第一章 「あの子」と彼の物語

 駅のホームにたたずむ彼女を見た瞬間、髪の金色と黒い服のコントラストが目に焼きついた。まれにみる美少女だった。美麗すぎて、違う世界の住人にすら見えた。とりあえず、その女の子の特徴を挙げておこう。金髪、おかっぱ、前髪は真ん中わけ。意志の強そうなつり目で、体は全体的にスリム。服装は、男の俺には説明しにくいのだが、黒いチュニック(というのだろうか、ひらひらとフリルのついたいかにも『オンナノコ』風な服だ)に長めのひだつきスカート、黒いサンダル、と黒づくめ。遠目に見れば魔女のようだったかもしれない。
 ホームを春の風が吹き抜けて行った。透きとおった静謐な空気を含んだ風で、彼女の金色の髪が揺れる。俺は呆然とするばかりだ。なぜなら、先ほどからずっと、彼女の視線は俺に注がれたまま。微動だにしていないからだ。
 俺と謎の少女はホームの同じ側に立っている。二人とも、空いたベンチには座らず、立った状態で電車を待っている。少女と俺の間にある距離は、電車の車両一つ分くらいだ。駅は閑散としているが、俺と彼女の間には眼鏡をかけた実直そうなサラリーマンが一人。俺たちと同じく電車を待っているようだ。
 少女はまだ俺を見ていた。なんでこの子は俺を見ているんだろう。彼女が俺を見ていることに気づいてから、もう数分が経とうとしている。電車もそろそろ来るだろう。少女の表情は読めない。完璧に無表情だった。
 俺はどうしたらいいのか。どうして俺を見てるんですか、とか、そういうことを彼女に聞くべきなのだろうか。
「思いあがってんじゃねえよ。誰もおまえのことなんか見てない。ってか見たくない。……独身ニートがこんなところで何してんの?ってゆーかぁ、その服激ダサなんですけど。ニート臭全開。赤チェックのカッターシャツが許されるのはぁ、小学生までだよねーキャハハ」
考えうるセリフを詰め込んで脳内でシミュレーションを開始してみたが、ネガティブな予想ばかりを無理に詰め込みすぎたため、俺の思考回路および精神が深刻なダメージを受けた。俺は自分が独身かつニートの二十代後半男性、そしてオタクであることに多大なるコンプレックスを持っているのだ。初対面の美少女にこれだけコンプレックスを指摘されて嘲笑されたら、たぶん脆弱な精神を持つ俺はホームへ華麗なダイブを決めることだろう。俺、ご臨終の危機だ。
 ……って、なんで自分で自分を追い込んでいるんだ。今はそんなことをしている場合ではない。謎の少女はまだ俺の方を見ているぞ。死なない為にも、行動しなければならない。
「……ぁ、の」
俺が彼女に何か言いかけた、そのとき。耳障りな雑音と共に、電車がホームに滑り込んできた。
 彼女の口が動いた。電車のせいで、何と言ったのかはわからなかった。俺に話しかけたのだろうか。目を瞬き、
「え?」
と間の抜けた声を出すことで答えると、少女は子犬のように俺の方へ駆け寄ってきた。
「一緒に、帰ろう?」
無表情のまま、金髪碧眼黒づくめ少女は、俺にそう声をかけた。流暢な日本語だった。どこか懐かしい声であるような気がしたが、たぶんそれはテンパった俺の気のせいだ。だって、こんな美少女の知り合いは俺にはいない。いるはずがない。
 俺の思考が緊急停止している間に、サラリーマンの男はさっさと機敏な動きで電車に乗り込んだ。ガタゴトと音をたてて電車が去っていき、必然的に――ホームには俺と謎の少女、そして駅員が残されることとなった。



 俺は道を歩いている。家に帰るためだ。電車を降りてから、俺の背後にぴったりと一定の距離を置いてついてくる少女は、何も言わない。表情も変わらない。何か尋ねるべきなのかもしれないし、ついてこないでくれと言うべきなのかもしれない。しかし俺は何も言えずにいた。俺はニートかつオタクで童貞で、もうすぐ魔法使いになれそうな年齢なのだ。今日外に出て電車に乗ったのだってただの気まぐれで、基本的にはひきこもりだ。親の仕送りでかろうじて食いつないでいる阿呆だ。外に出るのも、声を出すことすらさっきの「あの」が久しぶりだったこの俺が、見知らぬ少女に話しかけられるはずもない。
 結局そのまま自宅に着いてしまった。汚いアパートの二階に俺の部屋はある。ちょこちょこと階段を上る少女の姿はとても愛らしかったが、さすがにこう言わずにはいられなかった。
「あのさ、なんで俺についてくるの?」
少女はかくっ、と音がしそうな動作で首をかしげる。表情は変わらない。ロボットのような感情表現だ。
「彼女、だから」
「はぁ?」
彼女。この人形のように華奢で現実離れした少女が?
 ……俺は何か悪い夢でも見ているのかもしれない。いや、むしろいい夢か。
「人違いじゃないかな。はは。俺、彼女とかいないし。ほんと」
とりあえず勇気を出して、妙なフラグをぶち壊してみた。もし俺が記憶喪失で、この子が本当の彼女であるという記憶を忘却している、とかいう展開だったら、この子は泣きだしてしまうかもしれない。だがその可能性はたぶんない。人違いか、この子の頭の中がかわいそうな状態になっている可能性が高い。もしそうなら病院に連れて行ってあげた方がいい。あるいは、新手の詐欺や宗教勧誘かもしれない。それは危険だ。早くお帰りいただいた方がいいかもしれない。しかし彼女はこう言った。
「わたしは、あなたの彼女。絶対、揺るがない事実」
大告白だった。『絶対揺るがない愛』を宣言されてしまった。どうしよう。胸が高鳴って来るのを感じる。
 やばい。追い返さないといけないのに、深みにはまりそうだ。だいたい、このロボット的な無表情と抑揚のないしゃべり方、これがまずいけない。俺のストライクゾーンにぐっとくるキャラクターだ。これで「あなたは死なないわ。わたしが守るもの」とか「……ユニーク」とか言われようものなら、俺はこの子のために新興宗教に入ったって構わない。高い壷を買わされようとも、自殺オフ会に誘われても、あえてその道を歩む。歩みたい。それがたとえ、屍でできた道であっても、彼女と一緒なら乗り切れるだろう。おまけに美少女。どれだけボキャブラリーの貧困さを指摘されようとも、「美少女」としか表現しようのない美少女なのだ。これはもう、地獄の底にたどり着こうとも、この子の彼氏でいてやりたいところである。
 そんな馬鹿なことを考えつつ、俺はじりじり後ずさる。誘惑に負けてはいけない。そうは言ってもやはり、屍でできた道を歩むのなんてごめんなのだ。そんな目先の萌えに釣られて人生を棒に振ってはいけない。もう半分ほど終わりかけている負け組人生だが、この一線を越えたら本当に終わってしまう。人生の終わり、それはすなわち死だ。さすがにまだ、死ぬのは嫌だ。
「…………?」
彼女は不思議そうに首をかしげた。かくっ。さっきはロボットのようだと思ったが、今度は猫のようだと思った。着々と俺の中にこの子への愛着が生じている証拠である。
「彼女だから、一緒にいるの。だめ?」
「いやあ、俺オタクだしニートだし、そもそも俺の部屋超汚いし、君の彼氏じゃないし、だめかだめじゃないかと聞かれたらだめじゃないけど、いやその」
彼女の瞳が俺を見た。ガラス玉のようだとまず思った。その次は深海の底のようだと思った。しかし最終的に――彼女の瞳はウサギのようだと感じた。俺は小動物に目がない。ああそうだ、ここに認めよう。俺はこの子をかわいいと感じている。この子の彼氏になりたい。
 金髪の少女は至近距離から俺を見上げた。
「だめじゃないなら、いい、よね」
 ビー玉でも落としたかのような、か細い声。その声の最後に付け加えられた「よね」という語尾の意外性が俺の心にクリーンヒットした。普通、こういうキャラなら、そういう語尾は付けないものだろう。意外性、すなわちギャップ萌えだった。
「いいです。君が俺の彼女でも、全然いいです」
さようなら、俺のプライド。そして人生。萌えって最高だなあ。
 こうして、俺には金髪碧眼の彼女ができた。ある意味勝ち組かもしれないし、もしかしたら最強の負け組かもしれなかったが、とりあえず前途多難だと思った。



