第三話
トッテム・タウンのはずれに新しくスーパー銭湯ができた。この町の中心にある駅の周辺には商店街以外になにもないが、車で移動する範囲には意外と商業施設が多い。
わたしは、免許も車もバイクも持っていないという、ないない尽くしの女なので、免許と車を持っている友人の氷川ルチカに頼んで、連れていってもらうことにした。
「おはよう!」
「おはよ、あきら」
日曜朝の十一時。大学の前の道路に向かうと、ルチカはすでに来ていた。彼女は非常に几帳面で、どんな待ち合わせでも、必ず先に来ている。いったいどれくらい先に来ているのだか気になって、一時間前に待ち合わせ場所に向かったことがあるが、それでも彼女は平然とそこにいた。まるで、わたしの行動を読んででもいるように。
「ねえルチカ、スーパー銭湯、楽しみだね~。意外とこのあたりにはなかった娯楽だわ!」
「風呂上がりにラーメンがあると嬉しい」
わたしを助手席に乗せ、軽やかに車が走りだす。
氷川ルチカは変わった女の子だ。この大学は変人が多いということで有名だが、彼女は変人という枠でくくるにはあまりにも規格外すぎると思うのだ、ここだけの話。
どこがどういうふうに変なのか?と聞かれると、なにから答えたらいいのかわからなくなる。それくらい変だ。
まず、ファッションセンスがすごい。
黒や紫に統一されたシンプルな服装でキメていることが多い彼女は、「とりあえず黒着とけばいいだろ」という安易な選択をしているわけでは決してない。なぜなら、めちゃくちゃ似合っているからだ。薄ぼんやりとした顔立ちのわたしとちがい、くっきりはっきりとした目鼻立ちの彼女には、シンプルな黒がすごく似合う。
まず、このファッションセンスがトッテム・タウンにおいては異質なものである。とりあえずしまむら、とりあえずユニクロという、投げやりな服装の人間がやたらと多いこの田舎町で、自分に本当に似合う服を知っている彼女は、それだけでちょっと『変』なのだ。
言動もちょっとずれている。中世からタイムスリップしてきたのかと思うくらい、いまどきの娯楽や流行に疎かったりして。わたしも流行には疎いほうだけれど、彼女はスマートフォンもテレビも持っていないみたいに浮き世離れしている。それがまたかっこいいのである、なぜか。
さて、そんな彼女になら、例の緑色のヒーローについて話してもいいのではないか、と最近思いはじめた。理科喫茶のマスターと同じく、信頼に足る友人であり変人だから。
きょう、彼女をスーパー銭湯へ誘ったのも、車の中でならゆっくり話ができると踏んだからでもある。
黙ってアクセルを踏んで、冷静に運転している彼女の横顔を見つめてみる。
「最近、この町に怖い人がいるって噂、知ってる?」
どう話そうか悩んでいたわたしに対し、彼女は前を見たまま、そんな質問をしてきた。
「怖い人? それって、オカルト的な……」
「違う違う。やくざなんだって。この町を取り仕切ろうと思って遠くから来たらしいの」
「やくざって遠征してきたりするものなの?」
そういう裏社会の問題には詳しくないので、別の世界みたいで、ぴんとこない。まあ、謎のヒーローとゼリー状のどろどろに比べれば、現実味のある話かもしれないが……。
ルチカは薄ぼんやりと別のことを考えているわたしを知ってか知らずか、語気を強めてこう言った。
「だからさ、あきら。それっぽい人を見ても近寄ったりしちゃダメよ。危険な目にあってからじゃ遅いんだから」
「ルチカも気をつけてね。黒尽くめだし、オーラあるからさ。お仲間だと間違われちゃうかも」
などとのんきに会話しているうちに、スーパー銭湯へたどりついた。結局、ヒーローの話はできずじまいだ。
