エピローグ 　結局、あの人はわたしを思い出すことはなかったみたいだ。彼は、わたしという存在は自分の妄想だった、という結論に達したようだった。 　しかし、彼の出した答えは残念ながら間違っている。わたしが部屋の隅のフィギュアにうり二つだったのは、彼はそういう外見が好みなんじゃないかと思ったから、ちょっと姿を借りただけだ。あれは、本物のわたしじゃない。 　わたしは彼の脳内の存在なんかじゃない。確かにあの部屋に、存在した。 　でも、そんなことはもうどっちだっていいのかもしれない。……あの人は、突然現れたわたしをわたしとして認めた。追い出したり、邪険に扱ったりしなかった。とても嬉しくて、思い出してくれなくても、わたしと一緒に過ごしてくれるならそれでいいや、と思った。同じ部屋で過ごした一瞬一瞬が、わたしにとっては大切な宝物だった。 　まあ、やっぱり本当はわたしが消えてしまう前に――思い出してほしかったな。わたしの名前。「ハルカ」って、あの人の口から呼んでほしかった。愛しい声で、あの人がつけた、わたしの本当の名前を呼んでくれたら……よかった。 　わたしって、わがままだ。あんなに尽くしてもらったのに、まだ要求したいことがあるなんて。貪欲で、馬鹿だ。罰あたりだ。 　きっとそれが恋なんだと思う。悲しくてつらいけれど、不幸じゃない。 　それが、恋するってことだ。 　わたしがあの人と初めて出会ったのは、数年前の夜。わたしは、あの人のアパートの前に重傷を負って倒れていた。心の中は憎しみでいっぱいで、わたし以外のすべての命がこの世からなくなってしまえばいいと思っていた。 　でも、あの人はそんなわたしを拾ってくれた。目を覚ますと、あの人の部屋にいた。雑然とした部屋の中で、彼はわたしをそっと撫でてくれた。わたしの傷には包帯が巻いてあった。あまり上手な巻き方ではなかった。 　わたしが目を覚ましたことに気づくと、 「ごめん」 と彼はまず謝った。それから長い時間をかけて、訥々と、わたしに思いを語った。要約すると、 「悪い人間のせいでそんな怪我を負わせてしまった。俺は何もしてはいないけれど、同じ人間だから、謝る。許してはもらえないかもしれないが、人間を嫌いにならないでくれ」 というような内容だった。実際はもっと要領を得なくて、とても文章家を目指す人間とは思えないようなわかりにくい独白だったのだけれど――そんな不器用さが、わたしの心をとらえた。一生懸命な人だな、と思った。 　あの人はわたしをしばらく家に置いていてくれた。いろんな話をしてくれた。学生だったころの話。ずっと抱いていた夢の話。彼女が欲しいけど、こんなんじゃ無理だよな、と笑いながら泣いていたこともあった。 　あの人はわたしを「ハルカ」と名付けた。理由は教えてくれなかったけれど、いい名前だと思う。わたしはこの名前が好きだ。 　そんな楽しい日々が続いたけれど、しばらくしてお別れのときが来た。 　あの人はまた、ごめんと言った。 「俺は働いてない。ただのひきこもりだ」 だから、君を飼ってやれないんだ。 「――ごめんな。」 　悲しかったけれど、寂しくはなかった。雨の日に階段の下で待っていれば、あの人はいつもわたしを見つけてくれたからだ。 「餌をやることはできない、ごめん」 と、彼はよく謝っていた。 　そんなことを謝らなくてもいい。あなたに会えるだけで嬉しい。言葉が話せたなら、迷わずそう伝えていただろう。わたしは、雨が降る日が待ち遠しかった。 　雨が降れば、あの人に会える。それがわたしの生きる目的になった。人間を憎んでいる暇なんてなかった。 　わたしは、恋をしたのだ。 　でも、悪い人間に負わされた傷は、予想よりもずっとわたしの寿命を縮めていたらしい。だんだんと体が動きにくくなり、ある雨の日、わたしは死んでしまった。 　死体をあの人に晒したくはなかった。迷惑をかけてはいけないと何度も思った。結局、わたしはアパートの裏を死に場所に選んだ。 　あの人はきっと、わたしを見つけないだろう。あの人は、自分のテリトリーの外には絶対に出ないのだ。決まったルートをたどって今日もコンビニに向かって、わたしには気付かずに帰宅するに違いない。 　わたしの意識が遠のく。自分と言う存在が希薄になっていく。地に還るのだ。全部、終わりだ――そう思ったとき、あたたかい手が自分に触れるのを感じた。誰かが泣いている。わたしを抱いて泣いている。涙が滴って、わたしの体に落ちる。雨のようだ、とぼんやり思った。 　あなたはだあれ？ 　どうして泣いているの？ 　疑問符が脳に満ち、その誰かの姿を見ることなく、わたしの命の灯が消えた。 　その後のことは、多くを語らない。わたしが語らなくても、もうあなたはよく知っていることかもしれない。わたしと過ごした思い出を、彼は文章にしたためてくれていたようだから。 　ひとつだけ言っておくなら、死後、わたしはちょっとだけ、期間限定でやり直しのチャンスを得た。 　あの人と一緒に幸せな日々を送る、チャンスを。 　思い出してはもらえなかったけど、あの人にいろんなことをしてあげることができた。死ぬ前は与えられることしかできなかった。彼に勇気づけられるばかりで、役には立てなかった。けれど、今度は『与える』ことができた。それがとても、嬉しい。 　たぶんわたしは、あの人の中に確かにわたしがいた証を残すことができた。本当のことを思い出されなくてもいい。わたしを記憶してくれる、それだけで満足だ。 　この春風に乗って、今度こそわたしの魂は流されて消えていく。綺麗な花が咲く中で、花弁と一緒に流れていくことが、少しだけ幸運だと思う。 　ああ、もしあなたが彼に会ったら、こう伝えておいてほしい。 　あなたに会えて、本当によかった。 　わたしはあなたの彼女になれた。 　大好きなあなたと、一緒にいられて――幸せでした。 　さようなら。ありがとう。 　――わたしは人間を、愛します。 終