 彼女ができて最初の難関、それはもちろん、俺の部屋を彼女に見せることだった。
 こうして、なぜか突然家に押しかけられる形になってしまったので、見せてはいけないものを隠す時間はなかった。PCの横に積まれたエロゲとギャルゲの山。ベッドの上には漫画(18禁含む)とライトノベル。棚の上にはフィギュアケース。中にはフィギュアがいっぱいだ。棚の中にもやはり、エロゲ、ギャルゲー、漫画、アニメ雑誌がぐちゃぐちゃと醜く詰められている。つけっぱなしのPCのデスクトップ画面の壁紙はもちろん、二次元の女の子だ。そして部屋の床に散らばっているティッシュ、もといあまりコメントしたくない物体に関しては、もう何も言えない。……こんな、女の子どころか男にすら見られたくないような部屋を、どうしてこんなかわいい子に見られているんだろうか。世の無常、いや無情を感じる。
「…………」
この光景を見た彼女は無言だった。あまりにも心臓に悪い無言っぷりに、俺は死にたくなった。いや、もう死ぬべきだろう。こんなものを他人に見せるなんて、万死に値する。親にすら見せたことないのに。
「……掃除」
「え?」
一言だけ単語を口にして、彼女が機敏な動作でしゃがみこむ。何をするのかとはらはらしながら見ていると、床にちらばっているゴミを拾いはじめた。
 もちろん、前述したティッシュも含めて。
「ちょっと待って! ストップ!」
ぴくりと少女が動きを止める。俺は尋ねた。
「……何してるの」
「掃除」
ゴミを両手に持った彼女はどこか誇らしげにそう断言した。
「彼女だから。掃除、するの」
「しなくていい。特にそのティッシュは拾わなくていいからっ!」
もう一度しゃがみこみ、ゴミを元の場所へと丁寧に戻す少女。「これでいい?」とでも言いたげに首をかしげる彼女を前にして、俺はほっとため息をついた。
 ……しかし。彼女はじっとりと俺を見る。表情はないのに、気持ちはテレパシーのように響いてくる。掃除したい。掃除させて。彼女の視線は俺にそう言っていた。
「……一緒に掃除、するか」
視線の圧力に負けてそう提案してみた。こくりと頷く少女に、とりあえず一番見られてもいい場所、キッチンと風呂場の掃除をさせている間に、俺は見られたくないものの処分を速やかに行った。隠してもこの先見つかる可能性があるため、猥雑なものは全部廃棄処分である。泣きたかったが、ぐっと我慢した。これが大人の階段を上るということなのかもしれない。
 いや、俺、もうとっくに大人なんですけどね。



 掃除は夕方まで続いた。本当はもっと早めに切りあげたかったのだが、少女の始めた掃除はなかなか本格的で、俺の部屋は徹底的にピカピカにされてしまった。業者でも呼んだのではないかと思うほどのピカピカっぷりだ。生活スペースも二、三倍に増え、動きが取りやすくなった。
 掃除が終了するころには、巨大なゴミの山がアパートのゴミ置き場に築かれていた。
「これ、全部俺んちのだってバレたら大家さんに怒られそうだなあ」
と嘆きたくなるほどのゴミの多さだ。我が家から出た大量のゴミは、ゴミ置き場を完全に占領している。一つの部屋から一日にこんなに多くのゴミを出せるなんて、俺は今まで知らなかった。ギネス記録を叩きだせそうだと思ったが、特に根拠はない。もっとも、そんな不名誉な記録は誰も欲しがらないだろうけど。いやはや、ひきこもりの一人暮らし男性が部屋にゴミをため込む能力について、誰か研究論文でも書けばいいんじゃないだろうか。この能力を他に生かせば、俺たちはもっと世の中のためになる人間になれるのになあ。
 と、そんな阿呆なことをつらつらと考えつつ、俺は何をしているのかといえば。
 待っているのだ。キッチンにいる彼女が夕食を作り終えるのを。
 イベントその二。『彼女の手作り料理を、一緒に食べる』である。
 トントントン、という軽やかな包丁の音に始まり、コトコトと鍋の煮える音や、彼女が狭いキッチンを走る音などが聞こえてくる。ひたすらその音を聞いているだけで、なんだかおなかがいっぱいになってしまいそうだ。俺のために誰かが食事を作ってくれているということが、こんなにも幸福をもたらすなんて、知らなかった。もう十年以上、他人の作った料理なんて食べていない。親ともしばらく会話していないし、食事は主にコンビニ弁当だ。キッチンをまともに活用するのも、数年ぶりかもしれない。
 台所からは香ばしいスパイスの香りがしてくる。カレーだ。食欲をそそるにおいに包まれながら幸福に浸っていると、カレーの皿を持った少女が姿を現した。どこから持ってきたのかわからないが、かわいらしいエプロンをしており、その様子は少し満足そうだった。まあ、その顔はやっぱり、無表情なのだけれど。
「いただきます」
俺は差し出された皿とスプーンを受けとって、カレーを食べ始めた。うまい。俺は辛い物があまり好きではないのだが、彼女の作ったカレーはほどよい辛さで、まるで俺の好みをあらかじめ知っていたかのようだった。そのことをそれとなく聞いてみたところ、
「彼女、だから」
と短い答えが返ってきた。なるほど、彼女だからか。解せない部分も多々あるが、俺はもう詮索しないことにした。今はカレーを味わうことに集中しよう。
「そういえば、君は食べないのか」
彼女が、俺の食べている様子を眺めているばかりで自分の食事を開始しようとしないことに気づいたので、そう尋ねてみた。かくっ、と例の動作で首をかしげたのち、彼女はキッチンへ行き、カレーの盛られた皿と、スプーン、そしてなぜかマヨネーズを持って戻ってきた。
 皿をテーブルに置く。そして豪快な動作で――彼女はカレーライスの上からマヨネーズを大量にかけた。マヨネーズの容器はあっという間に空になる。俺は、あいた口がふさがらなかった。なぜ、カレーにマヨネーズなんだ。しかもそんなに多く。
「あの、なんでマヨネーズをかけるのかな。そのままでも、すごくおいしいのに」
控え目にそう聞いてみた。少女はスプーンでカレー(というかほぼマヨネーズである)をすくって口に含みながら、
「カレーに、マヨネーズは欠かせない」
当然のことのように答えた。あまりに堂々としているので、俺は「あ、そうですね。欠かせないですよね」と返答しかけたが、ぐっとこらえて突っ込みを入れた。
「いや、そこはちょっと欠かせた方がいいんじゃないかとっ!」
しかし少女は引かなかった。
「いや。マヨネーズは必須」
今までで一番感情のこもったセリフであるように感じられた。俺はそれ以上は何も突っ込まない。そうだ、人の趣味に横やりを入れるのはよくない。彼女がマヨネーズを主食にすることによって、他人に迷惑をかけているわけではないのだ。これ以上どうこう言うのはやめておこう。どんな完璧そうな人間にも、個性や欠点というのはあるものだ。