受付でタオルと館内着を借り、なかへ入ると、すでに女湯の脱衣場は人であふれていた。オープン直後の混雑をちょっとなめていたかもしれない。
「みんなあきらと似たような思考回路で動いてるのね。考えることはみんな一緒」
「ほんとそう」
ルチカは一緒じゃなさそうだけどね、と言いかけてやめた。なんだか嫌味みたいに聞こえる気がしたからだ。
脱衣場で服を脱ぎ、いよいよなかへ。広い湯場を尻目に洗い場の椅子をひとつとり、シャワーの前に座った。洗い場すらもほぼ満員で、ルチカは遠く離れた別のシャワーの前へと行ってしまったみたいだ。
わたしから離れて人ごみへ消えていくルチカの後ろ姿を見て、なぜかちょっと不安になった。
服すらない状態で、ひとりきり。シャンプーをするために目を閉じる。いつも当たり前にしている動作なのに、どうしてだか、それがすごく無防備で愚かなことに思えた。
真っ暗な視界のなかでシャンプーを泡立てながら、急に背筋が凍りそうになる。
ザ……
その不安さを狙い澄ますかのように、雑音が聞こえた気がした。
ザ、ザザザザ――ッ。
今度ははっきりと耳に届いた。
聞き覚えのある音だ。わたしはあわててシャワーを手にとって、最大の勢いで水を噴出させた。早く、早く。急いで目を開けないと、大変なことになる。
あまりに焦って目を開けたせいで、目にすこしシャンプーが入ってしまったが……いやな予感は的中していた。
あれだけ混み合っていた女湯に、人気がなくなっていた。
「ルチカ!?」
呼びかけてみたが、当然、ルチカもいない。あのときと同じなのだとすれば、おそらくはだれもいないのだろう。いるとすれば、ばけものか。
「ルチカ!! だれか!! 助けて!!」
叫んでもやっぱり反応はない。このあいだ、あの場から生還できたのは緑色のスーツのヒーローに出会ったからだ。でも、あの人がこの場に来るという保証はない。というか、女湯に堂々と入ってくるものだろうか? 正義のヒーローって。
どうしよう。脱衣場に戻るべきか? さっさと服を着たほうがよさそうだが、果たしてそう簡単に行くだろうか。脱衣場にばけものがいたらそこで終わりだ。いまのところ、このシャワーの周辺にはなにもいない。ここにいたほうが、安全なのではないか?
だが、このまま全裸であたふたするのもしまらない。
「とりあえず服!そうしよう!」
大声で叫んでやる気を出して、脱衣場への扉を開けようとダッシュした、そのとき。
声に反応したのだろうか、今まで静かだった背後の湯船から、激しい水音が聞こえた。
慌てて振り返ると、予想通り、黒いゼリー状のどろどろが湯船からどんどんでてくるところだった。
「ひえっ……!」
こうなると、とりあえず服とか言っている場合ではない。人命最優先だ。
湯船からの攻撃に相対するには、湯船と逆側に走るしかないだろう。やっぱり脱衣場への扉を開けるしか……!
そう思った次の瞬間、わたしは左足になにかぬめるものが触れたのを感じた。
「しまっ……!」
気づいたら視界には天井しか映っていなかった。脱衣場に向かうために背を向けていた方向から襲われたというのが敗因だろう。前回よりも圧倒的に素早い動きのゼリー状怪物に足を取られ、思い切りすっ転んでしまったのだ。
こうなるともうダメだ。前回と同じく、ゼリー状のどろどろにすこしずつ絡め取られ、身動きができなくなる。
今回のどろどろはどうやらわたしを外へと運ぼうとしているらしい。じりじりと露天風呂の方向へと引きずられていく。って、このままだと全裸のままでスーパー銭湯の外まで行ってしまうことにならないか!? 殺されるのも人体実験されるのもごめんだが、裸のままで救出されるのもごめんだ!
