銀幕症候群 症例Ⅴ

 最近、巷では銀幕症候群の患者の殺人行為を映したものと思われる殺人ビデオが出回っているらしい。
 むろん、殺人ビデオというのは通称。実際はビデオではなくDVDのディスクで、盤面に手書き文字で「極秘」と書かれているとのこと。おそらくただの噂だろう。オイルショック時のトイレットペーパー騒動を挙げるまでもなく、集団で恐慌状態に陥った人間というものは、なぜか妙なデマを流しては勝手に混乱することが多々ある。
 常識的に考えて、殺人ビデオなんてものが簡単に出回るわけがない。ただの殺人ではなく、視界に入った人間をすべて殺戮するという銀膜症患者の映像であるのだから、そう簡単に流出することはないだろうとわたしは思う。もし出回ったとしても、やらせであるか現実であるかの見分けなんてつかない。死体が人間を演じることはできないが、人間は死んだふりをすることができるのだ。最初は生きている人間を使い、途中からは人形にすり替えるという手もある。今は映像合成技術というものが存在するのだから、完璧な殺人ビデオなんて作り得ない。そもそも、銀幕症候群が流行する以前からそういうビデオの類は存在していたが、いずれもやらせであるという可能性がぬぐえない代物ばかりだった。いずれにしても、死体が存在しなければ、映像の中の殺人を立証することはできないといえる。

「でもさ、本当にそれが存在するとしたら、見てみたくない?」
彼は好奇心に目を輝かせてそんなことを言いはじめる。まったくもって馬鹿な男だ。だが、こういう、好奇心以外のすべてを忘れてしまったような人間というのは世界に数多く存在する。人口の半分以上を占めていると言っても過言ではないくらいにポピュラーな人種である。
「見たくない」
わたしはそう突っぱねる。実際のところ、自分はその殺人ビデオを見たいのか見たくないのか、よくわからなかった。見たいかどうかを考えるよりも先に「そんなものの存在は信じられない」という気持ちが生まれてしまい、うまく考えられない。そんなことを馬鹿正直に言っても不思議がられそうなので、あえて嘘をついておいた。
「えー、やっぱり君は変わってる。普通なら絶対見たいよ」
納得できない、と言いたげに彼は上目遣いになる。
「だって、誰も見たことがない映像だよ? 銀幕症候群ってどんな病気なのか、現実がどうなのかを僕らは何も知らないわけだろう?」
それは確かにそうだったが、だからといってみんながみんな、それを見たいなどと思っているわけはない。人間とは思えない獰猛な腕力で人を素手で殺戮するという銀膜症。それが事実であるならどんな凄惨な風景がそこに広がっているかわからないというのに、この男と来たら、新作の映画でも見るような軽い調子なのだ。きっと、こういう奴は実際に患者や被害者の状況を見たら心底後悔するに決まっている。わたしは心の中で彼をそう批評した。
「くだらない。そんなことをしている暇があったら、家の中に隠れてじっとしていた方が賢明じゃないか?」
わたしのその言葉に、彼は不服そうに唇を尖らせた。この男、もう二十歳を過ぎているというのに動作がひどく幼い。ちなみに今わたしたちが話しているこの場所は、ありふれた喫茶店である。周囲には数人の客がいるが、もしもこの客の中に銀膜症患者が混じっていたら……大変なことになるだろう。その人物が銀幕症候群に感染しているかどうかを、見かけだけで判断することはできない。家の中にいれば絶対安全ということはないが、外が危険なのは事実だった。それでも、どの店も客が途切れないというのは不思議である。みんな、半ば生きることを諦めつつあるのかもしれなかった。もしくは、『自分だけは安全だ』という根拠のない自信を持っているのかもしれない。目の前にいる彼はたぶん、後者だろう。彼は問う。
「もうちょっと自分に素直になってもいいんじゃないの? もし目の前にそのディスクがあったら、君はどうするんだよ」
もし目の前にディスクがあったら、わたしはまず中身を確認するだろう。だがそれは彼のように好奇心から来る行動ではなくて、もっと別の――と説明をしようと思ったが、うまいこと言語化できなかったのでやめることにする。所詮、わたしも彼も、そんなに変わらないのかもしれない。わたしが少し高尚ぶっているだけで、最終的にとる行動は大して変わらない。しかし、個人的にはこういう低俗な人間と一緒にされたくはないものだ。
 わたしが答えないので、彼は自分の勝ちだと思ったらしい。ふふんと嬉しそうに笑って、人差し指を得意げに立てる。
「それみろ。君だって僕と同じ……」
だが、彼はそこでぴくりと動きを止めた。その目はわたしを見ていないし、笑ってもいない。わたしの背後にある、何かを凝視していた。普段ふざけて笑ってばかりいる彼が、こんな顔をするのはかなり珍しいことである。
 わたしは彼の視線を追って、振りかえった。わたしの背後にあるテーブルは無人だったが、もう一つ向こうのテーブルにはカップルの姿があった。勝ち気そうな少女と、おとなしそうな男性が話をしているようだ。彼が見ているのはどうやら男性ではなく少女の方らしい。別段特別なことをしているようには見えないのだが――と、そこまで考えてから気がついた。少女が手に持っている白いものの存在に。
 ここからはよく見えないが、マジックで盤面に文字が書かれたDVDディスクのようだ。
 それは、先ほど彼が話していた『殺人ビデオ』にとてもよく似ている。
「なあなあ、あれって『殺人ビデオ』じゃないか」
彼は顔を近づけ、小声でわたしに話しかけてくる。わたしは冷静に返答する。
「こんな人目につく場所で取り出すわけがない」
「でも、『極秘』って書いてあった」
彼はそう断言した。わたしには文字までは見えなかったのだが、彼はしっかり見ていたらしい。単純に彼の方がわたしより目がいいというだけの話なのだが、ある意味では好奇心からくるすさまじい執着が彼の視覚能力を特化させたと解釈できないこともない。やれやれだ。
 わたしと彼はしばらくカップルを見物していたが、二人は親しそうに会話を交わしているだけで、特に不審な様子はない。会話の内容が断片的に聞こえてくるものの、そんなに物騒な会話には思えない。
「僕、ちょっとあっちに行って、あの子に聞いてみようかな」
彼は好奇心を押さえられなくなったらしく、ついにそんなことを言いだした。今にも椅子から立ち上がりそうになっている彼を、わたしは睨みつけて止めた。
「やめとけ。邪魔したら悪いだろ。そもそも、何て言うつもりだ」
「『それ、殺人ビデオですか』?」
「馬鹿か」
そんなことを言われて、素直に「はい、そうです。あなたも見ますか?」なんて応じる人間がいるはずがない。
「でも、このままじゃ引き下がれない」
彼は真摯な目をして言った。その姿はまるでゲームの主人公、世界を救う勇者のようで、わたしはその顔に騙された。実際のところ、彼がディスクを手に入れても世界どころか誰も救われないのに、協力してもいいんじゃないか、などと思ってしまった。次の瞬間にはそんな自分を馬鹿だと思ったし、協力する方法も思いつかなかった。
 たぶん、わたしも心のどこかで殺人ビデオが見たいと望んでいるのだろう。だから、そんな風に揺らいだりする。まったくもってくだらなく、俗な自分が嫌になる。俗っぽいものが大嫌いなのに、なぜかそういうものに興味を持たずにはいられない。マスコミュニケーションなんて不要な世界に生きていたいくせに、テレビのチャンネルを変える手を止められない。真にくだらないのはマスコミではなくわたし自身の方ではないか。それは極論だし、心底そう思うわけでもないが――たまに、こういう無意味な思考に陥ってはループを繰り返すことがある。結局のところ、人間は情報を求めなければ生きていくことができず、好奇心を失ったら死んでしまう生き物なのかもしれない。それならば、その欲望に正直である彼の方が、わたしよりも人間らしいのだろうか。殺人ビデオに魅せられてしまう人間たちは、正しいのだろうか。
 わたしよりも彼の方が正しいというのなら、彼にすべて託してみてもいい。不意にそんなことを考えついた。人間の思考回路というのは不思議なもので、それまでの自分のポリシーに反したことでも平気で受容してしまうことができる。彼の欲望を満たすことで何かが変わるのならば、それはそれでおもしろいのかもしれない。なぜかこのときのわたしは、そんな結論に至った。理屈もなく、理由もなく、あるとすれば言い訳だけだろう。そもそも、理由なんてものはすべて個人の言い訳に過ぎない。