 後から考えると……このマヨネーズ事件のおかげで、この子に人間らしさを見ることができたような気がする。ぶっちゃけた話、俺は
「この少女は、精巧にできたアンドロイドか何かで、人間ではなくロボットなんじゃないか」
と疑っていたのだ。あまりに無表情だし、行動もプログラムされたものを精密に行っているようなものだったからだ。無茶な考えだと思うが、この状況もかなりむちゃくちゃなものなので、どんな現実離れしたこともありえないとは言えない。
 でも、俺はこのとき「それは違う。この子は人間だ」という結論に達することができた。食べ物の好き嫌いをする、偏食をするということは、人間にしかできないことだと思った。まあ、その結論が正解だったかどうかは……今の俺にはよくわからないのだけれど。



「あの、俺は床で寝るからさ。ベッドは君が使ってよ」
そう提案して、俺は床にタオルケットを敷く。金髪の少女は、どこから出したのだかわからないが、パンダ柄のパジャマを着ている。白いフードにはパンダの耳が付いており、なかなかファンシーでかわいらしい。
 少女はベッドに横になり、やがて寝息をたてはじめた。布団をかぶっているため、寝顔を見ることは残念ながら不可能だが、たぶん無表情で寝ているんだろう。
 俺はといえば、寝付けなかった。床で寝ているからではなく、彼女の寝息が絶えず聞こえてくるせいだ。誰かと同じ部屋で寝るというだけでかなり落ち着かない上に、その誰かがかわいい女の子、しかも俺の彼女(暫定)なのだ。落ち着いて寝られるはずもない。
 音を立てないよう注意しながら、俺はパソコンの電源を入れ、ヘッドホンを付けてネットゲームを開始した。ちなみに、ネットゲームの中でも俺は非常に内向的で、たいていのクエストを一人でこなしている。たまたま遭遇した他のプレイヤーに話しかけられても返事をせずに逃げ出すため、裏で「あいつは何者なんだ」と話題になっているとか、いないとか。交流ができないならネトゲではなく普通のゲームをしろ、と言われてしまいそうだが、俺はこのゲームが好きなのだ。レベルも相当上げたし、今更他のゲームに乗り換えるのも嫌だ。
 そんなこんなで、俺は今日も徹夜でクエストをこなしまくり、朝の五時に就寝。清く正しい、ひきこもりの正統たる時間の使い方だった。
 彼女ができたからと言って、そう簡単に人間が変わるわけはない。ひきこもりはひきこもりだし、ダメ男はダメ男なのだ。



 誰かが俺の服の裾を引っ張っている。
「うん……」
目を開ける。少女が困ったような顔で俺を見ている。まどろむ意識の中で、ああ、そういえばこの子が部屋にいるんだっけ、と思いだす。
「んー」
まだ眠い、もう少し寝かせてほしい。
 俺がそう言うと、彼女はしゅんとした様子で外を指した。
「外に出たいのか?」
少女が頷くが、俺はとても起きる気になれなかった。それに、俺は晴れの日には外に出ない主義なのだ。ひきこもりの身には、昼間の太陽は眩しすぎる。傘で顔を隠せるし、外を出歩く人間も少ないという理由で、俺はいつも雨の日に外出をしている。
 早く夢の世界へと戻りたくて、俺はこう言った。
「……明日、雨が降ったらな」
「わかった」
と答えたきり、少女はもう何も言わなかった。俺はすぐに眠りに落ちた。



 パタパタという水の音で目が覚めた。雨が降っているらしいな、とぼんやり思いながら身を起こして、俺はおやと思った。窓から見える空は雲一つない快晴だ。では、この音はなんだろう。不思議に思いつつ、様子を見るために窓から首を出してみると、首筋にひんやりとしたものがかかった。水だ。しかも多量の。俺は、滝のような勢いで降る水をかぶった。あっという間に首から上がびしょ濡れになってしまった。天気雨にしては、雨量が明らかに多すぎる。
 何が起こっているんだ。訳がわからない。
 戸惑いながら、水の降ってくる方――上を見る。見覚えのある鮮やかな金色が視界に入り、俺は思わずあっと声をあげた。
 アパートの屋根の上に、金髪の少女がちょこんと正座している。その右手には大きなじょうろ。さっきから雨を降らせていたのはこの子だったのか。屋根から水を降らせまくるなんて、かなり迷惑な行為である。いつからやっていたのかはわからないが、早めにやめさせないと俺の立場がやばそうだ。それに小さなアパートとはいえ、屋根から転落したら大怪我をするだろう。早く降ろしてやらないと。
「おい、降りるんだ。そんなところに座ったら危ないぞ」
慌てるあまり裏返った声で叫んだ俺をまっすぐに見て、少女は頷いた。屋根の端にはしごがかけてあるらしく、小柄な少女はそこから難なく地上へと降り立ち、しばらくして俺の部屋に戻ってきた。
「なんであんなことを。屋根から落っこちたら危ないだろう」
ついきつめの口調で言ってしまった。少女はうなだれてしまう。
「雨、降ったら――お出かけ」
しゅんとした少女は消え入りそうなか細い声でそう言った。それを聞いてようやく、思い出した。昨日の俺が寝ぼけながら言った言葉を。
『明日、雨が降ったらな』
この子は、あの約束を叶えてもらいたかったのか。そんなに俺と出かけたかったというのか。俺が半分寝ているような状態でテキトーに言った言葉が、いつのまにか彼女にとって大切な期待になっていた。いや、だからといって屋根から水まきをしていいわけではないし、俺自身は別に悪いことは何もしていない(と思う)のだが……なんだか罪悪感で胸がいっぱいになってしまった。
「ごめん。雨、降ってほしかったんだな」
少女が、下を向いたまま頷く。
「お出かけ、したかったんだな」
こくり。目を伏せた少女は、しっぽを垂れた犬のようにしょぼんとしている。
 こんなに反省しているのだから、許してやらないと男ではないだろう。というか、これ以上この子をしょげさせると、俺の良心がちくちく痛みそうな気がする。
「よし、じゃあこれから出かけよう」
俺がそう言って勢いよく立ちあがると、少女は驚いた様子で目をぱちぱちさせた。
「いいの? 本当に?」
とでも言いたそうに俺の方を見てくるので、俺は力強く頷いた。
「ちゃんと雨、降っただろ。君が降らせてくれた。俺のために」
どうだ、こんなかっこいいセリフも言えるんだぜ? 見なおしただろう。
 ……と胸を張ったのもつかの間、俺はそのセリフを言い終わらないうちに、
「へっくしょーい!」
と間抜けなくしゃみをしてしまった。
 そういえば、頭が濡れたままだった。俺が鼻をすすっていると、機敏な動作で彼女がバスルームへとタオルを取りに行った。
 数分後、髪の毛を乾かし終えたので改めて、外に出るための上着を羽織った。俺が準備をしているうちに、彼女ははずむような足取りで玄関へと駆けていった。



 照りつける太陽の光は眩しい。俺はこの眩しさからずっと逃げつづけていた。昔、一人でこの光の下を歩いていたとき、干からびてしまいそうで怖かった。
 強烈で強い光のもとに人は集う。人は日の光の下で生きるものだ。しかし、俺にはその光が恐ろしかった。光に照らされたら、影ができる。自分の影――汚い部分は、見たくない。暗い所に逃げ込んでしまえば、影はできない。だから、俺は光のない場所で、ずっと一人でいたんだ。
 でも今、俺は光の下を歩いている。横には嬉しそうに歩く少女。
 彼女がいる。それだけで俺の精神は干からびずに安定していた。
 誰かが隣にいる。違うのはそれだけなのに、こんな俺でもまっとうに道を歩いていてもいいのだ、と思えてくるから不思議だ。今まで、ただ雨の日に暗い道を歩いているだけでも、劣等感にまみれずにはいられなかった俺が、胸を張って生きられる。誰かと歩くということは、なかなか尊いものだ。たとえ正体不明の偽物の彼女であったとしても、この子がいてくれてよかったと、心から思う。