とは思ったものの、やはり対処法は特にない。前回は深く考えてみたが、今回はもはや打つ手がないことがわかりきっているので、頭のなかは意外と静かだ。
ずるりずるり、このあいだよりも低い位置で、仰向けのままちょっとずつの移動。この鈍足生物、露天風呂への閉ざされた扉をどう打開するのだろう?と思っていると、そのまま扉へと直進。次の瞬間、扉がどろりと溶けた。
「ヒッ……!」
え、そんな能力あるの!?という驚きが背筋をぞわぞわと這っていった。わたしは正直、この生き物をナメていた。鈍足で移動するだけで、生物を絡め取る触手以外に攻撃力は持っていない、と。でも違うのだ。わたしが溶かされていないのは、この生物にとって、いま溶かすべき対象ではないからだ。いつでも、粘液の性質を変えて接触物を溶かすことができる。わたしを殺すことが、できる。
体が外気に晒され、急速に冷えていく。まずい、これはほんとうにまずい……! 次に向かう先は露天風呂の奥、すなわち外だ。露天風呂と外を隔てている外壁をどろりと溶かすだけでいい、この生物にしてみれば簡単なことだろう。
頭のなかで、先程の『どろり』がエンドレス再生されていた。怖くて怖くて仕方がない。自分が溶かされるのも、このまま外へ運ばれていくのも。
「だれか、だれか助けてよ! あのときみたいに!!」
なりふり構わずに大声で叫ぶ。
鈍足生物はわたしの声には特に反応せず、のそりのそりと外へ向かう石の上を歩いていたが、……数分して、急に驚いたように止まった。
「え、なに?」
なにか警戒しているのだろうか?
わたしを持ち上げている触手の力が、きゅっと強まったように感じる。緊張、しているのだろうか。怪物の胸中など知る由もないが。
それは、突然やってきた。このあいだのような予兆などない。
体全体を貫く強い衝撃。
心臓が一気に冷たくなった、というのが最初の感覚だ。青い光の線が、わたしと鈍足生物をまとめて貫いたのが、数秒遅れて感じ取れた。
氷の、槍のような線。
その線をたどっていくと、視線の先には、黒いスーツのヒーローが立っていた。
黒?
緑ではなくて?
背中には、さらりとした半透明の黒マント。このあいだのヒーローに似たマスク。そして、やはり腹部にくっついているウエストポーチのような物体。背はかなり低く、わたしと同じか少し大きいくらいに見える。男性なのか女性なのかは不明だが、緑色のスーツのヒーローとは別人のように感じられた。
すぐにこちらへ近づいて助けてくれるのかと思いきや、ヒーローは特になにもしなかった。露天風呂のへりにまっすぐに立ち、微動だにしない。
この薄情者!ヒーローのくせに!
と思った次の瞬間、わたしを拘束していた生物が、ピシピシと音を立てて凍りはじめた。さきほどの氷の槍の効果らしい。
あまりにゆっくりとした効果なので、わたしはあの一撃が決着だったということに気づけなかったらしい。
徐々に凍りゆく生物は、もはや死を悟っているのか、これといった抵抗もせず、『どろり』を発動することもなく、数分して、完全に凍って地面に落ち、砂のように崩れた。
わたしはといえば、一緒に凍ることはなく、そのまま地面へと降ろされた。このあいだほど高く持ち上げられてはいなかったため、すこし尻餅をつく程度で済んだ。
おそらく、あの生物が『どろり』の対象を選んでいたのと同じく、この黒いヒーローも、凍らせる対象を選ぶことができるのだろう。どのような仕組みなのだか、いまいちわからないが……。
「…………あの、ありがとうございました、助けていただいて」
言葉が通じるのかわからなかったが、とりあえずお礼を言った。このあいだの緑色のヒーローは、敵なのか味方なのかよくわからなかったし、気絶してしまったのでお礼も言えなかった。今回は違う。全裸なのでちょっとしまらないが、助けてもらったら礼くらいは言わなければ。
露天風呂のへりに立つヒーローは、黙って口元に人差し指を持っていって、軽く振った。
「気にしなくていい」とでも言っているのだろうか。なんとなく、そんな気がした。意思の疎通はできるようだ。
「あいつは、いったい」
意思の疎通ができるのならば、事情を教えてくれるのではないか。そう思って、問いかけようとした瞬間、ヒーローはそれを遮るように、すっと右手の人差し指で、露天風呂の外の方を指した。
