のすべての部位の腱を切断するまで暴走が止まらなかった、という事例が存在するためらしい。なぜ首を絞めた場合は暴走しないのか。それについて、わたしは詳しく知らないのだが、おそらく脳への酸素の供給を断たなければならないためだろう。銀膜症ウイルスの本体はあくまで脳の中にある、ということだ。それならばギロチンよろしく首自体を切断する、というのも有効そうだが、政府がそれを推奨しないのには何か意味があるのだろうか。ここまで混乱し衰弱しきった政府の出す法案だから、穴があってもおかしくなさそうだが……もしかしたら、首だけになってもまだ暴れまわる、などという可能性もある。それはそれで、ぞっとしない展開だった。
「わたしは、あなたになら首を絞められても構わない、と思っている。むしろ、他ならぬあなただから、任せようと思ったの」
「ぼくは首を絞めたくなんかない。その意思は、無視するんですか」
彼女はゆるゆると首を振る。「でも、このまま放っておいたら、みんな死んでしまうわ」
その通りだった。それでいいはずはない。そもそも、発症してしまったら、もうそれは彼女ではないのだ。どちらにしても、彼女はもういなくなる。わたしの前からは消えてなくなる。それは首を絞めても、絞めなくても、同じこと。
そう、もう迷う余地なんて存在しない。
殺さなければ殺されるし、人殺しの彼女なんて見たくない。
わたしが殺したいかどうか、なんて。そんな意思は関係ない。まったく介在する余地がない。
だが――殺したくないという気持ちが確かに存在するのも、事実なのだった。
真に殺されるべきなのは「殺したくない」と願うわたしの身勝手な意思だ。
自分だけは綺麗でいたい、汚れたくないという、欲だ。
「あなたは綺麗よ。それは、人を殺しても、殺さなくても、同じ」
人殺しだから身が穢れてしまうなんてことはない、と彼女は言った。
「さっさと終わらせてしまえばいいの。迷っているから、長く感じるのよ」
彼女の顔色は白かった。わたしの手が首を絞めたせいで、この顔が赤黒く膨れ上がってしまうかもしれないと思うとぞっとする。そんな考えは捨てなければ、先には進めないのに。
震えながら迷っているわたしに呆れたように、彼女はふう、とため息をついた。
「ねえ、今だから言えるけれど、わたしはあなたのことが、大嫌いなのよ」
彼女が囁いた、その言葉がトリガーとなって、わたしの意識が白く濁る。両手が彼女の首筋に触れる。思ったよりもずっと細くて華奢な首は、絞めるよりも前に折れてしまいそうだ。ぎゅっと力を込める。彼女は何も言わない。そのまま絞める。絞めて絞めて、数分間そのまま放っておく。ひどく指が疲れる作業である。法案の条文に詳しくやり方が書いてあったのを思い出す。そう、確か、あの条文の隣には人が人の首を絞めている図解が記載されていて、それが妙にお役所仕事的で笑ってしまいそうになったのだ。首を絞めている側も、首を絞められている側も、顔が描かれていなかった。まるで何も思わないマネキンみたいに、まっさらな顔。そう、今のわたしと彼女は、まさにそんな顔をしているのだ。何も思わない、何も考えない、そんな顔を。彼女のついた嘘はとても優しく心の底に残って、これから先のわたしを苛んでいくのだろう。しかし今はそれすら考えず、わたしはただ規則的に、もう動かなくなった彼女の首を絞めつづける。彼女の顔は赤黒く腫れたりすることはなく、ただ、安らかに眠っているような表情だ。目からは涙が流れていて、ウイルスの成分であろう、奇妙な銀色の粉のようなものが涙の中できらきらと光っている。ああ、これがこのおぞましい病を「銀幕症候群」などという美しい名前で呼ばせてしまう、すべての元凶だったのだ。わたしは指を震わせながら、そんなことを考えた。