「ごめんな。こんなものしか買ってやれなくて」
俺は道を歩きながらそう謝ったが、少女はふるふると首を横に振った。彼女がゆっくりと食しているのは、コンビニで買った菓子パン、しかも子供向けのおまけシールがついたものだ。せっかく彼女と外に出たのだ。本当なら、おしゃれなカフェに連れて行ってコーヒーやケーキをごちそうしてやるべきなのだろう。が、俺はそんな店に入る勇気も金も持っていないのだった。スーパーですら人が多すぎて近づくことができないので、仕方なくいつも通っているコンビニに行った。何か買ってやる、と言ったものの、俺の財布には小銭が数枚入っているだけで、菓子パンくらいしか買えなかったのだ。情けない。
「おいしいか」
と俺が尋ねると、彼女はこくこくと頷いたが、どう考えても菓子パンがそんなにおいしいわけはない。俺はうなだれてしまった。なんて甲斐性のない彼氏なんだ。こんなに自分をダメだと思ったのは久しぶりかもしれない。
「……ん」
と小さな声がしたので俺は自分のダメっぷりを反芻するのをやめて隣を見た。そして、
「うわっ」
と声をあげた。少女が、菓子パンについているおまけのシールを口に入れて食べようとしていたからだ。
「そんなもの食べちゃダメだ! それは食べれないんだぞ」
少女は不思議そうにシールを口から出した。
「ドーナツ、じゃないの?」
と彼女が訊く。怪獣の絵が描かれたシールは、どう控えめに見てもドーナツには見えない。
 というか、意味がわからない。俺がそう思っているのを察したのだろう、少女はシールの入っていた小袋を指した。『Don't Eat』と英語で書かれている横に、『食べられません』という字がある。
「『ドーナツ、食べる』」
と彼女が誇らしげに言った。誇らしげなのはいいが、いっそ見事なまでに英語の読みを間違っている。というか、『Don't』は正しく読めないのに『Eat』はしっかり解読できていたり、その横の『食べられません』を清々しく無視していたり……突っ込みどころ満載だ。天然、というのはこういう子のことを指すのだろうか。
「君は……おもしろいなあ」
俺は思わずそう言って笑った。一度笑いはじめると止まらなくなって、腹を抱えて笑ってしまう。少女は首をかしげてそれを見ている。
「あのな、それは『ドント・イート』って読むの。食べちゃいけないって意味だ」
と指摘してやると、しばらくぽかんとしたあとに、ぷいとそっぽを向いてしまった。自分の間違いが恥ずかしかったのだろう。そんなところもかわいいな、と思った。



 そのとき、後ろから肩を叩かれた。
 振り向くと、茶髪の男がにやにやと俺を見ていた。どこかで見た顔だった。
 嫌な予感がする。
「あっれー、谷山じゃん。超久しぶり」
谷山、というのは確かに俺の名前だった。
 俺は改めて男を見る。下世話な笑い方。品のないスーツ。他人を値踏みするような目。おそらく客引き中のホストだ。明らかに俺と相容れないものだった。好奇に満ちた視線に、背筋がぞわりとした。
 俺は闇の中にいる感覚を思い出す。やめてくれ。俺を勝手に光で照らすのはやめろ。太陽の下に引きずり出すのはやめろ。そう叫び出したくなったが、横に彼女がいるのを見て思いとどまった。ここは光の下だが――俺は干からびない。そう決めたじゃないか。俺は自分を奮い立たせようとするが、目の前がちかちかしてきて、うまく自分を制御できない。
「俺のこと覚えてない? ほら、高校で一緒だっただろ。岡田だよ」
「おか――だ」
俺の口は震えるように動いてそれだけを吐き出した。
「そうそう岡田。谷山、お前、結局作家にはなれたの? ……大作書いてデビューしてやるんだ、って息巻いてたじゃん」
「大作……デビュー……小説、家」
記憶が強引に掘り起こされる。俺が夢も希望もないニートになる前の記憶だ。



 俺は小説家になりたかった。昔から、自分だけの世界を、物語を生み出すことが大好きだったから。自分の考えた世界を動かす神の感覚を、何よりも心地のいいものだと思っていた。設計図どおりに動く虚構の世界は、自分の思い通りにならない現実の世界とは違って、とても意義のあるものに思えた。
 俺はこんなにもすごい世界をつくれる。だから小説を書いて、作家になるんだ。そう言いつづけてきた。大学に入って、毎日を原稿用紙やパソコンと向き合って過ごした。ずっとずっと。
 でも、小説家にはなれなかった。
 何度もチャレンジしたけれど、俺の書いたものはまったく評価されなかった。俺はいつのまにか、夢を捨ててしまった。叶わない夢なんて持っていても仕方ない。頑張れば努力は報われるなんて嘘だった。頑張ったって、できないものはできないのだ。
 夢のない俺、小説を書かない俺は――ただの社会の害悪で、物を消費するだけのゴミ野郎だった。
 生きる価値なんてない。
 だって、生きていても何も生み出さないのだから。



「……おい、大丈夫か。なんか顔色悪いぞ」
心配そうに問いかける岡田の言葉も、俺の脳には毒電波のようにじくじくとしみた。
「…………っ!」
この男は悪くないとわかってはいるのだが、体は確実に外の世界に拒否反応を示している。正確には外の世界ではなく、『かつての俺』を知っている世界だ。俺はいつでも、人ごみを構成する一人でいたい。通行人Aでいたいんだ。俺の個性を、俺の過去を知っているやつがいる世界には、とっくに俺の居場所はない。みんな俺を疎んでいる。俺は、俺のことを知らないやつだけで構成された狭い世界にしか、いてはいけないのだ。そこから出てきた俺は、きっと世界から排除されてしまう。強迫めいた観念の波が、俺を飲み込んでいく。
 吐き気がこみ上げる。めまいもする。もうダメだ。やっぱり外になんて出るべきじゃなかった。彼の声を聞いているだけで、世界が揺らいで形をなくしていくような気がする。
「ごめん。岡田……俺、帰る」
無理やりに言葉を口から絞り出して、俺は少女の手を引いてよろよろと駆けだした。おーい、大丈夫かぁ、と後ろから岡田が呼びかけていたが、それに答える余裕はなかった。
 少女の顔を見る余裕すらなかったので、彼女がそのときどんな風に俺を見ていたかは不明だ。きっと、蔑むような目で見ているのだろうな、と走りながら思った。