「なに?」
その指の先に、光が集まっていく。
さきほどの氷の槍と同じ、青い光。
『話を打ち切ろうとしているんだ』と、なぜかはっきりわかった。
「待って、まだ話が……!」
ヒュン!と鋭い矢のような音がして、青い光が飛んでいく。その光は、露天風呂の壁に思い切りぶち当たる。同時に、響く轟音。壁が崩れる音ではなく、世界ごと崩れるような音だ。思わず耳を抑え、目を閉じてしまった。そして……
目を開けたら、もうそこはもとの露天風呂だった。
喧騒。人ごみ。休日のスーパー銭湯。
ヒーローも怪物もいない。
狐につままれたようだった。
白昼夢、という単語が浮かんだ。実は、あれらはすべて、怪物に恐怖心を持つわたしの妄想だったのではないだろうか。ヒーローにもう一度会いたかったわたしが、新たなヒーローを思い描いた、とか。
でも……。
わたしは、あらためて自分の胸に手を当ててみた。胸の中心が、あきらかに冷えていた。氷の槍を打ち込まれたように。ずっと露天風呂にいたのであれば、そんな冷え方はしないだろう、たぶん。
ということで……わたしはまた、ヒーローに出会ってしまった。
そういうことなんだろう。
+++
その後、露天風呂を楽しみ終わって、時計を見直すと、ちょうど一時間くらい経過していた。どうやら、向こうの世界へ行っているあいだ、こちらの世界の時間は進まないようだ。
ルチカはすでに風呂から上がっていたようで、休憩所で漫画を読んでいた。
「あきら。ごめん、先に上がっちゃって」
「ううん、いいの。ひとりでゆっくり露天風呂につかってきたし、超満足!」
そんなやりとりをしていると、彼女がすっとなにかをさしだしてきた。手のひらに収まるくらいの包みだ。
「これ、プレゼント」
「え、なになに。くれるの?」
開けてみると、ピンクの紙石鹸が出てきた。ここの売店で売られているものだろう。最近はめっきり見かけなくなったものだが、わたしはこの古風なグッズが大好きだった。
「めちゃくちゃかわいいじゃん。ほんとにもらってもいいの?」
「うん。ちょっとしたお詫びだから」
「お詫び?」
えーっと、なにか詫びられるようなこと、したかな。
こっちとしては、車を出してもらったうえ、さらに休憩所で待たせるという、むしろ詫びたい状況なんだけど……。
「なんでもない。紙石鹸、好きそうだと思ったの」
ルチカはそんなふうに言い直して、読んでいた漫画を本棚へと戻した。
「うん、たしかに大好き。ありがとね、ルチカ。今度お返しするから」
「お返しは、しなくてもいいよ。じゃ、帰ろっか」
帰りの車は、ひどく静かだった。本来はスーパー銭湯の感想など言うべきなのかもしれなかったが、ルチカはもともと無口だから、わたしが話しはじめるまでは黙っている。
わたしの心のなかは、緑色のスーツのヒーローと、黒いスーツのヒーローでいっぱいだったので、スーパー銭湯の感想なんて、とてもじゃないけど出てこなかった。ヒーローのことを話そうにも、先ほどのできごとはまだ整理しきれていないし……。
ぐちゃぐちゃと思い悩んでいるあいだに、いつのまにか車から降ろされ、ルチカと別れた。
走り去っていくルチカの車を見送って、ふと、思考を止めて手元を見る。ピンク色の桜の花びらの形をした紙石鹸がある。ただの長方形ではないところがすごくかわいらしくて、わたしの好みだった。
ルチカはこんなにもわたしのことをわかってくれているのに、わたしは、ルチカとは関係のないもので頭がいっぱいだったんだ。
ヒーローについてはこれ以上考えても詮ない気がして、わたしはルチカへのお返しについて考えはじめた。なんの取り柄もないわたしだけれど、こういう、切り替えが早くて前向きな姿勢だけは自慢だった。
+++
わたしの運命が決定的にねじ曲がってしまったのは、その日の夜だった。
理科喫茶のマスターから、こんなメールが届いていたのだ。
「やっほー、あきらちゃん。突然で悪いんだけど、大事な話がある。あしたの午後七時、店に来てくれないだろうか」
いつものマスターからは想像もつかない深刻そうな口調で書かれたそのメールこそが。
ほんとうの非日常の始まりだったのだと、あとになってわたしは気づくことになる。
20181108