 人間は元来倫理によって個体を守ろうとするが、倫理などというものは所詮目に見えないものだ。存在するかどうかすら危うい、偶像だ。目に見えないもので人間を止めることはできない。もちろん、好奇心だって、空想の中の殺人ビデオだって、目には見えないものだけれど、少なくとも目の前にいる見知らぬ少女が手にしているディスクは、目に見える。そこに確かに存在する。わたしと彼はそれに興味を抱いてしまった。目を離せなくなってしまった。それが答えではないだろうか。わたしは彼に笑いかけながら、
「しょうがない、わたしが――」
うまいこと話を聞きだしてくる、と提案しようとした。

 しかし後に続く単語は、かき消された。
 彼の元にわたしの提案が届くことはなく、また彼が殺人ビデオを手にすることもなかった。なぜなら、彼がわたしの視界から消え失せたからだ。
「な、」
わたしは何か言おうとしたが、何も言えなくなった。視界から消えてしまった彼を急いで探す。彼は数メートル離れた窓ガラスにたたきつけられ、ぐったりと動かなくなっていた。何が起こったのかわからなかったが、もう殺人ビデオどころではなくなったことだけは理解した。わたしの目の前にいるのは彼ではなく、少し顔を俯かせて腕を振り上げている一人の女だった。ウエイトレスの制服を着ているが、盆を持っている様子はない。
「何を、」
とわたしは尋ねようとしたが、彼女は黙ったまま足をきれいに回転させて蹴りを繰り出す。そばにいた男の体が飛んだ。人間ではないかのような、無駄のなさすぎる動き。何の感情もないかのような透明すぎる瞳。これが銀膜症患者だ、とその場にいる全員が悟った。その数秒の間にも人間が蹴られた石ころみたいに宙を飛んでいる。死因はわからないが、彼らがもう助からないということだけは何となくわかった。そして、もう数秒もしないうちに自分も宙を舞って叩きつけられて死ぬのだろうということも。
 好奇心なんて捨てて、家に閉じこもっていればよかったのだ。先ほど自分で言ったじゃないか。家で閉じこもっている方が賢明だと。そうしなかったのは命がどうなってもよかったからではない。わたしも彼と同じ。自分だけはそんな目には遭わないと妄信していた。実態のわからない銀膜症という存在は、映画の中の出来事みたいで現実離れしていて、危機感が薄れていたのもあるだろう。
 ここにいる全員がその後悔を共有している。まさか自分が死ぬなんて思わなかった、まさか自分の前にこんな災厄が降ってくるなんて考えもしなかった、まさかこんなタイミングでこんな風に、こんなにあっけなく、人生が終わってしまうなんて思いつくことすらなかったと。

-Powered by HTML DWARF-