 なんとか帰宅したが、俺の意識は混濁したままで、何度も吐きそうになった。ベッドに横たわる俺の横には、少女が悄然と立っていた。
「ゲンメツしただろ。俺は所詮、こんな人間なのさ」
と俺はろれつの回らない舌で言った。ふはは、と自嘲的に笑ったつもりだったが、実際はまったく笑えていなかった。蛙をつぶしたようなうめき声が喉から漏れただけだ。
 晴れた日に外に出るべきではなかった。晴れた日に外出するということ、それは俺の、内向的で狭い世界から出るということだった。俺は舞い上がっていたんだ。彼女がいればなんでもできるような気がした。この子と一緒なら、外の世界にも出ていける。ひきこもりを脱出できる。そんな根拠のない妄想にとりつかれて調子に乗ったから、こんな目に遭った。これは罰だ。所詮俺は、この部屋から出てはいけないのだ。このまま適当に食いつないで、朽ちていくしかない。
 体が震えて、涙が出てきた。人は他人と関わらなければ生きていけないというけれど、それは逆にいえば、他人とうまくやっていけない人間には生きる資格がないってことなのだ。俺は死ぬべきだ。俺にとって他人とは地獄でしかない。どうしようもなく相容れない、そんな存在だ。他人に見られるのも誰かを思いやるのも、気を使うのも使われるのも、自分のいない場所で自分の噂をされるのも、嫌だ。全部全部、嫌だ。
 あいつらは俺を笑っているんだ。馬鹿にして見下して、俺がこうしている間にも、俺の悪口を言っているに違いない。みんな消えてしまえばいい。消えてくれないのならせめて、俺のことなんて忘れてくれ。俺は消えてなくなりたい。
 ベッドの上で芋虫のように丸まって泣きじゃくった。泣いて泣いて、涙が干からびそうになるまで泣いたが、涙は枯れることがなかった。
 そんな俺の肩に、誰かが手を置いた。
 涙でぐしゃぐしゃになった顔をあげると、少女が俺を見ていた。
「……失望しただろ。これが俺なんだ」
少女は黙っている。
「嫌いになっただろ。こんなやつの彼女なんて、早くやめた方がいいぞ。君まで馬鹿にされてしまう」
こう言えば、彼女は迷わず出て行ってしまうと思っていた。この子は基本的に、俺の言うことに忠実だった。出て行けと言えば簡単に出て行ってしまう、そして二度と戻らない。そんな気がした。
 しかし、少女は勢いよく首を横に振った。さらに、てこでも動かないぞ、と言うように空いた手で布団を掴む。
「いや。わたしは、あなたといる」
「どうしてだ。俺には長所なんてひとつもない。誰にも必要とされてないんだ。君も、そのうち気がつくはずだ。後悔するに決まってる。今のうちに出て行った方が君の――」
君のためでもあるんだ。そう言おうとした。
だが、俺の肩に置かれた手が少し震えているような気がして……俺は黙った。
「……出て行かない。一緒にいる」
彼女はかたくなに主張した。凛とした声が、俺の脳に響いた。
「だから、どうして」
「……好きだから」
泣きだしそうな声が言った。そんな声を出しながらもなお、彼女の顔には表情がなかったが、そんなことはどうでもよかった。俺はただ、自分の耳に神経を集中して、彼女の言葉を受け止めた。

「好きだから、絶対、見捨てない」

よどんだ部屋の空気が、唐突に吹き込んだ風によって清らかに澄んでいく。そんな幻を見た気がした。吐き気はやまないし、俺は情けなくベッドの上に横たわっているし、世界は相変わらず俺には優しくない。何も変わってはいない。
 でも、俺の見ている世界は変わる。好きだと言われるのも、見捨てないと言われるのも、初めてだった。
 まっすぐな、ひたすらまっすぐな……全肯定。
 涙が流れだす。さっきまでと同じ涙のはずなのに、どうしてだろう、今流した涙はどこかが違っていた。頬に温かい軌跡を残すしずくが、じわじわと心にしみていく。
 俺はここにいてもいい。外には居場所がないかもしれないけど、この部屋にはこの子がいる。この子は俺を見捨てない。何度もその言葉を反芻していると、次から次へと涙があふれて止まらなくなった。
 俺は闇の中にいる。でも、闇の中だからといって、誰もいないとは限らない。この子は、俺と一緒にいてくれるんだ。真っ暗な中でも、俺と一緒にいて、寄り添ってくれるんだ。
 ……一緒にいてくれる。そのことに対しての大きな大きな感謝。
 その気持ちは、初めての気持ちじゃない。前にも俺と一緒にいてくれたやつがいた。そう気づいて、はっとした。俺の記憶から抜け落ちていた思い出。そうだ。俺とこの子の他にも、この闇の中には存在している者がいた。もうこの世にはいない第三の存在のことを思い出そうと、記憶をゆっくりと遡る。



 数年前のある雨の日、俺は買い出しのためにアパートを出て、瀕死の猫を拾った。アパートの前に倒れていた黒い猫は、傷だらけだった。
 人間の刃物によってつけられた、たくさんの傷、その傷から流れ出す血。それを見ていると、何かしてやらなければと思った。放っておけなくなって、その子を連れて帰った。慌てて本屋へ走って行って医学系の本やペット関連の本を買いあさり、死に物狂いで下手くそな応急処置をした。
 猫はずっと眠りつづけていたが、やがて目を覚ました。
「……にゃぁ」
一番最初、あいつはか細い声で鳴いた。悲しげに。
 それを聞いて、こいつは人間を憎んでいるのだ、と思った。
 憎まれたって仕方ないよな、とも思う。
 だって、俺も人間なんて好きになれない。自分も、他人も、世界も、大嫌いだった。
「俺たち、気が合うんじゃないかなあ」
ふとそんなことをつぶやいていた。今思えば、俺はその猫に自分自身を重ねていた。他人に傷つけられて、追い込まれて、行く場所がない。そんな気持ちを、俺は知っている。俺の場合は、自分で勝手に傷ついて、勝手に追い込まれただけだ。でも、存在自体を疎まれて排斥される黒猫の姿は、俺にとても似ていた。
 それからしばらく、傷が癒えるまで猫は俺の家にいた。俺はその猫にいろんな話をした。小説家になりたかったこと。高校時代はとても自由で楽しかったということ。大学で嫌なことがあって一日行かずにいたら、結局そのまま登校しなくなり、退学処分になってしまったこと。かわいい彼女が欲しい、普通の人間になりたい、とグチグチ言ったこともあった。
 そんな日々は、楽しかった。話し相手ができたような気がした。何も言葉を答えないで鳴くだけの話し相手は、たぶんそのころの俺にとって、最上の友達だった。
 でも、猫の傷が癒えたので、俺はその子を外へ放してやることにした。晴れた日に散歩もしてやれないダメ飼い主なんて、この子も迷惑だろう。それに、アパートはペット禁止なのだ。大家に見つかったら、俺ごと追い出されてしまうかもしれない。何より、猫に十分な餌をやれるほど、俺は金を持っていなかった。
 外に放すとき、猫は名残惜しそうに俺を振り返ってまたにゃあと鳴いた。
 ごめんよ、ごめん、本当にごめん、とぶつぶつ謝りながら家に戻った。
 誰もいない部屋は、一段と深い闇の中にあるように感じた。
 それから、買い出しに出かけると階段の下でその猫が待っている、ということが何度かあった。
 俺に恨みごとを言いに来ているのだろう。部屋から追い出したから、怒っているのだろう。最初はそんな風に罪悪感ばかり感じていたのだが、いつも階段の下の定位置で俺を待っている黒猫を見ていると、だんだんと愛着がわいてきた。
 そんなサイクルを繰り返しているうちに、一緒に過ごした日々を思い返した俺は、勇気を出して話しかけた。
「おい、元気か」
「にゃあ」
「そうか、元気か」
元気であっても元気でなくても、どうせ「にゃあ」としか言わないのだから、本当の返事がどちらかなんてわからない。だが、初めて目を覚ましたときの悲しげでせつなげな「にゃあ」よりは、今の返事の方がいいかんじだ。こいつは立ち直ったのかもしれないな、と根拠もなく思った。
 それから、雨の日に外出すると黒猫に会う、近況をぽつりぽつりと報告して、一方的な会話をする、ということが習慣になった。いつしか雨の日が来るのが楽しみになった。きっと、あいつは迷惑に思っていただろう。俺は、勝手な仲間意識をあの猫に押し付けていただけだ。あいつはただまっすぐに俺を見ていたから、そのまっすぐにはちゃんと答えないとな、と思うこともあったけれど、それすらも俺のエゴであったのは間違いない。
 神様がそんな俺の身勝手を叱ったかのように、黒猫はある日アパートの裏で死んでいた。外傷はなかった。おそらく、寿命で死んだのだろう。
 もともと、瀕死の重傷を負っていたのだ。傷が治ったからって、普通の猫と同じだけ生きられるはずはなかった。俺は亡骸を抱きしめながらめそめそと泣いたあと、小さな体をアパートの裏にこっそり埋めた。墓石の代わりに、川で小石を拾って来て何個か並べ、あの子が安らかに眠れるように、と祈った。
 そのとき、俺は考えた。あの子の体はここに埋まっているけれど、魂は闇の中へ返って行ったんじゃないかと。俺の部屋の暗い闇の中にあの子がいるような気がするのは、たぶんあいつのまっくろな体が闇を思わせるからだ。他に理由なんてない。きっと。



 次の朝、目を覚ますと超至近距離に彼女の顔があった。緑色の目と視線が合う。どうやら俺を覗き込んでいるようだ。今にもキスしそうなほどの距離だった。うろたえた俺は、
「うわあああっ」
と飛びのいてしまい、残念ながら本当にキスすることはなかった。突然すぎたため、驚くばかりでドキドキする暇すらなかった。……なんだかちょっと、もったいない。
「おはよう」
俺は何事もなかったかのように右手を挙げて挨拶した。
「……おはよう」
と、同じ挨拶が返ってくる。その返事で、どうやらこの子もただ寝顔を覗き込んでいただけのようで、深い意味はないらしいな、とわかった。
 そうこうしている間に昨日のことを思い出して、
「君が出て行かなくてよかった」
俺はしみじみとそう言った。
「あの子みたいに俺の前から消えてしまわなくて、本当によかった」
闇の中に溶け込んでいった小さな体を思い出しながら、俺は独り言のようにつぶやいた。
 俺は今まで、たくさんの人に切り捨てられて、そしてたくさんの人との関係を自分から切り捨ててきた。人を切り捨てて完全な他人になるのは、いつだって簡単にできることだ。関係を断つのは、たやすい。でも、人を見捨てないで切り捨てないで、ずっと一緒にいつづけることは――困難で、つらい。実際、自分から他人を遠ざける生き方は、寂しいという一点を除けばかなり楽だった。部屋でぼうっとしているのは手間がかからなくて楽なのだ。
 少女は照れくさそうにしていた。俺はいつしか、無表情な彼女の感情が読み取れるようになっていた。慣れてしまえば、どうということはない。むしろ、すぐに笑ったり怒ったりする他の人間より、彼女といる方が俺は過ごしやすかった。
 ふと何かを考えついたらしく、彼女はぴょこんと立ちあがって、俺のパジャマの裾を引っ張った。
「何?」
「……あれ、なに」
少女が白い人差し指で示した先には、埃をかぶった白い紙の束があった。
「ああ、それは……小説だよ」
ただし、書きかけのものだったので、
「まあ、ただのゴミなんだけどな」
と付け加えた。その未完の小説は、俺が最後に書いたものだった。
 それを書いている途中で心が折れて、俺の夢は終わったのだ。『書きつづける』という行為は、そのころの俺が思っていたよりずっと難しいことだった。そう理解したときには、何もかもが遅かった。そんな風に夢を失って、ひきこもりになった。
「読んで、いい?」
「うーん……いいけど」
俺は煮え切らない返事をした。そして、返事をしながら少女が『食べられません』という注意書きを読めなかったことを思い出す。
「字、読めるのか」
少女は少し間を置いてから「ちょっとだけ」と答えた。
「じゃあ、読めない字があったら俺に聞いていいよ」
その言葉で、遠まわしに「読んでもいい」ということを伝える。
 少女は嬉しそうに束を取って夢中で読んでいった。隣で何もせずにぼうっとしているのは気まずい気がしたので、俺はパソコンを起動してソリティアを始めた。少女は何回か漢字の読みを尋ねに俺の方へやってきたが、それ以外は何も言わず、黙々と読んでいた。
 数時間経って、少女が顔を上げた。
「……つづきは?」
「続きはない。言ったろ、ゴミだって。書きかけなんだ」
続きがないと知った少女はしょんぼりとしていた。その様子を見ていると何だかいたたまれなくなって、俺は言った。
「……他に書いたやつならあるけど、読むか?」
「読む。読みたい」
弾むような声で答える少女に、机の中から原稿用紙の束を出して渡してやった。高校時代に書いたものも、大学に入ってから投稿用に書いたものもある。かつて俺が書いたものを、見つかる限り全部彼女に渡した。紙の束は次から次へと見つかった。俺はこんなにたくさん小説を書いたのか、と思わず嘆息しそうになった。
 少女は手を止めることなく、原稿用紙のページをゆっくりとめくっていった。俺はその様子を横目でちらちら見ながら、ソリティアを再開した。
 長い時間が経過した。俺はパソコン画面を見ながらうとうとしていたのだが、少女の近づいてくる足音が聞こえて振り返った。
「読み終わった」
と彼女が言った。どこか嬉しそうに。
「そっか。ありがとな、読んでくれて」
「おもしろかった」
少女はどこか必死にそう伝えた。
「……どれが一番、好き?」
なぜか、俺はそう尋ねていた。言ってしまってから、こんな質問をしたら迷惑だろうと気がついた。誰かに好きだと言ってもらえるような作品を、俺は書いていない。それは誰よりも俺自身が知っている。
 しかし少女は困ったそぶりも見せず、紙の束の中から迷わず一つを選びだして、
「これ」
と言った。俺はその束に記されたタイトルを見て目を見開いた。
 それは、中学のころ、俺が初めて書いた小説だった。
 タイトルは「ある国の王子様の話」。
 ある国のわがままな王子が、「一番すてきな贈り物をくれた女と結婚する」というお触れを出す。いろんな贈り物を持った女が訪れるが、彼は絶対に首を縦に振らない。そんな中、一人の女が手ぶらのまま王子の元にやって来る。妖艶な笑顔を振りまく彼女は、王子に「人を愛すること」をプレゼントするという。自分は王子を愛するから、王子は自分を愛せと彼女は言う。王子はその女の尊大な振る舞い、そして意外な贈り物を気に入り、彼女と結婚して末永く幸せになった。かいつまんで語ると、そんな話だ。
「……それ、書きなおして賞に応募してみようかな」
俺はぽつりとそんなことを言った。
 どうしてそんなことを言ったのかよくわからないが、たぶん調子に乗ってしまったのだろう。自分の書いたものを認めてもらえたのが嬉しくて、勢いで決めてしまったのだ。かつて捨てた夢を、もう一度拾うことを。
「……がんばって」
と少女は短い言葉で応援してくれた。それを聞いて、俺は俄然やる気を出した。自分でも単純な馬鹿だと思った。



 それから俺は考えた。この短い物語をふくらませて形にすることを、毎日考えつづけた。少女は俺の邪魔をしないようにいろいろと気を使ってくれた。彼女のサポートを快く感じつつ、ひたすらこの小説をおもしろくすることを考えて、ある日俺はひとつの疑問にぶち当たった。
 この物語の中で、王子は贈り物に「愛」を選んだ女との結婚を決意する。しかし、その選択は正しかったのだろうか。
 今の俺にはこの、最後に添えられた「めでたし、めでたし」の言葉が妙に浮いたものに思える。妖艶な笑みで周囲を圧倒する怪しげな女の、魅惑的な甘い囁き。そんな怪しいものに、従ってしまってよかったのか。
 王子は本当に、正体のわからない女と結ばれて幸せになったのだろうか。女の口車にうまく乗せられてしまっただけではないのか。
 俺が一番気になるのは、この女は普通の人間だったのか、という部分だった。人を見とれさせ、その隙に王子の心をとらえたこの女。もしかしたら、彼女は王子の家の権力を欲した魔物の類だった、ということは考えられないだろうか。
 これを書いた当時の俺は、そんなことはちっとも考えていなかっただろう。でも、今の俺は違う。甘い言葉を囁きながら、他人を謀略へ引きずり込む人間が、この世界には確かに存在するということを知っている。すべては疑ってかからなければならないということを、知ってしまっている。
 昔、俺の書いたひとつのストーリー。
 だが、この物語の終わりは本当にこうなのか?
 「めでたし、めでたし」と締めくくってしまっていいのか。
 そんな疑念が生まれるのは、俺が子供のころの無邪気な気持ちを忘れてしまったからなのだろうか。



 俺の問いに、彼女はまず、
「人間じゃないからって、愛してなかったとは限らない」
と言った。今まで聞いた中で、一番長いセリフだった。そして、その言葉の中には少し怒気が含まれている。
「人間以外は、王子様と、幸せになっちゃだめなの?」
必死に、まるで自分のことであるかのように――少女は問う。俺の心に働きかけようとする。その言葉を否定するのは心が痛んだが、俺はこう答えた。
「だめ、なんじゃないかな」
少女の目が見開かれた。驚いているようだった。傷ついているようにも見えた。
 俺は自分の出した結論を述べた。
「王子はただの人間じゃなくて、その国とその国の民を背負っていた。もし、女のことを心から愛していたとしても、女が人間じゃないと知っていたとしても……自分のわがままで、王家の血筋に、人間以外の異形の血を混ぜることは許されない。それが彼の責任で、義務だから」
俺は最後にこう付け加えた。
「それに、やっぱり人間は人間同士で生きていかなきゃいけないんだよ。人間の輪の中からはじき出された俺がこんなこと言うのは、間違ってるかもしれないけど」



「だから、このラストは変えることにする。後悔するかもしれない。これを書いた昔の俺に対する裏切りかもしれない。けど、いつまでも『過去の俺』にしがみついてちゃいけない気がするんだ」
 俺はそう語った。
 断罪された罪人のように魂が抜けた顔をしている、少女の目は空虚だった。何かに打ちひしがれているようにも見えた。やがて彼女は、俺に近づいてきて、俺のシャツの裾をくいと引っ張る。母親に甘える子供みたいに、少女は俺を見上げた。
「あなたの答え、信じる」
強い調子で、自分に言い聞かせるように……少女は言い切った。
 からっぽだった瞳に、いつのまにか燃えるような光が宿っていた。
 強い意志を宿した瞳を見つめ返しながら、俺は思う。どうしてこの子はこの物語の解釈に、そこまでこだわりを見せたのだろう。かたくなに、真剣に意見を言ったのだろう。
 それは、俺の作った物語に、彼女をそうさせるだけの何かがあったからだと考えてもいいのだろうか。そう思いあがっても、構わないのだろうか。
「ありがとう」
と俺は少女の頭をなでた。ありったけの感謝をこめて、俺はもう一度同じ言葉を繰り返す。ありがとう。その言葉は、繰り返せば繰り返すほど、自分の中にある感謝の気持ちを高揚させていった。



 それから数日して、俺はそれを書き上げた。
 後半のストーリーはこうだ。
 王子と謎の女はしばらくは順調な夫婦生活を送ったが、実は女の正体は人を食らう妖魔だった。
 王子はある日、女が妖魔の姿になり、家来を食っているのを見てしまう。
 女を心から愛していた王子は悩み苦しんだが、家来たちや自分の国の民の命を脅かす存在を許してはおけないと決意する。王子は自分の剣で女を刺し殺し、女の体から流れる血を見ながら、こうつぶやく。
「ごめん。でも、お前を確かに愛していた」
妖魔は何も言わず、ただ目を細めるようにして彼を見て、死んでいった。
 その後、王子は素直に家来の言うことを聞き、自分の本来の仕事に精を出すようになった。家来の用意した器量の良い娘と結婚し、国をきちんとまとめる素晴らしい王になったということである。



 賞の結果が送られてくるまで、二週間かかった。その間、俺は少女と楽しく過ごした。手料理を作ってもらったり、二人でゲームをしたり……一緒に出かけることも何度かあった。まだ太陽の照りつける昼間は外出できない俺だったが、夜や雨の日に二人で誰もいない道を散歩するのはなかなか愉快だった。
 暗い道をスキップのような足取りで駆ける少女の後ろ姿を見ながら、「もうこの子と俺は本物の恋人同士になれたのかもしれない」とふと思った。
 少女は永遠に俺のそばにいて、こうして俺のために駆けまわってくれる。根拠はないが、そんなことを考えるとうきうきした。彼女と一緒なら、生きていてもいい。俺みたいな人間でも、生きられる。存在することを許される感覚はとても心地よい。
 闇の中をぱたぱたと走る少女の黒い姿を目で追いつつ、いつまでもこの日々が続けばいい、と俺は思った。



 そういえば今思い出したのだが、彼女とゲームをしたときのことはかなり印象的な思い出だった。俺の家にはパソコンゲームしかないので、パソコンゲーム用のコントローラを二つ用意して、まず対戦用レーシングゲームを開始した。
「……ゲーム、やり方はわかるか」
俺が訊くと、彼女は自信満々に頷いた。こくり。
 しかし、俺はすかさずこう突っ込む。
「コントローラ、逆向きだぞ」
というか、何故逆向きに持とうと思ったのかが気になった。持ちにくいだろうに。
 恥ずかしそうにコントローラを持ちなおした彼女は、白い車を選んだ。俺は赤くて流れるようなフォルムの車だ。正直、見かけ倒しで使いにくい機体なのだが……まあ、ちょうどいいハンデになるだろうと俺は踏んだ。コントローラを逆に持つような子が、俺に勝てるとは到底思えない。
 しかし、少女は意外と操縦がうまかった。俺がコースを四周する間に、彼女は余裕で五周していた。普通に考えれば彼女の勝ちだが……そうではなかった。
 何故なら彼女の白い車は、用意されたコースを華麗に逆走していたからだ。何度も注意したのだが、一向に普通に走ろうとしなかった。わざとなのか、天然なのかはいまいちわからない。
 その次は、落ちものパズルをやった。ブロックを消す瞬間に「えいっ」とばかりに力を込めてボタンを押すのがなかなかかわいい。俺はそれを見てにやにやしていたため、連鎖を決められて負けることが多かった。勝ったときの彼女は誇らしげだった。彼女が必死になって連鎖を考え、実行しているのを隣で眺めていると、とても幸せな気分だった。
「あ」
十六回目の対戦中。ブロックの落ちるピコピコという音の中から小さな声が聞こえてきたので、俺は連鎖を組む作業をやめて少女の方を見た。
「どうした」
と問うと、バツが悪そうに何かの部品のようなものをさし出された。
「何だこれ」
「……壊しちゃった。ごめんなさい」
よく見ると、コントローラのボタンだった。どうやったら壊れるんだろう、と疑問に思いながら、
「ああ、別にいいよ。安物だし」
と、とりあえず慰めた。もともと、俺には一緒にゲームをする相手なんてこの子くらいしかいない。二つ目のコントローラなんて不要だ。
 俺自身は全く気にしていなかったのだが、よほどショックだったのか、彼女はしゅんとしていた。励ましてやらなければ、と思い、俺は言った。
「大丈夫。コントローラなしでできるゲームをすればいいんだ」
「……どのゲーム?」
「えーと」
いけない。勢いで提案したのはいいが、俺はコントローラなしでプレイできるゲームはあんまり持っていないぞ。どうする。
 脳をフル稼働させて考えつつ、ゲームの起動アイコンを並べたフォルダの中から、クリックとキーボードだけでプレイできるものを選び出して、俺は愕然とした。
「ギャルゲーしかねえ……」
ギャルゲーが何か知らない少女は「それでいい。やろう」と乗り気になってしまい、今更引ける雰囲気ではなくなった。……失言だった。
 彼女と二人でギャルゲー。なんだか眼前で浮気でもしているような背徳的な気分にならざるを得なかったが、俺がキーボードのエンターキーを使い、彼女がマウスを持ってクリックをする――そんな分担作業は案外楽しかった。結局、俺たちは一晩かかって十五人のヒロイン全員を攻略するという偉業をなしとげたのだった。
 何か大切なものを失ったような気もしたが、まあこれはこれでいいか……と思った。



 さて、賞の結果は落選だった。俺は震える手で結果の書かれた紙を破り、そのままゴミ箱へ捨てた。ショックではあったが、落選するのには慣れていたので、そんなに落ち込むことはなかった。
 しかしそれなりには落胆していた。
 少なくとも少女には俺が派手に凹んでいるように見えたらしく、布団にくるまってぼんやりしている俺の肩をぽんぽんと叩きながら、
「元気、出して」
と一生懸命に言った。その言葉に続けて、
「アテンション・プリーズ」
と少女が言う。今のは聞き間違いだろうかといぶかっていると、さらに何度も「アテンション・プリーズ」を呪文のように繰り返しはじめたため、俺は思わずふき出してしまった。
「おいおい、『アテンション・プリーズ』は『テンションを上げろ』の丁寧形じゃないぞ」
俺の指摘は的を射ていたらしい。少女はしばらく虚を突かれたように黙ったあと、またこの間のようにぷいとそっぽを向いた。テンションを上げてください、元気を出してください、がこの子にとっては「ア・テンション・プリーズ」なのか。なかなかおもしろい思考回路だ、と思った。
 次の日から、俺はまた小説を書きはじめた。今度は新しいやつを、だ。また落選するかもしれないが、頑張ってみよう。そして、小説を書きはじめたのを契機に、
「この子においしいものでも食わせてやりたいし、バイトも探そう」
と俺はあっさりひきこもり脱却を決意していた。まあ、日の光の元には出られないので、夜のバイトか在宅でできるものにしよう、と姑息なことを考えてはいたのだが。
 ちょっとずつだが、俺は前に進んでいた。
 彼女もずっと一緒に、進んでくれるものだと思っていた。
 けれどそれは違った。やっぱりあの子は俺と永遠に一緒にいるわけではなかったのだ。



 忘れられない日になったその日は、朝から大雨だった。本来なら外へ買い出しに行くはずだったが、無理だった。雨はやがて嵐となって、俺の住むボロアパートを襲いはじめたのだ。
 俺と共に窓を補強する作業に取り掛かりながら、少女はなぜか始終そわそわとしていた。申し訳なさそうにも見えるし、泣きだしそうにも見えた。
「なんか元気ないけど、どうした」
俺が訊くと、少女は困った様子でこう答えた。
「今日で……お別れ、なの」
「お別れ?」
……俺と?
俺はそう問い返したが、声が震えていた。
「うん」
少女はただ頷いただけだった。
「なんでだ。俺がダメだからか。やっぱり俺のことは嫌いになったのか」
俺が泣きそうな情けない声をあげると、少女はふるふると首を振って否定した。
「じゃあなんでだ。どこか、帰らないといけない場所があるのか。待ってる人がいるのか」
 少女は「待ってる人はいない、けど」と言いながらなぜか窓の外の空を指した。昼間だが、黒い雲が立ち込めていて、風が吹き荒れているのが見えた。
「空……?」
俺の問いには答えず、
「ずっと一緒にいたかった。けど、いられない」
少女はうつむいて、こう言った。
「だって、わたしは人間じゃないから」
人間じゃない。じゃあ何だというのだろう。
 天使、悪魔、死神。
 幽霊、妖怪、幻。
 ――馬鹿な。そんなはずはない。
 しかし、少女が嘘をついているようにも思えなかった。そもそもこの子は嘘をつかないのだ。
 俺は少し前、あの王子と異形の女の小説の話をしたときのことを思い出した。

『人間は人間同士で生きていかなきゃいけないんだよ』

そう言った俺の言葉に、少女は見ているこちらの胸が痛くなるくらいにショックを受けていたっけ。もしも少女が『人間』ではなくて、俺と一緒にいたかったのなら――あのときの俺はこの子を、めちゃくちゃに傷つけたことになる。
 ――人間は人間同士で。
 王子は妖魔の女を刺し殺してしまった。他の女と結婚して、素晴らしい王になった。この物語を、『人間でない』この子はどんな思いで読んだのだろう。
「ごめん」
俺は謝りながら、少女を抱き寄せた。華奢な体だった。少女は黙って俺を抱きしめた。彼女をそっと抱きしめ返しながら思う。この子の体は、こんなに細かったのか。力を入れたら、壊れてしまいそうだ。その柔らかな温かさを感じながら思う。俺なんかでよかったのかな、と。
「いい」
 少女の声は細くて儚げで、外で吹いている強風の音で消えてしまいそうだった。
「それに、もともと、永遠に一緒にはいられなかった」
そういう決まり、だったから。
 そう言って彼女は腕に力を込めた。俺は目をぎゅっと閉じた。消えないでくれ。
 消えないでくれ。一緒にいたい。俺は君がいなきゃダメなんだ。
 君がいないと踏み出すこともできない――俺はそんな人間なんだ。
 叫びたかった。どんなことでもするから消えないでくれと。でも、叫べない。もう別れが近いということがわかっているのに、最後の最後にそんなかっこ悪い俺の思い出を、少女の心に残せるはずがなかった。彼女は俺を知りつくしていて、俺がかっこ悪くて情けない男だと知っているけれど、最後くらいはかっこいい男でいたかった。
「なあ、君の名前、教えてくれないか」
俺はたくさんの言葉の中から、その問いを選び出した。目を閉じたまま彼女を抱きしめて、泣きながら震えている俺に……そよ風のような声がこう囁いた。
「あなたはもう知ってる。わたしの、名前」
「……え?」
腕の中の存在がうっすらと霞むように揺らぐのを感じた。おそらく、彼女が消えかかっているのだ。目を開けて確かめなければならないと思いつつ、目を開けたら彼女が消えているのでは、と嫌な予感が胸を締め付けるせいで、開けられない。
「思い……出して」
俺の記憶の中に、この子の名前がある。確かに、そう言われると、彼女の正体を俺はもう知っているような気がする。金髪のストレートヘアも、まっすぐに俺を見る目も、どこかで見た懐かしいものに思えた。
 でも――それがどこで見た誰なのか、その子の名前は何というのか、その子は俺にとって何だったか。俺にはどうしても思い出せなかった。
 そのかわりに、ずっと言いそびれていた言葉を伝えようと思った。
 俺のために掃除をしてくれた。
 俺のためにカレーを作ってくれた。
 俺を応援してくれた。
 ずっと、一緒にいてくれた。
 俺を見捨てなかった。
 そんな君が――
「大好きだ」
かすれた声だった。最低で、情けない涙声だった。
 だが――言えた。俺はほっと息をついた。
「……嬉しい」
そう言った声は、俺と同じで涙声だった。
 そのとき、ざあざあとうるさく降っていたはずの雨の音が一瞬聞こえなくなって、春の陽気の中にいるように――さわやかな風が吹いた。澄んだ空気が胸一杯に満ちて、どこか違う空間に転移したのかと思った。
 それがたぶん、終わりの合図だった。
 雨の音が聞こえはじめ、腕の中の存在が消えていた。
 目を開けるとそこは、俺一人の空間だった。ゴミためみたいな部屋だった。
 もうあの子はどこにもいない。いないのだ。
 この状況。以前の俺なら後ろ向きな思考に逃げ込んでいたと思う。だが今は違う。あの子のためにも頑張ってみようと思った。
 一人でも、やれるだけやる。
 あの子のことを思い出せなかったふがいない俺だけれど、自分の為にも、あの子のためにも、生きていこう。そう自然に思うことができた。
 強い風が窓枠を揺らして、ガタガタと音をたてて窓を破壊しようとしている。彼女がさっきまで持っていた道具を拾って、俺は窓の補強を再開した。窓の外は嵐が吹き荒れ、闇があふれている。
 大丈夫だ、怖くない。
 だって、もう闇の中でも、ひとりではないのだから。